量子の残響
ESPROの小型強襲シャトルのブリッジは、絶望的な沈黙に支配されていた。
大気圏突入のタイムリミットを示すアラートが、無情な赤色で点滅している。
「……ダメだ。これ以上は無理だ」
ハル・エンデル少尉が、低い声で言った。
青い瞳はセンサーが映し出すノイズの嵐――広大な残骸の海に向けられている。
「ビーコンは沈黙、生命反応も途絶えた。酸素も尽きているだろう。これ以上の捜索は、我々が巻き込まれるだけだ」
彼が操縦桿に手をかけ、機首を母艦〈ジャスティティア〉へ向けようとしたその腕を、リンの細い指が掴んだ。
その力は、想像以上に強かった。
「待ってください」
「リン技術士、気持ちは分かる。だが、軍人として――」
「違うんです!」
リンの声は、ほとんど叫びだった。
「理屈じゃない……! 私、彼を感じるんです!」
ハルは眉をひそめ、彼女を見た。
その瞳には、恐怖でも絶望でもなく、異様なほどの“確信”が宿っていた。
「感じる……とは?」
「うまく言えません。でも、この胸の奥が、ずっとざわついてる。まるで……」
リンは言葉を詰まらせ、喉元を押さえた。
あの時の感覚……そう――ユウと量子リンクを繋いだ直後、彼女を襲った急性アナフィラキシーショック。
サラマンダー由来の神経干渉が、ユウの刺激信号に過剰反応した、あの圧倒的な「接続感」。
喉が締まり、呼吸が浅くなる。
だがそれは、恐怖ではなかった。
むしろ――彼が“そこにいる”という確信が、体の奥から湧き上がっていた。
「感じるんです……彼と量子リンクで繋がった時の感覚が、今もまだ残ってる。
彼は生きています、この繋がりがまだ消えいないから!」
ハルは言葉を失った。
非論理的な主張だ。だが、その狂気じみた真剣さが、彼の中の“軍人”ではない部分を静かに揺さぶった。
「少尉。あなたは艦に戻ってください。これは命令違反の要請です。
私は……私だけ、ここに残ります」
「馬鹿を言うな! 君も死ぬ気か!」
「彼を待ちたいんです。近くにいるから」
「予備の酸素ポンプと、小型EVAブースターを持っていくといい」
「ありがとうございます。ハル少尉」
リンは決意を固め、シャトルのエアロックへと向かった。
「必ず、生きて戻ってこい」
その言葉には、軍人としての命令ではなく――
彼自身の祈りが、微かに込められていた。
ハルはしばし彼女の背中を睨みつけたが、やがて深く息を吐き、コンソールを叩いた。
「……兵士に告ぐ。彼女に予備装備を持たせろ。我々はこれより帰艦する。――彼女の“自己都合による離脱”を許可する」
それは、軍人としての論理(命令)と、人間としての情理(良心)の、ぎりぎりの妥協だった。
数分後。
リンは一人、アクア・ドームの半壊したドッキングベイに降り立った。
シャトルが遠ざかる推進光を見送り、完全な静寂が訪れる。
(ユウ……どこ……)
胸の奥で微かに疼く「残響」だけを頼りに、リンはEVAブースターを微噴射させた。
残骸の海を漂う。
凍りついた魚の死骸が、サーチライトを浴びて幽霊のように過ぎていく。
酸素残量計の数字が、着実に減っていく。
それと反比例するように、胸の疼きは強くなっていった。
(近い……!)
裂け目の向こう――開けた宇宙空間へと身を乗り出したその瞬間。
闇の奥から、ゆっくりと、何かが近づいてきた。
星の光を背負った、一つの白い影。
「……ユウ……?」
カンナが最後の力を振り絞って放った神崎の宇宙服が、計算された軌道通りに――
寸分違わず、ドッキングベイへと滑り込んでくる。
それは、計算と祈りが重なった軌道だった。
星々の海を越え、神崎は――まさに“そこ”へと届いた。
リンは叫びながらブースターを全開にした。
「ユウッ!」
ヘルメットのバイザーは曇り、顔は見えない。
リンは震える手でスーツを掴み、ドッキングベイの壁に固定した。
自分のヘルメットを彼のバイザーに押し当てる。
「ユウ! 聞こえる!? リンよ!」
骨伝導で、声が届く。
バイザーの奥で、閉じられていた瞳が、ゆっくりと、ゆっくりと開いた。
虚ろな焦点が、目の前のリンを捉える。
「……リン……?」
そのか細い声を聞いた瞬間、リンの目から涙が溢れ出した。
彼女は彼のスーツを抱きしめ、無音の宇宙でただ泣き続けた。
「よかった……間に合った……!」
サラマンダープロトコル(=遺伝子治療)の副作用がもたらした“量子の残響”は、
絶望的な距離と時間を超えて――
宇宙の静寂の中で、二つの命は、確かに再び結びついた。




