命の外交
アクア・ドームの作業室は、崩壊の余波で埃と金属の匂いが満ちていた。
リンはホログラム端末の前に立ち、深呼吸をひとつして接続を開始する。
画面が淡く光り、地球統一政府〈ESPRO〉の艦隊司令官・リアム・グレイフィールドの顔が映し出される前に、まずDr.リーとの連絡を確立しなければならなかった。
地球への落下まで、残された猶予はわずか十四時間。
神崎とその父・カガトが共に立案した計画――その成否を分ける鍵は、いまこの交渉にあった。
ホログラムが安定し、Dr.リーの厳しい表情が浮かび上がる。
彼は医療区画で負傷者の治療を指揮しながら、通信に応じた。背後ではスタッフたちが慌ただしく動き回っている。
「リン技術士、何か進展があったか?」
リンは声を落ち着かせ、簡潔に報告を始めた。
「Dr.リー。ユウ――神崎優希博士が、父のカガトと協力しています。
彼らはアクア・ドームを四つのモジュールに分割し、構造的な分離点を利用して各ブロックを独立させる計画を立てました。
分割されたパーツをESPROの艦隊で牽引し、軌道を修正してもらえないでしょうか。破壊を最小限にとどめ、ステーションの大部分を救うことが可能になります。」
Dr.リーの眉がわずかに動いた。短い沈黙ののち、彼は考えを整理するように視線を落とし、やがてゆっくりと首を振った。
「興味深い提案だ。カガトが協力しているというだけでも奇跡に等しい。
だが、ESPROを動かすのは容易ではない。彼らは秩序の維持を最優先にする。テロリストの拠点と見なされたこのドームを、容赦なく排除するだろう。
交渉材料がなければ、グレイフィールド司令官は聞く耳を持たない。単なる人道的訴えでは、艦隊を近づけさせることすら不可能だ。」
リンはその言葉を想定していた。
作業台の上には、いくつものアクア・ステラが並んでいる。透明な球体の中では、希少な淡水魚や水生昆虫、両生類の幼生が静かに泳ぎ、微細藻類が淡い光を放って酸素を生み出していた。
毒から救い出した――地球の失われつつある命の欠片。
それこそが、彼女の切り札だった。
「交渉材料なら、あります。アクア・ステラです。
この小型閉鎖生態系ユニットには、数十種類の希少種――絶滅危惧種、あるいはすでに絶滅したと思われていた生体が保存されています。
アベニーパファーだけでなく、コンゴ川の希少カエル、メコン川の水生昆虫、アマゾンの微細藻類まで。
これらを地球に引き渡すことで、ESPROに『生物多様性の回復』という実利を提示できます。
彼らがステーション近傍まで接近し、牽引作業を行う大義にもなるはずです。」
Dr.リーの目が鋭く光った。
彼はすぐにアクア・ステラの価値を理解した。
それは単なる生物標本ではなく、気候変動と環境破壊によって失われた地球の遺産。
ESPRO――いや、地球統一政府にとって、生物多様性の再生は長期的な戦略資源でもある。
「……なるほど。ESPROは公には秩序維持を掲げているが、裏では生物資源の確保を最優先している。
アクア・ステラの技術とサンプルは、彼らの研究プログラムに直結するだろう。
リン技術士、この提案を私がグレイフィールドに直接伝える。君はリストと詳細データをすぐに送信してくれ。時間がない。」
リンは端末を操作し、アクア・ステラに収められた約五十種の希少生物の学名、生態データ、遺伝的多様性の情報を添付して送信した。
Dr.リーはそれを確認し、通信をESPROのチャネルへ切り替える。画面が分割され、グレイフィールドの厳格な顔が現れた。背後には、整然とした艦隊ブリッジの光景が広がっている。
「グレイフィールド司令官――これは、命に関わる提案です。 地球の絶滅危惧種、数十種に及ぶ生体サンプルを、完全な状態で保存しています。 これは、環境破壊の果てに失われた“地球の記憶”そのものです。
あなた方が守ろうとしている秩序の先に、命があると信じるなら―― この提案を拒む理由は、どこにもないはずです。
詳細データを、今送信しました。 どうか、受け取ってください。」
この交渉は、絶対に失敗できない。
地球の未来が、ここにかかっている。
グレイフィールドは一瞥し、目を細める。
沈黙。艦橋の低い機械音が響いた後、彼は低く言った。
「……興味深い。生物資源の価値は理解する。だが、これは罠の可能性もある。」
Dr.リーは即座に応じた。
「サンプルは落下前に引き渡す。あなた達の科学チームが検証すれば、その価値はすぐに分かる。」
グレイフィールドは部下と短く言葉を交わし、再び画面を見た。
その眼差しには、わずかに迷いの色が混じる。
「……了承する。艦隊をアクア・ドーム近傍へ移動させる。引き取りチームを派遣せよ。交渉成立だ。」
通信が切れると、Dr.リーは深く息をついた。 その呼気には、張り詰めていた緊張がわずかにほどける音が混じっていた。 彼はリンを見つめ、目元にかすかな笑みを浮かべる――それは、取引材料にグレイフィールドが食いついたことへの、抑えきれない安堵だった。
「……通ったな。君のアクア・ステラが、地球の秩序を動かした」
だがその笑みはすぐに消え、眉間に深い皺が戻る。 彼の視線は、作業室の奥に並ぶ球体へと向けられていた。
「だが、まだ終わっていない。艦隊が動いた今、我々の責任はさらに重くなった。 この交渉は、命を繋ぐための橋だ。崩せば、すべてが水泡に帰す」
彼は端末を操作しながら、静かに言葉を継いだ。
「リン技術士、アクア・ステラの準備を急げ。 神崎博士とカガトの計画を支えるのは、我々だ。 この橋を渡すのは、君たちの手に託された命だ」
リンは頷き、作業台に並ぶ球体へと歩み寄った。 その中で泳ぐ小さな命たち――それは、地球の記憶であり、未来への証だった。
通信が切れたあと、リンは一瞬だけ目を閉じた。 その瞼の裏には、爆発の中で消えた子供たちの姿が浮かんでいた。
「……絶対に、無駄にはしない」
リンは頷き、作業室に並ぶアクア・ステラへと視線を向けた。
その中で静かに泳ぐ小さな命たち――それは、地球の記憶そのものだった。
いまやその輝きが、惑星の運命を変えようとしている。
「君たちが、地球を救うんだよ」




