男爵と令嬢
それからまたしばらくして、アリッサが今度こそマジメに労働に勤しんでいると、ダグノが顔色を変えて近づいて来た。
「おい、こっちへ来なかったか?」
「……誰がですか?」
ただ事ではない様子にアリッサは身構えた。
ダグノは周囲に誰もいないことを素早く確かめてから、
「プルドイリスのご令嬢だ」
「えっ? シャーロナさんっ?」
プルプルと頭を横にふるアリッサ。いったいどういうことか。
「急に逃げ出したらしい。男爵とオーナーも彼女を探している」
「こ、こちらには来られませんでした」
「そうか。まぁ、客室にはこないだろうが……もし彼女を発見したらすぐに教えてくれ」
立ち去ろうとするダグノに向かって、アリッサは思い出したように声をかけた。
「あの、シルフに聞いてみたらどうでしょう?」
「もうやってる。だが身隠しされているようだ」
身隠しというのは、隠蔽または潜伏と呼ばれる魔法のことだ。探索魔法や探知魔法から逃れるために、人や物に対して用いられる。
そんなふうに言うと何やらスパイの隠密作戦みたいに聞こえるが、必ずしもそうではない。よくあるケースとしては、身分の高い者がお忍びの際に使用する。身隠し効果を持つアクセサリーなどを身につけることによって、正体を隠したり、あるいは自分の居場所をくらませるのだ。
シャーロナが身隠しを用いているということは、彼女がこの店に来ていることを世間に知られたくないということだ。なぜ秘密にする必要があるのか、その理由は分からないけれど……。
ダグノが立ち去った後、数分もたたないうちにアリッサは彼女と遭遇することになった。
広間の客に料理を運び終えてから、引き下がろうとした時だった。突然、駆け込んで来たローブ姿の客とぶつかりそうになった。
「あ、あぶないっ……! ちょっと、お客さまっ!」
ローブの客は振り返りもせずにテーブルの間をぬけ、一目散に広間を横切ろうとしている。
「待ちなさい! シャーロナ!」
すぐ後から口ヒゲの中年男性が追いかけて来た。その手に握られた杖がさっと宙をはらう。
間髪入れず床が上下にはずんだ。床板がせり上がり、振動が一直線に広間を伝播する。その様子はまるで得体のしれない何かが床下を掘り進んでいるかのようだった。
おそらく足止めをねらったのだろう。だが、わずかにそれた。隅に置かれていた観賞用の壺が転倒して派手に割れた。
ローブの客が驚いて振り返る。フード下から垣間見えたその顔はまぎれもなくシャーロナだった。
「どこへ行くつもりだ、シャーロナ! 止まりなさい!」
口ヒゲの男性はプルドイリス男爵だ。
「お父さま……もうムリです。もう帰りましょう……」
「何をバカなことを。そのようなワガママを言うものではない!」
シャーロナの首がはげしく振られた。
「もうイヤなのっ。わたくしは、もう、あれはいらないわ!」
「そんなことが許されると思っているのか!」
シャーロナが身をひるがえす。ふたたび走り出した彼女を、父親である男爵が追う。
「シャローナ! 待ちなさい! どこへ行くつもりだ!」
「あのっ、ちょっと!」
アリッサは思わず止めようとしたがムダだった。二人とも広間から出て行ってしまった。
壺の破片が盛大に散らばっている。店内での魔法の使用は原則ご遠慮事項なのに……(そして店内で走るのはもっとご遠慮事項だ)。
(ど、どうしよう?)
追うべきか? それとも先に上司に報告すべきか? しかし、よくよく考えてみればダグノにしろスレンヤにしろ、どこにいるのか分からない。
「シルフ」
アリッサは視線をわずかに上げて、懇願するようにつぶやいた。
「スレンヤさんとチーフに伝えて」
沈黙の後、ヒュッと一陣の風がアリッサの眉間をかすめた。
どうやら伝わった。
アリッサはプルドイリス親子の後を追って広間を出た。




