星の海の対話
アクア・ドームへ向かう数時間の航行。束の間の平穏。
二人は窓に並び、遠ざかっていく地球を眺めていた。神崎は腕の中の〈アクア・ステラ〉を、祈るように静かに見つめている。カンナは、そんな彼の横顔を気づかれないよう、そっと目で追っていた。
しばしの沈黙の後、カンナが口火を切った。 「……神崎がアクア・ドームで会いたい人って、どんな人?」
その問いに、神崎は少し照れたように視線を彷徨わせたが、やがて真っ直ぐな瞳で語り始めた。リンとの出会い、彼女の故郷への想い、そして閉ざされた自分の心をこじ開けてくれた、その情熱について。
「彼女は、僕の夢を……僕だけのものじゃないって、教えてくれた人なんだ」
彼の言葉に宿る確かな熱は、誰か別の人に向けられている。 それでも――その夢が叶ってほしいと、強く願ってしまう自分がいた。 カンナは自分の気持ちに蓋をするように、努めて明るく言った。
「そっか。じゃあ、絶対会わないとだな!」
微笑みながらも、胸の奥に小さな痛みが走るのを感じていた。 彼が見つめるその球体の中にある未来は、彼女のものではない。 それでも、その夢が叶ってほしいと願ってしまう自分がいる。
窓の外では、地球がゆっくりと遠ざかっていく。 青く輝くその星は、彼女たちの故郷であり、彼の約束の場所でもあった。
「……いいな、そういう人がいるって」
カンナはぽつりと呟いた。神崎は気づかず、〈アクア・ステラ〉を愛おしそうに見つめ続けている。
彼女はそっと視線を落とし、袖をまくって左腕の内側に指を添えた。 そこには、薄く残る古い火傷の痕――かつて〈OTOHIME〉でSTYxと戦った日に負ったものだった。 誰にも見せたことのないその傷は、彼女の戦いと、孤独の証だった。
指先でその痕をなぞるたび、胸の奥に静かな痛みが広がる。 それでも、今こうして彼の隣にいることが、少しだけ眩しく感じられた。
「……わたしも、誰かの夢になれたらよかったな」
その言葉は、誰にも届かないように、宇宙の静寂に溶けていった。
神崎がふと振り返る。 「カンナ?」 「ううん、なんでもない」
彼女は笑った。 その笑顔は、いつものように快活で、少しだけ強がっていた。
何か話題を変えなければ。このままでは、隠している気持ちが見透かされてしまいそうだった。 カンナは彼に一歩近づくと、腕の中の球体を覗き込んだ。
「ねえ、その魚のこと、もっと教えてよ。アベニー……なんだっけ?」
共通の話題が欲しかった。彼の世界に、ほんの少しでも触れたかった。 その純粋な好奇心に、神崎の表情が和らぐ。
「アベニーパファー。世界で一番小さい、淡水のフグなんだ。もう地球では絶滅してしまったけどね」
彼は嬉しそうに語り始めた。淡い黄色の体に黒い斑点があること。ホバリングするように泳ぐ独特な姿。 そして、感情豊かで、時には仲間とじゃれ合うように喧嘩もすること。 まるで我が子のことを語るように、その言葉は愛情に満ちていた。
カンナは相槌を打ちながら、彼の話に熱心に耳を傾ける。 フグの生態も、彼の声も、今はすべてが心地よかった。
「……そっか。ただの魚、じゃないんだね」
カンナがそう言うと、神崎は力強く頷いた。
「ああ。あいつらは、母さんが遺してくれた、最後の命だから」
その言葉に、カンナは息を呑んだ。 彼がこの小さな命に注ぐ愛情の深さ、その根源に触れた気がした。 そして同時に、自分もまた、彼の夢の一部を守るためにここにいるのだと、改めて強く思った。
「わたしも……わたしも神崎の夢を手伝うことが出来るかな?」
カンナは真っ直ぐに神崎を見つめて言った。 その瞳には、もう寂しさの色はなかった。 彼の隣で戦う覚悟を決めた、確かな光が宿っていた。
「ああ、もちろんだよ。ありがとう、カンナ」
神崎の言葉に、カンナは静かに微笑んだ。 その笑顔は、もう誰かに向けられたものではなく、自分自身のためのものだった。
彼の夢に触れたことで、痛みは消えない。 けれど――その夢を守るために、自分がここにいること。 それだけで、今は十分だった。
宇宙の静寂の中、カンナはそっと目を閉じた。 その胸の奥に、まだ誰にも知られていない、小さな願いが灯っていた。




