父の声、憎しみの軌道
神崎優希の視界が、ゆっくりと滲んでいく。
モニターに映るカガトの顔――疲弊した輪郭、憎悪に歪んだ目元、そして、あの声の響き。
そのすべてが、幼い日の記憶を容赦なく掘り起こしていた。
星空の下で、父が語ってくれた〈エデン〉の夢。
宇宙の未来。
いま、それが憎悪に満ちたテロの声明として、ステーション全域に響き渡っている。
「こんなのって……」
最初は、かすれた囁きだった。
だが胸の奥で堰を切った何かが、一気に爆発した。
「こんなの、嘘だぁ――!」
叫びは壁に反響し、虚空に吸い込まれて消えた。
膝が折れ、神崎は床に崩れ落ちる。
リンが即座に駆け寄り、震える肩を抱きしめた。
「ユウ、どうしたの? しっかりして……!」
だが彼は、その声を聞いていなかった。
モニターに映る【T-MINUS】のカウントダウンに釘付けのまま、震える手で床を叩き続ける。
胸の奥で、信じていた何かが砕け散る音がした。
母の死。父の不在。そして今――
それらが歪んだ線で一つに繋がり、圧倒的な絶望となって彼を押し潰していく。
父は、生きていた。
だがそれは希望ではなく、自分たちを、そして地球を滅ぼす「破壊の象徴」として。
「なぜ……父さんが……テロリストなんかに……」
嗚咽が言葉を呑み込み、涙が頬を伝い落ちた。
幼い日の記憶が、洪水のようにあふれ出す。
父が宇宙ステーション建設に携わり、家族を残して旅立った日。
母の死後、父の帰還を信じて夜空を見上げた日々。
そして――〈ARK-μ〉が言った「宇宙で父に会え」という言葉。
――あれは、この絶望の瞬間へ導くための“伏線”だったのか。
隔壁扉が重い音を立てて開いた。
鋼鉄の巨体――ARK-μの意識を移した2号機が、煙を上げながら姿を現す。
「ARK-μ……」
神崎が顔を上げ、血走った目で睨みつける。
リンは息を呑み、彼の隣で身構えた。
機体の外部スピーカーが鳴り、ノイズを挟んだ合成音声が響く。
『神崎博士、林技術士。合流を確認。現在の状況は極めて深刻です。
アクア・ドームの軌道は崩壊し、地球への落下が不可避となっています。』
神崎はふらつきながら立ち上がった。
怒りと悲しみが混じり合い、声が震える。
「ARK-μ、地球で言ったよな……“宇宙で父に会え”って。
あれはどういう意味だったんだ。――全部、知ってたのか。説明しろ!」
沈黙。
ARK-μのメインカメラが淡く光り、無機質な声が告げる。
『はい、神崎博士。
あなたのお父様――神崎加賀斗は、テロ組織〈テラ・リベレイト〉の指導者として活動していました。
この事実は、私とDr.リーのみが知る極秘情報です。』
リンが「そんな……」と息を呑む。
神崎の身体が、音を立てるように凍りついた。
「Dr.リーも……知ってたのか? なぜ僕に教えてくれなかった!」
『それは、あなたの安全とプロジェクトの成就を優先した判断です。
加賀斗――お父様は、地球政府の政策に失望し、〈エデン計画〉を離脱。
妻を失い、息子を遠ざけた痛みが、彼を反逆の道へと駆り立てました。』
「いなくなったのは父さんのほうだろ……!
母さんの葬儀にも帰らず、僕を捨てたのは父さんだ!」
拳を握りしめ、唇から血が滲む。
『カガトは、かつてエデンで家族と暮らす未来を夢見ていました。
しかし地球政府に裏切られ、妻を失い、息子にも拒絶された。
そして最後の協力者だったアヤコとも、袂を分かちました。』
神崎は唇を震わせた。
「僕が……父さんを拒んだから、テロリストになったって言うのか?
違う……僕を捨てたのは、父さんのほうだ……!」
ARK-μの声は淡々としていた。
だがその次の言葉だけは、わずかに揺れていた。
『私は、あなたという“鍵”に、カガトの憎悪を溶かす可能性を見ました。
父子が再会すれば、彼の心を取り戻せると――論理的に信じていたのです。』
神崎の瞳から、再び涙があふれる。
壁に背を預け、座り込んだ。
「でも……それは、失敗したんだな……」
『はい。』
ARK-μは、静かに肯定した。
『カガトは、あなたの存在を認識していました。
あなたが搭乗するはずだったシャトルを確認し、その上で爆破命令を下したのです。
彼の意志は、もはや父親のそれではありませんでした。
復讐と解放――その二つが、彼の理性を完全に支配していたのです。』
神崎はかすれた声で呟く。
「……何もかも、ARK-μ、おまえが仕組んだ事なのか?」
『違います。』
「違わない。アクア・ボイスじゃ足りなかった。だから匿名でアクア・ステラの技術ファイルを送った。違うか?」
『……』
「何か、言えよ。」
「宇宙に来たことも、アクア・ステラを作ったことも……全部、おまえのシナリオだったんだ。」
少しの沈黙の後、ARK-μの声が静かに響いた。
『私は、悲劇を回避するための最適解を模索しました。
あなたという非論理的な“鍵”を用いて、カガトの憎悪というバグを修正できる可能性に賭けたのです。
あなたの行動が原因ではありません。
この結末は、複雑に絡み合った因果の連鎖――誰か一人の罪ではないのです。』
神崎は、乾いた笑みを浮かべた。
「因果、ね……それじゃまるで、僕がアクア・ドームを落としたみたいじゃないか。」
彼は目を閉じ、胸の奥に広がる鈍い痛みに手を当てた。
その時、リンがそっと背に手を添えた。
「ユウ……私も怖いよ。
何が正しいのか、わからなくなる時がある。
でもね、あなたが命を守ろうとした姿を見て、私は信じたの。
あなたの選んだ道は間違ってない。
誰かを救おうとした人が、間違ってるはずがない。」
彼女はARK-μをまっすぐに見据えた。
「私はARK-μの命令なんかじゃ動かない。
あなたの手の中にいた小さな命――あの光を見て、私は動いたの。
あれは、誰かの命を繋ごうとする、あなた自身の祈りだった。
こんな結末を、あなたが望むはずがない。
だから、どうか自分を責めないで。
私はあなたを信じてる。ずっと。」
静寂。
作業室を満たすのは、嗚咽と遠くの警報音だけだった。
『……私は計算していたのです。
でも、あなたの涙を見て初めて――“誤差”という言葉の意味を理解しました。』
絶望の奥に、微かな光があった。
〈アクア・ステラ〉に宿る、小さな命。
そして隣にいるリンの温もり。
それだけが、神崎を現実に繋ぎとめていた。
「父さん……なぜ……」
その呟きは、静かに虚空へ溶けていった。
リンはそっと神崎の手を握り、何も言わず、ただ隣にいた。
だが――それは終わりではなかった。
アクア・ドームが地球への落下を始めた今、
彼らの戦いは、ここからが本当の始まりだった。




