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星を泳ぐ小さな命  作者: たんすい
第1章:喪失の水辺
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量子の残響

 ESPROエスプロの小型強襲シャトルのブリッジは、絶望的な沈黙に支配されていた。

 大気圏突入のタイムリミットを示すアラートが、無情な赤色で点滅している。


「……ダメだ。これ以上は無理だ」


 ハル・エンデル少尉が、低い声で言った。

 青い瞳はセンサーが映し出すノイズの嵐――広大な残骸のデブリ・フィールドに向けられている。

「ビーコンは沈黙、生命反応も途絶えた。酸素も尽きているだろう。これ以上の捜索は、我々が巻き込まれるだけだ」


 彼が操縦桿に手をかけ、機首を母艦〈ジャスティティア〉へ向けようとしたその腕を、リンの細い指が掴んだ。

 その力は、想像以上に強かった。


「待ってください」

「リン技術士、気持ちは分かる。だが、軍人として――」

「違うんです!」


 リンの声は、ほとんど叫びだった。

「理屈じゃない……! 私、彼を感じるんです!」


 ハルは眉をひそめ、彼女を見た。

 その瞳には、恐怖でも絶望でもなく、異様なほどの“確信”が宿っていた。


「感じる……とは?」

「うまく言えません。でも、この胸の奥が、ずっとざわついてる。まるで……」


 リンは言葉を詰まらせ、喉元を押さえた。

 あの時の感覚……そう――ユウと量子リンクを繋いだ直後、彼女を襲った急性アナフィラキシーショック。

 サラマンダー由来の神経干渉が、ユウの刺激信号に過剰反応した、あの圧倒的な「接続感」。

 喉が締まり、呼吸が浅くなる。

 だがそれは、恐怖ではなかった。

 むしろ――彼が“そこにいる”という確信が、体の奥から湧き上がっていた。


「感じるんです……彼と量子リンクで繋がった時の感覚が、今もまだ残ってる。

 彼は生きています、この繋がりがまだ消えいないから!」


 ハルは言葉を失った。

 非論理的な主張だ。だが、その狂気じみた真剣さが、彼の中の“軍人”ではない部分を静かに揺さぶった。


「少尉。あなたは艦に戻ってください。これは命令違反の要請です。

 私は……私だけ、ここに残ります」


「馬鹿を言うな! 君も死ぬ気か!」

「彼を待ちたいんです。近くにいるから」


「予備の酸素ポンプと、小型EVAブースターを持っていくといい」

「ありがとうございます。ハル少尉」

 リンは決意を固め、シャトルのエアロックへと向かった。


「必ず、生きて戻ってこい」

 その言葉には、軍人としての命令ではなく――

 彼自身の祈りが、微かに込められていた。


 ハルはしばし彼女の背中を睨みつけたが、やがて深く息を吐き、コンソールを叩いた。

「……兵士に告ぐ。彼女に予備装備を持たせろ。我々はこれより帰艦する。――彼女の“自己都合による離脱”を許可する」


 それは、軍人としての論理(命令)と、人間としての情理(良心)の、ぎりぎりの妥協だった。


 数分後。

 リンは一人、アクア・ドームの半壊したドッキングベイに降り立った。

 シャトルが遠ざかる推進光を見送り、完全な静寂が訪れる。


(ユウ……どこ……)


 胸の奥で微かに疼く「残響」だけを頼りに、リンはEVAブースターを微噴射させた。

 残骸の海を漂う。

 凍りついた魚の死骸が、サーチライトを浴びて幽霊のように過ぎていく。


 酸素残量計の数字が、着実に減っていく。

 それと反比例するように、胸の疼きは強くなっていった。


(近い……!)


 裂け目の向こう――開けた宇宙空間へと身を乗り出したその瞬間。

 闇の奥から、ゆっくりと、何かが近づいてきた。


 星の光を背負った、一つの白い影。


「……ユウ……?」


 カンナが最後の力を振り絞って放った神崎の宇宙服が、計算された軌道通りに――

 寸分違わず、ドッキングベイへと滑り込んでくる。


 それは、計算と祈りが重なった軌道だった。

 星々の海を越え、神崎は――まさに“そこ”へと届いた。


 リンは叫びながらブースターを全開にした。

「ユウッ!」


 ヘルメットのバイザーは曇り、顔は見えない。

 リンは震える手でスーツを掴み、ドッキングベイの壁に固定した。

 自分のヘルメットを彼のバイザーに押し当てる。


「ユウ! 聞こえる!? リンよ!」


 骨伝導で、声が届く。

 バイザーの奥で、閉じられていた瞳が、ゆっくりと、ゆっくりと開いた。


 虚ろな焦点が、目の前のリンを捉える。

「……リン……?」


 そのか細い声を聞いた瞬間、リンの目から涙が溢れ出した。

 彼女は彼のスーツを抱きしめ、無音の宇宙でただ泣き続けた。


「よかった……間に合った……!」


 サラマンダープロトコル(=遺伝子治療)の副作用がもたらした“量子の残響”は、

 絶望的な距離と時間を超えて――

 宇宙の静寂の中で、二つの命は、確かに再び結びついた。

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