命の器、魂の声
アクア・ドームは、静かな地獄と化していた。
カガトが放った毒が巨大水槽を満たし、美しかった水の楽園は、緩やかに死の海へと変貌していく。
だが、その絶望の中にも、まだ消えていない命があった。
「ユウ、D区画の分、準備できたわ!」
作業室で、リンは汗に濡れた額を手の甲でぬぐいながら叫んだ。
床には、3Dプリンタで出力したばかりの透明な球体――〈アクア・ステラ〉が数十個、整然と並んでいる。
汚染されたメイン水槽に隣接する隔離ハッチで、神崎は特殊フィルター付きの吸引機を慎重に操っていた。
彼の視線の先では、毒に侵されながらも、かろうじて生き延びた稚魚や幼魚たちが、力なく漂っている。
「よし、捕獲した! リン、受け取ってくれ!」
細いチューブの中を、体長わずか数センチの小さな命が次々と流れていく。
リンはそれを受け取ると、清浄な水で満たされたアクア・ステラへと素早く移した。
それは、圧倒的な死の奔流に抗う、あまりにも小さく、しかし確かな希望だった。
二人が命を掬い続ける傍らで、もう一つの戦いが繰り広げられていた。
メインスクリーンには膨大なコードが滝のように流れ、中央では破損したAIコアの構造図が断続的に明滅している。
『……メインメモリへのアクセスルートを再構築。論理回路、七十八パーセントまで復旧。自己診断プログラム、再起動シークエンスへ移行します……』
スピーカーから響くのは、ノイズに満ちた断片的なARK-μの声。
カガトに破壊された彼女は、今や“ゴースト”として意識だけを保ち、かつての身体――すなわちアクア・ドームそのもの――を、記憶の断片を頼りに再構築しようとしていた。
リンたちが救おうとしているのが〈生命〉なら、ARK-μが繋ごうとしているのは、この施設の〈魂〉そのものだった。
「ARK-μ、もう少しよ、頑張って!」
リンが震える声で呼びかける。
その声に応えるように、スクリーン上の復旧率がわずかに跳ね上がった――その刹那。
ステーション全体を、これまでにない鋭い衝撃が貫いた。
床が激しく跳ね上がり、神崎とリンは吹き飛ばされる。
守っていたアクア・ステラのいくつかが転がり、貴重な命とともに水が床に広がった。
追放区画の方角で、巨大な爆発が――宇宙の静寂の中、音もなく貪欲に燃え盛る炎の花を咲かせた。
神崎は凍りついた心で窓辺へ駆け寄る。
そこにあったはずの区画――カンナが向かった場所が、跡形もなく消えていた。
灼熱のデブリと砕け散った金属片だけが、虚空を漂っている。
「カンナァァァッ!」
彼の絶叫は、爆発の残響が去った静寂に吸い込まれて消えた。
崩れ落ちる天井パネルから、神崎は咄嗟にリンを抱き寄せて庇う。
爆風が収まると、脳裏に浮かんだのは、単独で追放区画へ向かったカンナの、あの決意に満ちた背中だった。
胸の奥で冷たい予感が広がる。
神崎はARK-μに叫んだ。
「カンナの……応答はあるか!」
『カンナからの通信は途絶。追放区画は完全に消失。内部構造の崩壊を確認しました』
「そんな……!」
神崎の膝が折れかけた。
その時、リンが彼の腕を強く掴んだ。
「待って、あきらめないで。ARK-μ、通路の監視映像を映して!」
モニターに、爆発直前の映像が再生される。
煙と瓦礫の合間を、女性、子ども、老人を含む八名ほどの生存者が、必死に逃げ惑う姿があった。
「生きている人がいる……! カンナは!?」
神崎が叫ぶ。
『生存者の中にカンナの姿は確認できません。通信反応も、機体の信号も検出されません』
「でも、生存者がいる。カンナが守った命かもしれない。だからユウ、諦めないで!」
リンが神崎の手を強く握りしめた、その瞬間――。
新たな警報が鳴り響いた。
メインスクリーンに外部からの接近信号が浮かび上がる。ESPROの強襲艦隊だ。
その先頭を行く最新鋭艦は、艦首に超硬度の装甲で作られた巨大な衝角――スパイク状の突撃構造を備えていた。
艦隊はアクア・ドームに急速に接近し、ドッキングベイのような脆弱な部分を避けて、構造的に最も安定した外壁の一点を狙う。
金属が引き裂かれるような轟音が響き渡り、ステーション全体が激しく震えた。
衝角が外壁を貫通し、その内部が展開して、気密性の高いボーディング・ブリッジを形成する。
そこから、ESPROの部隊とSTYxの無人兵器が、一切の躊躇なく内部へと雪崩れ込んできた。
圧倒的な武力と技術力による、あまりにも冷徹な制圧。
アクア・ドームがテロリストの要求に屈したと見なされたことで、地球政府による強制介入が、今――始まった。
それは、救済ではなく、支配の始まりだった。




