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星を泳ぐ小さな命  作者: たんすい
第1章:喪失の水辺
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井戸の底の星

 2097年9月25日 JAXA 地下統合研究施設(通称:アクア・ネスト)


【否決】――その二文字が胸に突き刺さってから、三度目の夜が訪れた。


 太陽の光も届かない、地下100メートルの閉鎖空間。神崎優希は、巨大な水槽の青い光だけが照らす研究室で、終わりのないデータとの睨み合いを続けていた。天井のメインスクリーンには、エデン・ステーションから送られてくるリアルタイムの宇宙映像が静かに流れている。手の届かない星々の輝きが、彼の孤独を際立たせていた。


「これだけのデータがあっても、あの距離は越えられないのか……」


 スクリーンを睨みつけ、唇を噛む。その時、ディスプレイの隅にあるAI委員、ARK-μの識別コードが目に入った。あの会議で唯一、彼の言葉を理解しようとしてくれた、遥か彼方の知性。藁にもすがる思いで、神崎は通信を要求した。


 わずかなタイムラグの後、淡い光とともに、ARK-μの女性型アバターがホログラムとして姿を現す。


「ARK-μ。再提案の道を探している。力を貸してほしい」


 神崎の焦りを帯びた声に、ARK-μは静かに応じた。


『対話を開始します。神崎博士、あなたの情熱は論理的ではありません。しかし、非論理的な情熱こそが、時に論理の壁を破壊する起爆剤となり得ます』

「どういう意味だ?」


『委員会の論理、すなわち『空間効率』と『食料生産性』という鉄の壁です。その論理に対抗するには、博士の情熱を彼らの理解できる言語――『実証モデル』に翻訳する必要があります』


 ARK-μは続けた。

『夢を語るだけでは、彼らには届きません。その夢がいかに効率的で、いかに実現可能であるかを、最小単位の現実として、この地球から提示するのです』


「最小単位の現実……」

 神崎は、その言葉を反芻する。それは、夢想家である自分に、科学者としての原点へ帰れと諭すような言葉だった。


『はい。夢は、構造と証明によって初めて共有可能な未来となります』


 その瞬間、神崎の中で何かが繋がった。そうだ、母にフグをねだったあの日のように、ただ「欲しい」と叫ぶだけではダメなんだ。どうすれば飼えるのか、どうすれば生かし続けられるのか。その道筋を、この地下深くの研究室から、宇宙そらへ示さなければ。


「……わかった。やってみるよ」

 覚悟を決めた神崎の目に、再び光が宿った。

 その変化を見届けたかのように、ARK-μは最後の情報を付け加えた。


『その『最小単位の現実』を構築する上で、不可欠な専門家が一人います。ステーションの生命線を握る水質管理システムの開発者、リン・メイ技術士です』


 ARK-μの瞳の奥で、一条の光がまたたく。それは、神崎にとって、地球という閉ざされた井戸の底から見上げた、唯一無二の希望の星だった。


 同時刻 エデン・ステーション、アクア・ドーム


 静寂に包まれた魚類データベース室で、リンは一人、ホログラフィック・インターフェースを操作していた。指先が宙を舞い、膨大なデータをフィルタリングしていく。彼女の個人的な興味が、ある一点へと収束していた。――淡水フグ。


 そして、一つのファイルに辿り着く。

【Carinotetraodon travancoricus】――アベニーパファー。

 ファイルを開くと、柔らかな光が空中に結像し、一匹の小さなフグが姿を現した。


 体長はわずか3センチほど。淡い黄色の体に、インクを垂らしたような黒い斑点。ホバリングするように宙を漂い、大きな黒い瞳で、じっとリンを見つめているように見える。


 そのデータの隅に、墓標のように冷たく輝く赤色の警告表示があった。


【STATUS: EW (Extinct in the Wild) - 2085年、インド・パンバ川流域にて野生最後の個体の活動停止を確認】


 その無機質な宣告が、リンの胸に突き刺さる。

 もう、この星のどこにもいない。目の前で愛らしく泳ぐこの姿は、過去の記録から再現された、ただのデジタルな幻影ゴーストに過ぎないのだ。


 ホログラムのフグは、そんな運命など知る由もなく、ぷくりと頬を膨らませるような仕草を見せた。そのあまりにも健気な姿が、取り返しのつかない喪失感をリンの胸に刻み付けた。


「……もう、いないんだ」


 絞り出すような呟きが、静寂に溶けていく。


「はい。基底生息地であったインド南西部の河川は、海面上昇により生態系ごと水没したと記録されています」


 ふいに、背後から凛とした声がした。振り返ると、いつの間にかARK-μのアバターが静かに立っていた。その言葉に、リンの表情がわずかに陰る。


「……そう。私の故郷と同じね」


 ARK-μは、どこか寂しげなリンの横顔に視線を向けた。


「神崎博士の守りたいものが何なのか、知りたくなって。あなたもそう感じる?」

 リンの問いに、ARK-μは静かに頷いた。


『はい。彼の提出した研究論文と思考ログを分析しましたが、その根底には、我々の論理構造とは全く異なる、強い情動が存在するようです』

「あなたも、守りたいと思っているの? 淡水フグたちを」


 ARK-μは少しの間、沈黙した。まるで、自身のプログラムの中に新しい感情の芽生えを確認しているかのように。


『……ええ。論理的な整合性よりも、その存在理由を優先したいと、初めて、そう思考しました』

「それが、このフグに出会った理由、ね。……もしかして、神崎博士に同情でもしてるんじゃない?」


 リンが悪戯っぽく笑うと、ARK-μは少しだけ不服そうな表情を見せた。


『同情……。その感情は未定義ですが、あるいは。博士の挫折に、私の論理が何かを感じたのかもしれません』

「あなたが!?」


『笑わないでください、リン。AIにだって、心のようなものが芽生えるのかもしれませんよ』


 その時だった。ピコン、と静かな電子音が室内に響き、リンの目の前に通信要求の通知がポップアップした。発信元を示すコードは、ただ一言。


【EARTH】


 ARK-μはそれを見ると、全てを理解したように穏やかに微笑んだ。


『リン、噂をすればなんとやら、ですね。どうか、彼を助けてあげてください』


 そう言うと、ARK-μのアバターはリンの返事を待たずに、光の粒子となってすうっと消えていった。

 後に残されたのは、小さなフグのホログラムと、点滅を続ける着信通知。

 発信者の名が、そこに表示されていた。


「神崎、優希……」


 リンは、その名前を静かに呟いた。そして、ふっと笑みをこぼす。


「……あのおせっかいAI、ほんとに人間みたいね」


 指先が、着信ボタンへと伸びていく。

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