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星を泳ぐ小さな命  作者: たんすい
第1章:喪失の水辺
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分離の序曲

 崩落した天井の隙間から、細い光が差し込んでいた。

 隔離区画の中央――床に投影された〈アクア・ドーム〉の構造図を前に、カガトは静かに立っていた。

 その隣には、神崎優希とARK-μ。そして〈OTOHIME〉に搭乗したカンナが控えている。

 カガトの顔には、もはや狂信の影はなかった。ただ、一人の技術者としての冷徹な覚悟だけが宿っていた。


「……これが、俺が創り、そして壊そうとした〈エデン〉だ。」


 カガトは低く呟き、指先でホログラム上の接合部をなぞる。

「エデン(アクア・ドーム)は、通常のドッキングベイとは別に、三つの主要接合リングで結合されている。このリングを切断すれば、ドームは四つの区画に分離できる。

 管制・司令モジュールA、生命維持・研究モジュールB、居住・一般区画モジュールC、推進・追放区画モジュールD――地球政府の砲撃にも耐えた強度の源が、まさにこの構造だ。」


 優希はごくりと唾を飲み込み、構造図を見つめた。

「その三つのリングを……切り離すのか?」


「ああ。設計段階で緊急分離用のボルトを仕込んである。内部に爆薬を封入し、一瞬で切断できる構造だ。」

 短い沈黙のあと、カガトは淡々と続ける。

「ただし、起動には俺の生体認証が必要だ。管制室を制圧したとき、分離シーケンスのプロトコルを書き換えておいた。俺が死ねば〈エデン〉は分離できない。それが俺の最後の“保険”だった――破壊者としてのな。」


 彼は三つのリングを指し示した。

「各リングには制御盤――リングコア1から3――がある。順にオンライン化しなければならない。」


「分離後、モジュールの姿勢はどうする?」

「各モジュールに小型スラスターを内蔵してある。短時間なら自律姿勢を保てるが、軌道修正に必要な推力はない。最終的な牽引はESPRO艦隊に任せるしかない。」


 カガトは優希に視線を向けた。

「まずはリングコア1だ。これを起爆し、推進・追放区画(モジュールD)を切り離す。俺が手本を見せる。リングコア2はお前とカンナ、3は俺とARK-μで分担する。」


 優希は深く頷き、ヘルメットを被り直した。


 そのとき、通信が入る。

『ユウ、聞こえる? ESPROのグレイフィールド准将との交渉の席が設けられたの!』


 リンの声だった。優希は息を呑む。

「まさか……あのグレイフィールドが応じたのか!」


『ええ。切り札は〈アクア・ステラ〉よ。絶滅危惧種の生体サンプルをESPROに引き渡すことで、“生物多様性の回復”という実利を提示できたの。』


「すごい……君が守った〈アクア・ステラ〉が、この絶望的な状況を動かしたんだな。」


『私ひとりじゃ、ここまで来られなかった。――ユウ、あなたがいたから。』


『まだ交渉が成立したわけじゃないけれど、ESPROがステーションに接近して牽引作業を行う“大義名分”は得られたわ。』


 優希はカンナとARK-μに視線を送り、決意を固める。

「僕らがモジュール分離を成功させれば、ESPROは動かざるを得ない。二つの戦線が、ようやく揃ったんだ。」

『私たちは〈アクア・ステラ〉の移送を急ぐ。ユウ、必ず成功させて!』

「ああ。君が命を繋ぐ橋を作った。僕は、その橋を渡ってみせる!」


 ARK-μのカメラアイが淡く光り、作戦開始の合図を送る。

 通路の奥で待機していたカンナが〈OTOHIME〉のハッチを開いた。

「リングコアの位置、確認済み。内側と外側、両方の作業が必要ね。」


 カガトは短く頷き、先頭に立つ。


 アクア・ドームの深部通路は、爆撃と崩落の痕に覆われていた。

 空気は埃と金属の匂いで満ち、呼吸さえ重い。倒壊した天井パネルが行く手を塞ぐ。


 カガトが顎をしゃくった。

「ここからだ。内側の制御盤にアクセスするには、まずこれを除去する。」


 カンナが〈OTOHIME〉の操縦席で操作を始めようとしたそのとき、ARK-μの声が割り込んだ。

『カンナ、待ってください。パワースーツの関節部に深刻な損傷が確認されています。瓦礫の撤去は私が行います。』


「そこはジャンク品で代用したところなんだ。私ならまだ――」


『あなたの判断力は信頼しています。しかし、今は機体の保全が優先です。作業効率と安全性の両面から、私が代行するのが最適です。』


 カンナは一瞬だけ迷い、そして静かに頷いた。

「……わかった。じゃあ頼むよ、ARK-μ。」


 ARK-μの補助アームが展開され、無音の動作で瓦礫に接近する。

 鋼鉄の爪が瓦礫を掴み、精密なトルク制御で持ち上げた。

 ギギギ、と金属が軋み、数百キロの残骸がゆっくりと宙を舞う。


「ありがと、ARK-μ。」


『あなたの機体は“もしも”のために必要です。大切に扱ってください。』

 その声は冷静で、どこか優しかった。


『放射線レベル上昇を検知。外部作業時は耐放射線スーツを着用してください。』


 やがて一行はリングコア1の制御室に到達した。

 扉は半壊し、内部は暗く埃っぽい。

 カガトが中に入り、制御盤の前に立つ。手で埃を払い、パネルを起動。

 青い光が闇を照らし、認証画面が浮かび上がる。


「ここがリングコア1だ。まずは俺の生体認証からだ。」


 掌をスキャナーに押し当てる。緑の光が走り、システムが応答した。

 キーボードを叩くと、分離ボルトのステータスが次々と点灯する。


「内側処理、完了。次は外部ボルトの安全ピン解除だ。誤作動防止ロックを外す。」


 エアロックを抜けると、そこは無音の宇宙。

 闇の海の向こうに、青く輝く地球が浮かんでいた。


 その手前で――星々の配置がわずかに歪んだ。

 優希は息を呑む。


 漆黒の虚空に、巨大な艦影がゆっくりと姿を現す。

 ESPRO旗艦〈ジャスティティア〉。

 その艦体は光を拒むように沈み、まるで宇宙そのものが形を得たかのようだった。


 ARK-μが低く告げる。

『艦種識別完了。ESPRO旗艦〈ジャスティティア〉。距離、約二百キロ。軌道上に静止中。』


 優希はヘルメット越しに目を凝らした。

 艦は何も語らず、何も動かず、ただそこに“いる”だけだった。


「……来たのか。グレイフィールドが。」


 誰も応えなかった。

 カンナも、ARK-μも、カガトさえも――沈黙の中にいた。


 やがて〈ジャスティティア〉の艦首が、ゆっくりとこちらを向く。

 まるで審判を下す者の眼差しのように。


 その瞬間、優希の胸を、言葉にならない予感が貫いた。

 ――この艦の決断ひとつで、地球の未来が変わる。


 静寂の宇宙に、その事実だけが重く響いた。

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