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星を泳ぐ小さな命  作者: たんすい
第1章:喪失の水辺
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星屑の天秤

 国際宇宙生態系委員会(ISERC)の定例会議。メインスクリーンには、地球から接続している神崎優希の顔が大きく映し出されていた。そして、彼を取り囲むように、ステーション内外の委員たちの顔が並ぶ。


「アクア・ドーム」の常駐技術者、林芽衣――リンも、その一人だった。技術者としての冷静な目で、彼女は神崎の提案を分析していた。淡水フグ。限られたスペース、低い食料効率。データだけを見れば、非現実的な選択肢としか思えない。


「――以上が、私の提案です。淡水フグは、閉鎖生態系における環境指標生物として、極めて重要な役割を担うと確信しています」


 地球から届く声は、熱を帯びていた。神崎は情熱を込めてプレゼンを締めくくった。


 その言葉に、リンはわずかに眉をひそめる。彼の語る内容は科学的根拠に基づいている。だが、その響きはどこか切実すぎた。まるで、フグという存在に個人的な祈りや過去を重ねているかのような、危ういほどの執着。


 ――この人は、何を見ているのだろう?


 理解はできない。だが、無視もできない。リンの中に、技術者としての合理性を超えた小さな疑問が芽生えた。


 その疑問に応えるかのように、AI委員ARK-μ(アーク・ミュー)が即座に賛同を示した。


「神崎博士の提案を支持します。フグ科の進化史的価値は、他のどの魚種にも代えがたい。特に淡水フグは、地球の水辺が紡いできた小さな詩です。それを未来の記憶から消すことは、静かなる断絶を意味します。保存優先度はA+と評価します」


 ARK-μの詩的ですらある賛同は、しかし他の委員たちの心を動かすには至らなかった。間髪入れず、Dr.リーが冷徹なデータをスクリーンに映し出す。


「おとぎ話はそこまでだ、神崎博士。エデン・ステーションの食料自給率は現在62%。これを80%まで引き上げることが我々の最優先課題だ」


 無機質なグラフが、神崎の情熱に冷や水を浴びせる。


「君のかわいいフグのために、500人分の食料生産能力を犠牲にする余裕など、我々にはない」


「しかし、生態系の多様性という観点から見れば…!」

 若手の委員が援護の声を上げたが、それを遮ったのは、元老委員の厳かな一言だった。


「スペースは無限ではない。今は、5万人の人類の存続を最優先とすべきだ」


 それは、議論の終わりを告げる事実上の判決だった。


 議長が事務的に進行する。「では、最終確認として、本提案の採択に賛同する者は挙手を」


 静寂が流れる。

 最初に、理想を瞳に宿した若手委員が、迷いなく真っ直ぐに手を挙げた。

 続いて、スクリーンに映るARK-μ――柔らかな光で構成された精巧な女性型のアバターが、凛とした動作でその手を挙げた。


 そして――リンが、静かに手を挙げた。


 技術者としての合理的な判断ではない。ただ、あの男の執念の根源を知りたい。効率や数字だけでは測れない「何か」が、この提案にはある。その正体を見極めたい。彼女の心を動かしたのは、純粋な知的好奇心だった。


 だが、彼らに続いた委員は、一人もいなかった。


「……賛同者、三名。本提案は、規定数に満たないため否決されました」


 議長の非情な宣告が、神崎の未来に終止符を打った。

 地球でその画面を見つめていた神崎は、モニターの片隅に映るリンの顔をただ見つめていた。彼女が手を挙げたことに驚きながらも、その瞳に宿る悔しさと無力感を読み取る。だが、もはや言葉を交わす術はなかった。


 セッションが終了し、委員たちの顔が消える。無音の空間に一人取り残された神崎の元に、Dr.リーからメッセージが届いた。丁寧な言葉で綴られた、残酷なまでの拒絶。


『神崎博士、君の情、および情熱は理解する。だが今は、その時ではない』


 ――理解、だと?

 怒りが腹の底から突き上げてくる。神崎は奥歯を強く噛み締めた。

 食料、水、空間。すべてが有限であることなど、科学者である彼が一番理解している。だが、命は本当に数や効率だけで比べられるものなのか?


 母との約束。救いたいと願った命。未来への祈り。

 その全てを「理解する」の一言で片付けられ、目の前で重い扉が閉ざされた。


 追い打ちをかけるように、地球の友人から厳しい現実を告げるメッセージが届く。


『国家連合からの圧力だ。食料とエネルギーに予算を集中させろと。悪いが、淡水フグじゃ議会は説得できない』


 通信を切った部屋に、静寂が満ちる。

 どうしようもない深い挫折感が、神崎の全身を支配していた。母の最期の顔が脳裏をよぎる。あの日の約束が、まるで宇宙の真空に吸い込まれて消えていくようだった。

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