カテゴリー・オメガ
アクア・ドームの管制室。カガトの狂気に満ちた声明が途絶え、訪れたのは死のような静寂だった 。
その静寂を破ったのは、リアム・グレイフィールド准将の冷たい声だった。 彼の表情は氷のように硬く引き締まり、その青い瞳が、モニターに映し出されたアクア・ドームの落下予測ラインを冷徹に追っていた。 これは単なる脅迫ではなかった。地球全体を巻き込む、差し迫った危機だった。
「状況を確認せよ」
静かながら断定的な命令に、技術士たちが一斉に端末へ走る。数分後、絶望的な報告が上がった。
「推進システムは完全に破壊されています 。軌道制御は不能。地球到達まで、残り約七十二時間。落下予測地点は太平洋上空ですが、大気圏突入時の破片散布は広範に及びます」
グレイフィールドは短く頷くと、即座にESPRO最高司令部への回線を開いた。
「本件の脅威レベルを、カテゴリー・オメガに引き上げる。アクア・ドームは、もはやテロの現場ではない。地球への直接的脅威と見なす」
その言葉が発せられた瞬間、管制室の空気が変質した。作戦は「制圧」から「排除」へ――。
「艦隊全軍に通達。現時刻をもって制圧作戦は中止。全隊員は直ちにアクア・ドームより撤退せよ。生存者の救助は行わない」
その声には、一切のためらいがなかった。 グレイフィールドにとって、アクア・ドームはもはや施設ではない。テロリストの手によって地球へ落下する巨大な戦略兵器であり、内部に残る者たちは――テロリストも、スタッフも、追放区の住民も――すべてが秩序回復のために許容される“犠牲”となった。
同時に、宙域周辺の通信は即座にジャミングされ、情報統制が敷かれた。地球の市民が、頭上から「楽園」が落ちてくるという事実を知ることはない。秩序維持のための沈黙――それが、彼の正義だった。
同じ頃、作業室では、神崎優希がリンに支えられ、ようやく立ち上がった。父が自分ごとシャトルを爆破しようとしたという事実、そして今また地球を人質に取るという現実に、魂がまだ震えていた。
リンがその手を強く握りしめる。
「ユウ、まだ諦めないで。生き残ったあの子たちを……アクア・ステラを守るために、動かなくちゃ 」
その時、背後に控えていたARK-μの巨体が静かに反応した。 『ESPRO部隊が撤退を開始しました。彼らの論理に基づけば、次の行動は破壊作戦への移行と予測されます』
「破壊……このドームを?」 神崎の声が震えた。
その予測は正しかった。 管制室を出たグレイフィールドは、旗艦「ジャスティティア」へと向かうシャトルの中で、冷徹に次の命令を下していた。
「強襲艦ジャスティティアに通達。対艦ミサイルおよび主砲プラズマ砲を準備。照準をアクア・ドームに固定せよ。破壊を最優先とする」
彼の思考は揺るがなかった。 この施設は、テロによって腐敗した癌だ。秩序を守るためには、切除が必要だった。Dr.リーの弱腰な降伏が、この最悪の事態を招いたのだと、彼は確信していた 。
宇宙空間で、ジャスティティアがゆっくりと姿勢を変えた。 艦首のプラズマ砲が青白く輝き、無数のミサイルランチャーが、美しかった水の楽園を無機質な標的として捉える。増援艦隊が宙域に集結し、破壊の準備が整っていく。
『神崎博士、林技術士――急いでください。宇宙服を装着し、避難準備を』
「リン……お願いだ、急いで!」
神崎は、まだ息のある稚魚たちが泳ぐ〈アクア・ステラ〉の保護ケースを掴むと 、リン、そしてARK-μの巨体と共に非常通路へと走った。 しかし、その先は冷たい金属の壁に阻まれていた。 通路は、撤退するESPROの武装部隊によって、すでに内側から封鎖されていたのだ。
「私たちは……ここに残されるの?」 リンの声が絶望に震える。
神崎は硬く閉ざされた隔壁を叩きながら、背後に迫る死の気配に歯噛みした。
「父さんの復讐が……すべてを壊す……」
でも、僕は――命を繋ぐために、ここで終わるわけにはいかない。
その声は、絶望と怒りの狭間で滲んだ。 艦橋に戻ったグレイフィールドは、眼前に広がるアクア・ドームを見据え、最後の命令を下した。
グレイフィールドは一瞬だけ目を閉じた。 かつて、秩序が守れなかった日――家族を失ったあの日の記憶が、青い瞳の奥に微かに揺れた。 だがその感情は、すぐに冷たい決意に塗り潰された。
「破壊を開始せよ――秩序を回復するために。」
アクア・ドームの外壁が、青い光に包まれた。
それは、かつて命を育んだ水の楽園が、自らの終焉を祈るように光る姿だった。
だが、終焉はまだ、完全には訪れていない。
プラズマ砲が放たれ、金属が軋み、空気が悲鳴のように漏れ出す。
それでもドームは崩壊しなかった――その構造は、あまりにも巨大で強靭だった。
「……駄目か。」
グレイフィールドの呟きは、落胆ではなく計算だった。
彼の瞳には、次の一手を探る冷たい光が宿っていた。
宇宙空間に響いたジャスティティアの砲撃は、アクア・ドームの外壁に青白い閃光を刻みつけた。
金属が悲鳴を上げ、避難区画の一部が崩落する。
しかし、ドームは沈まなかった。
巨大な構造体は、深い傷を負いながらもなお、静かに宇宙に漂い続けていた。
その様子を、別の通信室から見つめる男がいた。
カガト――かつて〈エデン〉と呼ばれたこの施設の設計者。
モニターに映る破損箇所を見つめ、口元に冷たい笑みを浮かべる。
「それくらいの攻撃で、俺が設計した〈エデン〉が壊れるものか。……甘いな。」
その嗤いは虚空を震わせた。
それは勝利の笑みではない。
自らの創造物が、いまや破壊の象徴として機能していることへの、皮肉と誇りの入り混じった嗤いだった。
砲撃は無力ではなかった。
直撃を受けたのは、避難民が集まっていたD地区。
神崎たちの作業区画は、奇跡的に損傷を免れていた。
隔壁の向こうで、空気が奔流となって宇宙へ吸い出され、人々が悲鳴を上げる間もなく虚空へ消えていく。
神崎は喉を詰まらせ、掠れた声を絞り出した。
「……なんて酷いことを。」
リンは唇を震わせ、目を逸らせないまま呟く。
「こんなことって……。」
ARK-μが静かに告げた。
『自動修復装置が作動し、穴はやがて塞がるでしょう。
しかし、彼らは次の手段を取るはずです。』
神崎は深く息を吸い込んだ。
「タイムリミットはまだある。助かる保証なんてない。
でも、だからこそ――僕らの手で命を繋ぎたい。〈アクア・ステラ〉で、一つでも多くの命を救い出そう。やろう、リン。」
リンは一瞬だけ迷い、やがて静かに頷いた。
「……うん。私たちがここにいる意味が、それなんだと思う。」
ARK-μが短く応答した。
『神崎博士、林技術士。想定外の事態に備え、私なりの手段を準備しておきます。
――その時が来れば、必ず動きます。ご安心ください。』
その声は、冷たい金属の奥底に宿る決意のようだった。




