分離の光
大気圏突入仕様の棺型アクア・ステラに入った神崎優希と林芽衣。
透けたカプセル窓越しに、遠ざかるアクア・ドームの巨影を静かに見つめていた。
アクア・ドームの落下の速度は容赦なく加速し、大気圏の摩擦熱が装甲を赤く染め始めていた。
地球の重力に引きずられる巨体を、必死に抗うESPRO艦隊のトラクター光線に支えられながら、ゆっくりと回転していた。青白い光の網が外装を締め上げ、艦隊のエンジンが無音の咆哮を虚空に放つ。
耐熱ジェルの揺らぎの中で、二人は指を絡め、互いの存在を確かめ合う。言葉はなく、ただ沈黙が二人の心を繋いでいた。
「ユウ……お父様とARK-μは、あの中に……」
リンの声が震える。神崎は彼女の手を強く握り返し、頷く。
「あの二人が、すべてを賭けたんだ。命と引換えに」
生体認証を終えたカガトとARK-μは、アクア・ドームの深部、リングコアの制御室にいた。崩落した天井から剥き出しになったケーブルが火花を散らし、赤い警告灯が点滅する中、神崎加賀斗とARK-μは、最後のシーケンスを前に向かい合っていた。カガトの宇宙服は血と汗にまみれ、ARK-μの鋼鉄のボディは傷だらけだったが、二者の視線は揺るぎない。
「思ったより時間がかかったが、これで終わりだ。ARK-μ分離シーケンスを起動する。」
『……カガト氏。わかっていると思いますが、分離成功後は、おそらく地球からの砲撃を受けこのアクア・ドームは破片となり地球に落下します』
「そんな事は、言われなくても承知のうえだ」
アクア・ドームを二つに分裂させるための、緊急プロトコル。モジュールAとBの分離――それは、地球への脅威を最小限に抑えるための、最後の賭けだった。
ARK-μのカメラアイが、カガトを捉える。合成音声が、静かに響いた。
『……カガト。あなたの選択を、私は誇りに思います。』
カガトはわずかに目を細め、苦い笑みを浮かべた。
「AIのお前に、そんな感情があるとはな。……だが、感謝する。」
二者は言葉を交わすことなく、シーケンスを起動した。アクア・ドームの構造体が震え始め、爆破ボルトが一斉に作動。金属の断裂音が内部を震わせ、巨大な亀裂がリングコアを中心に広がっていく。カガトとARK-μは、その中心で静かに立ち尽くす。自己犠牲の瞬間――アクア・ドームは、大気圏突入前に、二つの巨大な塊へと分離していった。
ESPRO艦隊旗艦〈ジャスティティア〉 ブリッジ。
「分離を確認。モジュールA、地球への落下は不可避……間に合いません!」
オペレーターの報告に、リアム・グレイフィールド准将は歯噛みした。
「……くそ。しかし、まだ終わりじゃない。モジュールBの牽引継続。 こいつだけは 絶対に地球へ落とすな」
「地球側より通達。これよりモジュールAの破壊作戦に移行するとのことです」
* * *
地球防衛局の迎撃管制室では、緊急プロトコル“アトラス・フォール”が発動されていた。モジュールAの落下軌道は、南太平洋上空を通過し、数分後には人口密集地に到達する可能性が高かった。
「ターゲットロック完了。モジュールA、質量推定2.4億トン、構造強度レベル7。破壊には三段階迎撃が必要です」
主任技術官の声が、緊張に満ちた空気を裂く。
「第一段階、重粒子レーザー照射開始。目標外殻の熱応力限界を超えさせ、構造破断を誘発」
軌道上のOIP-07から、直径数メートルの重粒子レーザーが発射される。赤紫色の光線が虚空を貫き、モジュールAの外殻に命中。瞬間、装甲表面が白熱し、内部の支持構造が軋みを上げる。
* * *
リングコア制御室――その中心に立つカガトとARK-μの視界が、突如として白紫色の閃光に包まれた。重粒子レーザーが外殻を貫いた瞬間、制御室の壁面が膨張し、熱衝撃波が金属を歪ませながら襲いかかる。
