約束の場所で
その静寂を破り、忘れられたメンテナンス用ハッチが音もなく開いた。薄暗い通路から、三つの影が慎重に姿を現す。
神崎優希、宇宙仕様のパワードスーツ〈OTOHIME〉を纏ったカンナ、そして鋼の肉体を得たARK-μ。
「……誰もいない。静かすぎる」
神崎はヘルメットを外し、周囲の空気を吸い込んだ。そこには、水の匂いと、微かな硝煙の匂いが混じっていた。
『テロリストたちの生体反応は、すべて追放区画に集中しています。何らかの緊急事態が発生したと推測されます』
ARK-μが、その重厚なスピーカーから分析結果を告げる。
「好都合だ。今のうちに、リンを探そう」
神崎の言葉に、カンナはコクピットの中で静かに頷いた。だが、彼女の心は別の懸念に囚われていた。STYx――その名を聞いた時から、彼女の左腕の古傷が焼けるように疼いていた。
三者は巨大な水槽が並ぶメイン通路へと足を踏み入れた。そこで目にしたのは、毒によって白く濁り、無数の魚の亡骸が漂う、地獄のような光景だった。
「なんてことを……」
神崎は言葉を失い、ガラス壁に手をついた。母との夢、リンとの希望が詰まっていたはずの場所が、無残な墓標と化していた。
その時、通路の奥にある作業室のドアが、わずかに開いていることに気づいた。神崎はカンナとARK-μに目配せすると、一人、ゆっくりとそちらへ向かった。彼は胸に、未来そのものを託されたかのように保護ケースを抱いていた。その手には、わずかな震えすら感じられた。
ドアの隙間から中を覗くと、暗い作業室の床に、一人の女性が力なく座り込んでいるのが見えた。リンだった。彼女は両膝を抱え、顔をうずめ、その肩は絶望に小さく震えていた。
神崎は息を呑み、静かにドアを開けて中へ入る。
そして、彼女の傍らに膝をつくと、胸に抱えていた保護ケースの蓋を、そっと開けた。
ふわりと、淡く優しい光が、暗い室内に満ちた。
その光に照らされて、リンがゆっくりと顔を上げる。光の源に視線を移した彼女の瞳が、信じられないものを見るように、大きく見開かれた。
透明な球体の中で、小さなアベニーパファーのペアが、淡い光に包まれながら、寄り添うように泳いでいる。ときおり互いを見つめるように、そっと軌道を重ねながら。シャトルと共に消えたはずの、母の記憶。ユウとの夢。その全てが、今、目の前で静かに、確かに輝いていた。
「……うそ……」
か細い声で呟いたリンが、光の向こう側へと視線を移す。
そこに、彼女が死んだと思っていた男が、優しい眼差しで微笑んでいた。
「……ユウ……?」
「ああ。君を助けに来た。そして約束を果たしに来たよ」
その言葉が、引き金だった。
リンの瞳から、堰を切ったように涙が溢れ出した。嗚咽が漏れ、彼女は目の前の温かい光と、その向こうにいる神崎へと、震える手を伸ばした。
「ユウッ……! ユウ……!」
「リン……!」
二人は強く、強く抱きしめ合った。失われたと思っていた温もりを、互いの存在を確かめるように。リンは彼の背中に腕を回し、子供のように泣きじゃくった。神崎は彼女の髪を優しく撫で、何度も、何度もその名を呼んだ。宇宙と地球、生と死、絶望と希望――その全てを乗り越えて、二つの魂は、ようやく約束の場所で一つになった。
その光景を、通路の入り口からカンナは静かに見つめていた。コクピットのモニターに映る二人の姿。神崎の、見たこともないほど安堵に満ちた表情。
彼の幸せを願っていたはずなのに
なのに、胸の奥が、焼けつくように痛んだ。
(……私には関係ない。これは神崎の物語だ。私はただの相棒だ)
自分にそう言い聞かせる。彼女がここに来た目的は、彼の夢を守る手伝いをすることだったはずだ。それが今、目の前で叶っている。喜ぶべきことだ。
それなのに――。
彼の幸せを願う心と、自分の孤独が、静かに胸の中ですれ違っていた。
『カンナ、追放区の状況が悪化しています。STYxの部隊が増援されている模様』
ARK-μの冷静な声が、カンナを現実に引き戻す。
カンナはモニターから目を逸らし、操縦桿を強く握りしめた。
父と母を奪った、あの黒い悪魔。その悪夢が、今ここで繰り返されようとしている。そして、追放区にはテロリストだけではなく、女子供もいるとアヤコは言っていた。
(あたしの戦場は、ここじゃない)
「ARK-μ、神崎とリンさんを頼む。あたしは、追放区へ向かう」
『単独での行動は危険です。論理的に推奨できません』
「大丈夫。これは、あたしの問題だ」
カンナはきっぱりと言い放つと、〈OTOHIME〉を反転させた。
「STYxは、父と母の遺産じゃない。歪められた亡霊だ。だから、私が葬る」
その瞳には、神崎とリンの再会を見つめていた時の複雑な色合いはもうなかった。憎悪と覚悟に燃える、戦士の光が宿っていた。
ピンク色の機体は、一人、静かに追放区画へと続く暗い通路の奥へと消えていった。




