命を賭した論理
静止した〈OTOHIME〉を前に、誰もが動けなかった。
人工空を照らす光は弱まり、金属の粉塵が、夕暮れのように漂っている。
落下まで、残された時間はわずか十二時間――。
ハル少尉は眉をひそめ、銃を構える兵士たちを制した。
その瞳には、AIへの警戒と疑念が浮かんでいる。
「……ARK-μ。貴様の機体は、テロリストが用いた兵装と同型だな。
まさか、貴様もその共犯というわけか?」
『論理的誤謬です。私は地球統一政府の管理下にあるAIシステム。
私の行動原理は“最大多数の生存”の保証――すなわち、地球の破滅の回避にあります。』
「では、その機体はどう説明する?」
『パワードスーツの行動は、モジュール分離シーケンスの起動を目的としたものです。
設計者・神崎加賀斗の協力のもと、作業は進行しています。』
兵士の一人が叫んだ。
「ふざけるな! テロリストが寝返って協力しているだと? そんな話、信じられるか!」
『リングコアの分離には、設計者である神崎加賀斗の生体認証が必要です。
残る二つのコアの切断と、その後の再構築には、彼の専門知識が不可欠です。』
「……それを信用しろと?」
『神崎加賀斗は制圧時にプロトコルを書き換えています。
彼を拘束すれば分離は不可能。結果、アクア・ドームは地球へ落下し、
カテゴリー・オメガの事態が確定します。』
リンが一歩前に出た。
「少尉、ARK-μの言うことは事実です。
ドームの推進系のメインスラスターと制御コントロールは、すでに破壊されています。
軌道修正は不可能――残る道はステーションを四つに分割し、
ESPRO艦隊の牽引力で軌道を逸らすしかありません。」
ARK-μは〈OTOHIME〉の傍らに立ち、ゆっくりとハル少尉に向けて腕を上げた。
その巨腕は、まるで銃口のように見えたが、そこには威嚇ではなく“論理”の意思があった。
『神崎加賀斗を排除する決定は、地球の秩序回復という貴軍の使命を否定します。
それは、人類存続の可能性を自ら放棄する行為に等しい。』
優希が前へ出た。
その瞳には、父とAI、そして人類の未来が映っていた。
「ハル少尉。父はもう、復讐のために動いてはいません。
私たちとの対話で、“創造”の側に立つ決断をしたんです。
彼をテロリストとしてではなく――地球を救う最後の技術者として扱ってください。
時間はありません。父なしでは、この任務は完遂できません。」
ハル少尉の青い瞳が、〈ARK-μ〉、〈OTOHIME〉、そして優希の顔を順に見た。
その理性は、この異様な状況がAIの導き出した“唯一の論理的最適解”であると理解しつつあった。
「……信じられん。テロリストに地球の命運を委ねるなど……」
そう呟きながらも、彼の手は静かに動き、部下に銃を下ろすよう合図を送っていた。
ESPROの隊員たちは次の命令を待っている。
静寂が戻り、遠くでリングの回転機構が軋む。空間全体が微かに震えた。
「……少尉、ご命令を。」
副官の声が、緊張に揺れた。
ハルは端末を手に取り、上層部への通信回線を開く。
だが、音声が流れる前にスイッチを切った。本部が知れば、すべてが無駄になる――。
「……やめだ。」
副官が息を呑む。
「我々の任務は、テロリストの捕獲ではない。」
ハルの声は低く、しかし明確だった。
「命の回収だ。」
一瞬、時間が止まったように静まり返る。
ハルは小さく息を吐き、わずかに笑った。
「それに――リン技術士が言っていたな。
タスマニアのムカシエビと、インドネシアの淡水ウミウシを、まだ確認していないと。」
副官が戸惑いながら問い返す。
「……そんなものを、この状況で?」
「ああ。私は、見てみたい。」
その一言に、場の空気が変わった。
命令と良心の秤が、静かに釣り合いを変える。
「全隊、構えを解け。発砲を禁ず。
我々はアクア・ステラの回収に戻るぞ。」
「しかし、本部は――」
「聞こえなかったのか? 命令だ。」
副官が敬礼し、隊員たちが一斉に動き出す。
機械の駆動音が再び満ち、リング制御区画の照明が灯った。
人工空に、金属の雷鳴が轟く。
ハル少尉は、静かに呟いた。
「リングコアの破壊は――君たちに任せた。
どうか、地球を救ってくれ。……私の家族も、地球にいるんだ。」
一瞬、彼の声にかすかな震えが混じった。
それは軍人の言葉ではなく、一人の人間としての祈りだった。
そして、ゆっくりと続けた。
「私たちは、生きて帰る。――それが、本当の勝利だ。」
リングコアの赤い警告灯が次々と緑に変わり、
アクア・ドームの心臓が低く脈動を始めた。
その光がハルの頬を照らし、
誰もが気づかぬうちに、彼の表情には安堵と希望が混ざっていた。
優希は父のコクピットを見つめ、静かに頷いた。
創造者としての父が、ようやく未来を選んだのだ。




