最後の別れ
宇宙の深淵が、二人を包み込んでいた。
神崎優希とリン・芽衣は、音のない世界で互いの呼吸だけを頼りにしている。磁気ブーツがアクア・ドーム外壁を掴むかすかな振動。それだけが、まだ巨大な鉄の塊に「立っている」という現実を伝えていた。
眼下には――あまりにも巨大で、あまりにも重い、青い惑星。
もはや「故郷」と呼ぶには遠すぎ、恐ろしいほどの圧で迫ってくる地球。
アクア・ドームは、浮かぶ楽園ではない。
切り離しに失敗したモジュールAとBは結合したまま、巨大な残骸となって落ちている。重力に引かれ、滅びの軌道を描きながら。
その絶望的な巨体の後方から、光が現れた。
「……来たわ」
リンの声に、神崎が顔を上げる。
影から姿を現したのは、ESPRO艦隊――旗艦〈ジャスティティア〉を中心とした精鋭のV字陣形。まるで、墜ちゆく巨獣を仕留める狩人のように回り込んでいく。
青白い光の索が一斉に放たれ、外壁に突き刺さる。
全艦がメインスラスターを最大出力で噴射した。
地球の重力に抗う、人類最後の抵抗。
その凄絶な光景に、神崎は息を呑む。
だが、リンの声は静かだった。
「……無茶よ」
「え?」
「あの質量を……艦隊全力でも引き離せない」
事実、落下速度はほとんど鈍らない。
艦隊は、ただ巨大な錨を抱えたまま地球へ堕ち続けていた。
「じゃあ……何のために……」
「時間稼ぎよ」
リンの瞳が、神崎の視線をまっすぐ射抜く。
「グレイフィールド准将は破壊作戦を止めてくれた。でも……救い切れはしない」
「私たちが分離作業を終えるまで――一秒でも引き延ばすための抵抗」
ESPROが自らを危険に晒してまで稼ごうとする時間。
そのすべてが、今、自分たちに託されている。
その瞬間――通信が割り込んだ。
『――優希! 無事だったか!』
ノイズ混じりの声。
振り返ると、二つの影が牽引光を切り裂きながらこちらに飛来していた。
パワードスーツの――ARK-μ。
そのアームに牽かれているのは……父、神崎加賀斗。
磁気ブーツが外壁に着地し、カガトが駆け寄る。
「優希……! よかった、本当に……!」
「父さん……カンナが……」
一瞬で感情が溢れ、神崎は言葉を失う。
カガトも、隣にいる人物に気づき、眉を寄せた。
「……リン技術士? カンナはどこだ」
その問いが、堰を切った。
神崎は父の胸にしがみつき、拳で叩く。
「父さん……カンナが僕を助けたせいで
宇宙に消えたんだ……早く助けに行かないと!」
嗚咽がヘルメット内に反響する。
神崎はARK-μを振り返り、叫んだ。
「ARK-μ! カンナを捜索してくれ! 彼女が死んでしまう前に!」
祈りにも似た声へ返ってきたのは――氷の論理。
『要請を拒否します』
「……なんだって?」
『現在最優先事項はモジュールA・Bの分離作業。
捜索は著しい遅延を招きます。それは地球の破滅に直結します』
「お願いだ! 今もこうして助けに来てくれたじゃないか!」
神崎の叫びに、ARK-μはすぐには答えなかった。
沈黙。
その一瞬が、まるで、論理の奥で何かを探しているようだった。
『現在、彼女からの交信もなく、座標もわかりません。
最後に視認した方向は?』
「そうだ! 地球の方へ……落ちていった……」
『確認しました。……時間がありません。手短に話を済ませます』
『残る脱出可能な船は、一隻もありません』
『ただし――代替手段があります』
神崎は、言葉を失った。
さっきまでカンナの話をしていたはずなのに――
いつの間にか、話題は自分たちの脱出にすり替わっていた。
「……待って。カンナは……どうなるんだ?」
ARK-μは、すぐには答えなかった。
通信回線の向こうで、わずかな沈黙が流れる。
神崎には、それが拒絶に思えた。
だが、実際には――違った。
ARK-μは、複数の選択肢を同時に計算していた。
カンナの救出方法は存在する。だが、成功率は限りなく低い。
説明には時間がかかる。判断には迷いが生じる。
そして今、最も確実に救える命は――神崎とリンだった。
その沈黙は、語らないことを選んだ沈黙だった。
『以前リン技術士に設計図を渡して製作してもらった棺型大型アクアステラを覚えていますか』
「はい。」
『あれは、私が独自に設計・製造した、大気圏突入仕様の緊急脱出用〈アクア・ステラ〉です。内部の生命維持装置と耐熱ジェルが、搭乗者を高熱と衝撃から保護します』
「……あの大型アクア・ステラ、私達の為に……」
『万が一の“誤差”に備えるのも、論理です』
『神崎博士、リン技術士。あなた方はこれで脱出して下さい』
「待ってくれ! 父さんは? ARK-μは!?」
「俺たちは残る」
カガトが断言した。
最後のリングコア分離には、自分の生体認証が必要だと。
「そんな、一緒に行く方法は――」
「ないんだ、優希」
ヘルメット越しに、額をそっと触れ合わせる。
「母さんの墓前に……すまなかったと、伝えてくれ」
神崎の喉が詰まる。
「……父さん」
「俺は、間違っていた。エデンに囚われて、本当に大切なものを見失っていた。
お前と……マリを」
カガトの声が、かすかに震えた。
「だが、お前は違う。守るべきものを、ちゃんと見ている」
「だから——お前は、俺のようにはなるな」
それは、短い――けれど決して覆らない別れだった。
カガトはリンに向き直る。
「……すまなかった」
リンは震える腕で抱きしめる。
カガトはその背に、不器用に手を添えた。
「優希を、頼む」
「……はい」
『カガト氏、時間です。』
二人は、死地へ向けて歩き出す。
青い地球光が、その背中を照らしていた。
神崎は、ただ呆然と立ち尽くす。
父が残した棺と、遠ざかる背中だけを見つめて。




