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星を泳ぐ小さな命  作者: たんすい
第1章:喪失の水辺
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虚ろな凱歌

 ――時間は遡る。


 話は、Dr.リーが毒に侵された水槽を前に、テロリストへの全面降伏を宣言した直後まで逆上る……。アクア・ドームは、勝者の歓喜も敗者の嘆きも存在しない、ただ不気味な静寂に包まれていた。



 勝利を手にしたはずの〈テラ・リベレイト〉のメンバーたちは、管制室を占拠することもなく、まるで目的を終えた亡霊のようにドーム各所へと散っていった。


 彼らの視線は、アクア・ドームの内部ではなく――もっと遠く、遥かな宇宙そらの果てを見つめているようだった。その異様な無関心さこそが、この襲撃の真の目的がここにはないことを、何よりも雄弁に物語っていた。リンたちの背筋に、冷たいものが走る。


 その沈黙の傍らで、Dr.リーをはじめとするスタッフたちは、地獄にも似た解毒作業に追われていた。


 アマゾン、コンゴ、メコン――かつて地球の生態系を象徴した巨大水槽群は、今や毒に侵され、刻一刻と死にゆく「緩やかな墓場」と化していた。


 スタッフたちは、失われゆく命を一つでも救うため、眠ることすら忘れて中和剤を投入し、まだ息のある個体を隔離水槽へと移していく。


 だが、その努力を嘲笑うかのように、水槽のガラス越しには、次々と沈んでいく魚影が揺れていた。


 そんな絶望の中、リンもまた別の戦いを続けていた。

 彼女は作業室に籠り、ユウと共に設計した「アクア・ステラ」を、憑かれたように組み立て続けていた。


 ありったけの予備資材を3Dプリンターに投入し、不眠不休で稼働させる。彼女が救おうとしていたのは、毒への耐性が極端に低い、稚魚や幼魚たちだった。


「アクア・ドームの命を……こんな場所で終わらせない……!」


 涙をこらえながら、彼女は小さな命を一つずつ、透明な球体の“箱舟”に移していく。

 それは、圧倒的な絶望に抗うための――あまりにも小さく、しかし確かな希望だった。


 だが皮肉にも、その間にもたらされた“全員の集中”こそが、カガトが描いた筋書きそのものだった。


 彼らの必死の救命作業は、カガトが真の目的を遂行するための、完璧な陽動であり、時間稼ぎでもあったのだ。


 その均衡が、音を立てて崩れたのは突然のことだった。


 ステーション全域に、これまで聞いたことのない、甲高く鋭い警報が鳴り響いた。それはテロの警報ではない。最上位のドッキングプロトコルが発動されたことを示す、威圧的なシグナルだった。メインスクリーンに、艦影が映し出される。流線形でありながら重厚な装甲に覆われたその船は、定期シャトルや貨物船とは明らかに異質な、軍事的な威圧感を放っていた。


 船体には、一つの徽章が描かれている。青い地球を、灰色のオリーブの葉が囲む――地球統一政府・地球圏保安維持機構(Earth Sphere Peace-maintenance and Reformation Organization、通称:ESPRO)。地球12億人の秩序を、宇宙空間にまで強制執行する唯一無二の組織。彼らの介入は、惑星規模の危機、あるいは重大な反逆行為があったことを意味した。


 ESPROエスプロの巡洋艦「ジャスティティア」は、一切の警告も通信もなく、ステーションのベイ3に寸分の狂いもなく接近する。その威容は、救助ではなく完全な制圧を目的としていることを誰の目にも明らかにした。アクア・ドームの管制室では、絶望の淵にいたスタッフたちの顔に、恐怖と入り混じったかすかな安堵の色が浮かんだ。