「来たか……」
カガトは呟いた。
ARK-μは即座に遮蔽フィールドを展開し、カガトの身体を包み込むように覆った。だが、レーザーの出力は想定を遥かに超えていた。装甲が焼け、制御室の床が崩落し始める。警告灯が一斉に赤から白に変わり、システムは最終段階の崩壊を告げていた。
『カガト氏、遮蔽限界まであと3秒。生命維持装置、臨界点に達します』
「……ARK-μ。もう守らなくていい」
カガトは微笑みながら、ARK-μの胸部に手を添えた。その瞬間、制御室の天井が崩れ、超高温のプラズマが流れ込む。ARK-μのボディが軋み、カガトの宇宙服が焼け焦げていく。
『……記録完了。あなたの選択は、未来に継承されます』
ARK-μのカメラアイが最後に捉えたのは、カガトの静かな笑顔だった。次の瞬間、制御室は閃光に呑まれ、モジュールAの中心部は完全に蒸散した。
「……父さん」
神崎優希の叫びは、密閉されたカプセルの中で虚空に吸い込まれた。だがその声は、確かに宇宙の果てに届こうとしていた。
彼の視線の先――カプセルの窓越しに見えるモジュールAは、まるで巨大な彗星のように、赤熱した尾を引きながら地球へと落下していた。だがその軌道上に、突如として白紫の閃光が走る。
「……来るぞ」
彼はリンの肩を抱き寄せ、目を凝らした。
モジュールAの外殻に、重粒子レーザーが直撃した。瞬間、装甲が白く膨張し、表面の金属が泡立つように崩れ始める。まるで巨大な花が、真空の中で音もなく咲き乱れるようだった。
「外殻が……剥がれていく……」
リンが呟く。次の瞬間、複数のキネティック・インパクターが、裂け目に向かって突入した。秒速12kmの衝撃が、内部構造を粉砕し、モジュールAの胴体がゆっくりと折れ曲がる。
「……制御室は、あの中心部だ」
神崎の声は震えていた。だがその目は逸らさない。
そして――
第三段階。広域プラズマ拡散弾頭が、モジュールAの心臓部に到達した。青白い閃光が一瞬、宇宙を昼のように照らし出す。その光の中で、モジュールAは音もなく崩壊した。巨大な構造体が、まるで砂の城のように崩れ、微細な粒子となって四方へと散っていく。
「……消えた……」
神崎は呆然と呟いた。そこにあったはずの父の姿も、ARK-μの鋼の身体も、今はもうどこにもなかった。ただ、光の残滓だけが、星々の間に漂っていた。
リンが、そっと彼の手を握る。
「でも……残ったよ。あなたの中に。あの人たちの意志が」
神崎は頷いた。涙が頬を伝うのを、拭おうとはしなかった。
カプセルの外では、アクア・ドームの破片が流星のように燃え尽きていく。その中に混じって、無数の球体型アクア・ステラが、白い尾を引きながら地球へと降下していた。稚魚、微細藻類、そして未来の命を宿した小さな箱舟たち。
神崎は、窓の向こうに広がる青い地球を見つめながら、静かに言った。
「……ありがとう、父さん。ARK-μ。俺たちは、ちゃんと受け取ったよ」
神崎がそう呟いた瞬間。
ふっと、耳の奥が揺れた。
声ではない。音でもない。
ただ、水面をかすめる風のような、意識の端を撫でる感覚。
――ユウキ。
たった 一音。
振り返っても、そこには何もない。
だが、リンは息を飲んだ。
「……今、なにか聞こえたよね」
神崎は答えなかった。ただ、目を閉じて微かに笑った。
「うん。大丈夫。まだ――ここにいる。」
カプセルは静かに降下を続ける。
地球は青く、揺らぎ、受け入れるように広がっていた。
命は、消えてなどいない。
ただ、生まれなおすだけだ。
未来の海へ、まだ見ぬ鼓動の群れへ――。




