最後の救出
アクア・ドームの大気圏突入まで、残された時間はわずか数時間。
リンは、ESPROの回収チーム三人とともに、シャトルでドームへと戻ることになった。
構成は、兵士二名と生体環境技術士一名。
その技術士――ハル・エンデル少尉。軍所属の生態学者にして、環境制御の専門家だった。
シャトルの内部は静まり返っていた。
低く響くエンジンの振動が、金属の床を伝い、足元を微かに震わせる。
リンはシートの前で指を組み、沈黙の中で思考を沈めていた。
沈黙を破ったのは、隣に座るハル少尉の声だった。
「リン技術士……アクア・ドームには、どんな希少種が残っている?」
リンは小さく頷く。
「確認できているだけでも十数種。中には、地球上ではすでに絶滅したはずのものもいます。」
「たとえば?」と、ハルが興味深そうに眉を上げた。
「タスマニア高地の古代種〈アナスピデス〉。原始的な淡水甲殻類です。
それに、東南アジアの石灰岩洞に棲む盲目魚“クリプトフィルム・ルクス”。
あと、インドネシア東部の島嶼にいた淡水ウミウシも、繁殖個体が確認されています。」
ハルは息を吐き、静かに目を細めた。
「なるほど……ドームの生態系そのものが機能と一体化しているわけだ。
単なる“標本”ではなく、“生命装置”として生きている。」
リンは小さく頷いた。
「ええ。だからこそ、ただの回収では意味がない。
“生きたまま”、できる限り多くを救わなければ。」
「……その通りです。」
ハルの声は落ち着いていた。
「必要とあらば、私の権限で収容優先を変更する。
ただし、制限時間の中での話だが。」
リンはその瞳をまっすぐに見返した。
「ありがとう。――私たちが見捨てなければ、きっと生きられる。」
シャトルがわずかに揺れ、減速アラートが点灯する。
アクア・ドームへの帰還が目前に迫っていた。
大気圏突入のリミットはすでに近い。残された時間は、わずか数時間。
シャトルがドッキングベイに着陸すると、リンは迷うことなく作業室へと急いだ。
作業室の扉を開ける。
留守の間も、3Dプリンターは稼働を続けていた。
床には、整然と並ぶ〈アクア・ステラ〉が淡く光を放っている。
それはまるで、命の種子が静かに呼吸しているようだった。
リンの視線は、部屋の隅に置かれた二つの大型カプセルで止まった。
球体ではない。棺のように長いシルエット。
通常の〈アクア・ステラ〉の数倍の容積を持ち、全長は二メートルを超えていた。
ARK-μが特注で製作したものだ。
大型生物、あるいは複数個体の同時収容を想定した設計。
リンは表面の金属を撫でながら、小さく呟いた。
「これは……大型魚類や両生類用? ……ARK-μ、あなたは何を想定していたの?」
背後から、ハル少尉が静かに応じた。
「このサイズなら、ドーム内の大型生体にも対応できますね。ただ――収容には時間がかかる。判断は迅速に。」
リンは頷き、唇を引き結んだ。
「ええ。あと数時間しかない。迷ってる暇はないわ。」
兵士たちは無言で装備を確認し、シャトルの再起動準備に入る。
警告灯が再び脈動を始め、赤い光が作業室の壁を染めていった。
その光は、〈エデン〉という名の心臓が、重力の底へと引きずられながらも――なお、消えることを拒むように明滅していた。
リンは作業室の端末を操作し、通信チャネルを即座に開いた。画面のランプが点滅を繰り返し、ノイズの混じった映像が徐々に鮮明になった。ユウの顔が浮かび上がり、その表情には疲労の跡が色濃く刻まれていた。
「ユウ、聞こえる? 今、アクア・ドームの作業室に着いたところよ。ESPROの回収チーム三人と一緒。」
彼女は声を抑え、周囲を警戒しながら続けた。
「ただ、このチームとあなたのお父様を会わせるのは危険すぎるわ。テロリストの首謀者だと知られたら、即時拘束される可能性が高い。」
ユウの声が、わずかな遅延を伴って返ってきた。
「了解した、リン。教えてくれてありがとう。みんなも休ませたいところだけど、父さんは行かない方がいいかもしれない。今からそっちへ向かうよ。」
通信を切ると、リンは深く息を吐き、端末を閉じた。作業室の扉が開く音が響き、ハル・エンデル少尉と兵士二人が入室した。彼らは装備を点検しながら、部屋の隅々まで視線を走らせていた。リンは自然に振る舞い、立ち上がって彼らを迎えた。
「皆さん、分離作業をしている作業員たちも、こちらへ来て少し休憩を取るそうです。パワードスーツが一機に神崎博士と作業員の女性です。」
ハル少尉は頷き、椅子に腰を下ろした。
「了解した。時間は限られているが、無理は禁物だ。ところで、宇宙作業用のパワードスーツとは?」
「はい。AIが操縦しています。」
兵士の一人がヘルメットを外し、興味深げに尋ねた。
「AI制御のパワードスーツか……面白いな。信頼性はどうだ?」
「すいません。私は専門外でして、なんとも……」
リンは簡潔に答え、話題を回収対象のリストに移した。
作業室の空気は緊張を保ちつつ、プロフェッショナルな雰囲気が保たれていた。
やがて、足音が近づいてきた。扉が開き、神崎優希、カンナ、そしてARK-μが動かすパワードスーツが入ってきた。
「ユウ! カンナ!」
リンは叫び、作業を放り出して駆け寄った。
ユウを抱きしめ、その温もりを確かめる。
次に、隣のカンナにも腕を回し、強く抱きつけた。
カンナは一瞬驚いたが、すぐにリンの背中を優しく叩いた。
「無事に戻ってきてくれて……ありがとう。本当に、ありがとう。」
神崎はリンの肩を抱き返し、囁いた。
「交渉が上手くいって本当によかった。」
リンはその言葉に、少しだけ目を潤ませながら頷いた。 三人の間に、言葉以上のものが流れていた。 それは、危機の中で育まれた信頼と、命を繋ぐための静かな絆だった。
リンは一瞬だけ視線を交わし、微笑んだ。
「――この人たちが、分離作業を支えてくれた仲間たちです。」
ハル少尉は軽く頭を下げた。
「すごいな。君たち三人で、ここまで……ご苦労だった。」
神崎は疲れた笑みを浮かべ、簡潔に答えた。
「ありがとうございます。まだ完全ではありませんが、可能な限り対応しました。」
カンナはパワードスーツの傍らに立ち、ARK-μの巨体が部屋の隅で静かに待機した。ハル少尉はさらに詳細を尋ね、作業の進捗について議論を始めた。リンはその様子を観察し、回収作業の準備を進めながら、内心で安堵した。
カガトの不在が、微妙な均衡を保っていた。この一時的な休憩が、残された命を繋ぐための重要な橋渡しとなることを、彼女は静かに祈っていた。
突然、作業室の外から悲鳴が響いた。
「うっ……!」
兵士の一人が倒れ込み、腕を押さえて呻いている。 金属片が裂けたような音とともに、血が床に滴った。
「大変だ、早く医療室に!場所はどこだ」
ハル少尉が即座に指示を飛ばす。
神崎は息を呑んだ。
「マズイ……医療室には、カンナのOTOHIMEと――父さんが!」
その言葉に、全員の顔が強張る。 空気が一瞬、凍りついた。
誰もが動こうとしたその瞬間―― 警告灯が赤く脈動し、静寂の中で呼吸のように明滅した。




