星を泳いでいた命たち
無数の赤い炎が、まるで天から降る涙のように海へと落ちていった。
そして二つの命も、青い海原へ静かに放り出された。
パラシュートが開く音。衝撃。水しぶき。
地球は傷ついた。
だがその傷は深くはなかった。
カガトとARK-μが命を賭して破片を分離したことで、大半は海上に落下し、都市への直撃を免れた。
人々が暮らす街は、かろうじて守られた。
静かな波間に、棺型のカプセル――アクア・ステラが浮かんでいた。
波に揺られながら、神崎とリンはゆっくりと目を開く。
全身が鉛のように重い。
地球の重力が、肌に沈み込むように押し寄せていた。
「……生きてる……」
リンの声は震えていた。
神崎はそっと彼女の手を握る。
その手は、以前より重く――そして確かに温かかった。
「ああ、生きてる」
空を見上げる。
燃え尽きていない破片が赤い尾を引きながら流れていく。
その中に、柔らかく緑に光る粒が混じっていた。
アクア・ステラだ。
命の器たちが、ほかにも大気圏を突破して海へ降りてきている。
そのとき、船のエンジン音が近づいた。
波を切り裂きながら一隻の漁船がまっすぐ向かってくる。
操縦席に立つのは――
「アヤコさん!」
船首に立つアヤコ。その隣には、地球で再生を誓った仲間たち。
「無事だったのかい。迎えに来てやったよ」
低い声。強い瞳。
その瞬間、船の舷側から海へ飛び込む影があった。
「ユウ! リン!」
水をかきながら近づいてくる少女。
「……カンナ!?」
二人は同時にハッチを押し開ける。
あの顔、あの声、あの笑い方。
「びっくりした? 死んだと思ったでしょ?」
カンナは息を弾ませ、濡れた髪を揺らして笑った。
「わたしもね、あの棺型アクア・ステラで降りてきたんだよ」
言葉の端が、震える。
「もう死ぬって覚悟したとき、来てくれたんだ……アクア・ステラが。
あとでわかった。ARK-μが射出してくれたんだって」
声が揺れる。
「私の漂流軌道を、どこにいるかも分からないのに……ずっと探してくれてた」
リンがそっと繋いだ。
「二基あったアクア・ステラは……カンナのために使われたのね。
本当に生きてて、良かった……」
その瞬間、神崎の脳裏にあの沈黙が蘇った。
「そうだ……あのときARK-μが“尋ねてきた”んだ。
カンナが消えた方向を」
数秒の沈黙。
AIにとっては永遠とも言える時間。
そして返ってきたのはただ一言――『確認しました』
「助かる確率が低すぎて、言えなかったんだ。
だから『確認した』とだけ答えた。あの時の沈黙は……」
希望を持たせないために。
絶望させないために。
それでも諦めないために。
ARK-μは黙って、ずっとカンナを探し続けていた。
「二人乗りなんて……。
私、ひとりで……ほんとに、すごく……怖かったんだよ……」
カンナがアクア・ステラに掴まりながら、頬を膨らませる。
「ずっと一緒だったんでしょ、この狭い中で。……いいなぁ」
「馬鹿なこと言ってないで」
アヤコの呆れた声が海に響く。
「早く二人を引き上げておやり、カンナ」
ロープが投げられ、カンナが器用に結びつける。
何人もの手が伸び、神崎とリンは甲板へ引き上げられた。
金属の甲板が背中に響く。
久しぶりに感じる“地球の重さ”だった。
その重さが、なぜか心地よかった。
続いてカンナも引き上げられ、濡れたまま二人に駆け寄る。
三人は言葉もなく抱き合った。
生きていた。繋がっていた。
空ではまだ赤い流星が流れている。
父の命が、あの光のどこかにいる。
失われたものは多い。戻らないものも多い。
それでも――
抱き合う三人の体は温かかった。
そのとき、通信機が音を立てた。
静電気を帯びた雑音。
そして、聞き慣れた声。
『みなさん、ご無事のようで何よりです。
私の入ったアクア・ステラも回収していただけると嬉しいのですが……』
――ARK-μ。
神崎とリンは息を呑んだ。
「……どうして? 君は父さんと一緒に……」
『残念ながら、カガト氏は亡くなりました。
遠隔操作で支えていたパワードスーツも“ゴースト” も、ドームと共に消失しました』
その声は穏やかなままだった。
だがその言葉は、神崎の心臓を凍らせた。
『しかし私のコアは、アヤコ氏が地球で提供したバックアップ機に残っています。
あらかじめアクア・ステラに移し、脱出させていました』
『カガト氏と共にいたギアは、復旧時に管制室の予備コアへコピーした個体でした。
遠隔で、最後まで彼の傍にいました』
神崎は言葉を失った。
父は独りではなかった。
最期の瞬間まで、ARK-μが寄り添っていた。
それが救いなのか、それとも――
やがて神崎は静かに頷いた。
「……ありがとう」
その一言が、精一杯だった。
『この体はアヤコ氏からお借りしたもの。
そろそろ返さなくてはいけませんね。
それに――アストラ・ヴィータ・プロジェクトを、見届けなければ』
アストラ・ヴィータ。
星に生きる命。
そのとき、夜空が動いた。
赤い光が消え――
代わりに無数の“緑”の光が、天から流れ始めた。
柔らかく、優しく光る粒。
何百、何千、何万という光。
天の川のように夜空を満たしていく。
アクア・ステラだ。
すべてが命を載せた器。
かつて星を泳いでいた小さな命――
淡水魚たちが、帰ってきていた。
「きれい……」リンが呟く。
「……本当に帰ってきたんだ……信じられない……」
カンナの声が震えた。
アヤコは黙って、メガネを指で押し上げ、静かに外した。
神崎は空を仰ぐ。
緑の光の川。命の川。
父が造り、人のために奪い返そうとし、最後に命を賭して守ったもの。
それは人だけのものではない。
魚だけのものでもない。
――命そのものの輝き。
父の夢も、母の夢も、ARK-μの願いも、
すべてがあの光の中に息づいている。
神崎は呟いた。
「父さん……母さん……」
涙が頬を伝う。
それでも言葉は続いた。
「僕たちは、命を繋いだよ」
緑の光が波に映り、海が星空のように輝く。
「この星に、もう一度――」
拳を握りしめる。
リンとカンナがそっと肩に手を置いた。
「泳がせるよ。あの小さな命たちを」
夜空は祝福のような光で満ちた。
赤い破片は消えた。
だが緑の光は流れ続けている。
命は続く。
波の音だけが静かに響いていた。
そして船は、星降る海を、ゆっくりと進んでいった。
新しい明日へ向かって――
【終】