「……助けが、来たのか……?」

 誰かが震える声で呟いた。


 ドッキングベイを見下ろす隠し通路で、カガトはその光景を冷ややかに見つめていた。手元の起爆装置のランプが、彼の顔を赤く照らしている。


「来たな、地球の番犬どもが」


 オートメーション化されたドッキングアームが、滑らかに巡洋艦の船体へと伸びていく。巨大なクランプが船体を掴み、ステーションへと引き寄せる。金属同士が触れ合い、固定される重々しいロック音が、ステーションの構造体を伝って微かに響き渡った。管制室のモニターに『DOCKING SEQUENCE: COMPLETE』の緑色の文字が灯る。


 リンたちが、安堵の息を漏らそうとした、その瞬間だった。


 宇宙空間に、音はない。ただ、太陽よりも眩い閃光が、ベイ3を中心に膨れ上がった。

 直後、ステーション全体を凄まじい衝撃波が襲う。床が大きく跳ね上がり、天井のパネルが剥がれ落ちる。管制室のスタッフたちは悲鳴を上げて床に倒れ込み、巨大水槽の水面は激しく波立ち、壁に叩きつけられた。


 メインスクリーンに映し出された映像は、地獄そのものだった。

 ベイ3は巨大なクレーターのように抉り取られ、接続されたばかりのESPRO巡洋艦の艦首は、無残に砕け散っている。爆炎と金属片が、星々の間に悪夢のように広がっていた。


 その惨状を前に、静寂を破る声が上がった。ドームの各所から、潜んでいた〈テラ・リベレイト〉のメンバーたちが姿を現し、天を突くような歓声を上げたのだ。彼らは銃を空に掲げ、互いの肩を叩き合い、地球の権威を打ち砕いた自分たちのリーダーを讃えた。


 恐怖と絶望が、アクア・ドームのスタッフたちの表情を凍りつかせる。歓喜の雄叫びを上げるテロリストと、目の前で救いの手が爆散した現実。そのあまりにも残酷な対比が、彼らの心を完全にへし折った。


 Dr.リーは、モニターに映る燃え盛る残骸を、呆然と見つめていた。彼の唇が、わななくように動く。


「……和平などではなかった……これが、お前の望んだ結末か……」


 その言葉に応えるかのように、ステーション全域にカガトの声が響き渡った。それは、勝利を宣言する、冷徹で揺るぎない声だった。


「聞こえるか、地球。これが我々の答えだ。エデン(アクア・ドーム)は、我々が取り戻した」


 その放送を合図に、〈テラ・リベレイト〉の歓声がドームの通路にこだまする。リンたちスタッフは、勝利に酔いしれるテロリストたちの姿と、破壊されたドッキングベイの映像との間で、ただ立ち尽くすしかなかった。


 ドッキングベイを見下ろす隠し通路で、カガトは部下たちの凱歌を聞きながら、口元に満足げな笑みを浮かべていた。彼は勝利を確実なものとするため、最後の仕上げに取り掛かる。地球で唯一信頼する同胞、アヤコへの通信回線を開いた。この勝利を報告し、約束の「切り札」の輸送を最終確認するためだ。


 モニターに、潮風に吹かれるアヤコの姿が映し出される。


『アヤコか。次のシャトルの情報は掴めたか』

 モニターの向こうで、カガトが勝利の高揚を隠せない、しかしどこか苛立った声で言った。


 だが、モニターに映るアヤコの表情に、祝福の色はなかった。彼女は、揺るぎない眼差しでカガトを真っ直ぐに見据え、はっきりと告げた。


「カガト。我々は、あんた達との共闘関係を、これにて破棄する」


『……何だと?』


 カガトの顔から笑みが消える。アヤコは、彼の動揺など意にも介さず、静かに、しかし決定的な言葉を続けた。


「我々は、破壊者であることをやめる。私たちは、この地球で、私たちの未来を創ることにしたんだ。もう、あんた達の歪んだ復讐劇に、私たちの技術は使わせない」


 一方的に通信が切断され、モニターは暗転した。通路の外では、まだ仲間たちの歓声が響いている。しかし、カガトの耳にはもう届いていなかった。勝利の喧騒のただ中で、彼は、自分が宇宙にたった一人で取り残されたことを、悟った。

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