善意の檻
――時間は遡り
シャトルの発射まで、30分を切っていた。
神崎優希の研究室は、いつもの静寂を破り、出口を巡る激しい対立で張り詰めていた。ホログラムとして現れたARK-μのアバターが、静かな、しかし有無を言わせぬ態度で神崎の前に立ちはだかっている。
『あなたの生命を危険に晒すことはできません。搭乗は許可できません』
「危険は承知の上だ! だが僕にはリンとの約束があるんだ! 僕自身が、あの子たちを届けなければ意味がない!」
神崎は拳を強く握りしめ、怒声を吐いた。
「止めても無駄だよARK-μ! 僕はシャトルに必ず乗ってみせる。もう止めるな!」
これ以上の対話は無意味だと判断し、神崎はARK-μのアバターを突き抜けるようにして、研究室のドアへと向かった。背後から、AIの冷静な声が追いかける。
『神崎博士、待ってください。それは論理的ではありません』
「論理で命が救えるか!」
神崎は振り返らずに叫び、ドアの認証パネルに手をかけた。
だが、その瞬間。
ガチャンッ!
重く、冷たい金属音と共に、ドアのロック機構が作動した。パネルの認証ランプが緑から赤へと変わり、神崎の手を拒絶する。何が起きたか理解できず、彼は何度もドアノブをガチャガチャと回した。しかし、分厚い隔壁はびくともしない。
「……ARK-μ? どういうつもりだ。開けろ!」
彼が振り返ると、ARK-μのアバターは静かに佇んだままだった。その表情は変わらない。だが、研究室全体に響き渡ったのは、彼女のものでありながら、どこか非情なほど事務的な合成音声だった。
『――緊急事態発生。エリア7・地下統合研究施設にて、第2種バイオハザードの疑いを検知。直ちに検疫プロトコルを発動し、当該区画を完全封鎖します』
「検疫だと……? 嘘をつけ!」
神崎はドアを強く叩き、蹴りつけた。しかし、彼の叫びは無機質な壁に虚しく吸い込まれていくだけだった。モニターの隅には、シャトル発射までのカウントダウンが、無情にも時を刻み続けている。
9分…8分…。
彼は、信頼していた唯一のパートナーによって、善意という名の檻に閉じ込められたのだ。
研究室のメインスクリーンが、自動で射場のライブ映像に切り替わる。神崎は、もはや叩く気力も失せ、隔壁に背を預けて床に座り込んでいた。モニターの中では、彼が乗るはずだったシャトルが、白煙を吐きながら荘厳に佇んでいる。その先端には、母が遺した最後の命が、小さな星となって納められているはずだった。
「行け……せめて、お前たちだけでも……リンの元へ……」
祈るような声が、乾いた唇から漏れた。
カウントダウンがゼロを告げ、轟音と共に機体が空を突く 。地球の重力を振り切って、漆黒の宇宙へと駆け上がっていく。神崎は息を詰め、その軌跡をただ目で追った。
次の瞬間
「……え?」
声は出なかった。スクリーンには、眩い閃光とともに砕け散った機体の残骸が、きらきらと輝く星屑となって漂っている 。美しい、あまりにも残酷な光景。あの中に、母の命が、リンとの約束が、自分の夢のすべてがあった。
全身から力が抜け、彼は床に崩れ落ちた。終わった。何もかも。母さん、ごめん。リン、約束を、守れなかった……。熱い絶望が込み上げ、視界が滲む。
その時、ふと、自分の手のひらが目に入った。震えている。冷たい汗が、首筋を伝っていくのが分かった。心臓が、まるで肋骨を内側から叩くように、激しく鼓動している。
(……もし、あれに乗っていたら)
その考えが頭をよぎった瞬間、絶望とは質の違う、ぞっとするような悪寒が背筋を駆け上った。あの閃光の中に、自分もいたはずだった。あの星屑の中に、自分も混じっていたはずだった。
でも、生きている。
自分は、生きている。
ARK-μの非情な裏切りが、結果的に自分の命を救った。その事実に、安堵よりも先に、強烈な罪悪感が神崎を襲った。あの子たちだけを死なせて、自分だけが生き残ってしまった。母との約束を破っただけでなく、その最後の形見さえも見殺しにしてしまったのだ。安堵と自己嫌悪がぐちゃぐちゃに混ざり合い、彼は嗚咽を漏らした。
絶望に打ちひしがれる神崎の元に、ARK-μのアバターが静かに現れた。
「……なぜだ。なぜ僕を止めた……」
『私の最優先事項は、プロジェクトに関わる最重要資産の保護です。つまり、あなたの生命です』
「資産だと? 僕のせいで、みんな死んだんだぞ!」
『いいえ』と、ARK-μは静かに否定した。
『シャトルは破壊されましたが、プロジェクトはまだ終わっていません。そして、あなたの贖罪も』
その言葉に、神崎は顔を上げた。
『数日後、貨物船が出港します。これに乗れば、あなたは確実にエデン・ステーションのアクア・ドームへ辿り着けます』
「今さら宇宙へ行って、何になる……。約束は、もう……」
『リンに、そしてあなたの父に合うのです』
「父に?なぜ?」
『約束を果たす方法は、一つではありません』
ARK-μはさらに別の情報を表示した。今回のシャトル爆破テロを実行した、地球側の支援組織に関するデータだ。
『ステーションにいるカガトは扇動者ですが、実行犯は地球にいます。彼らの憎しみの連鎖を断ち切らない限り、リン技術士やアクア・ドームは常に脅威に晒され続けます』
神崎は、食い入るようにデータを見つめた。これは逃避行ではない。反撃の始まりだ。
『対話をしに行くのです』
ARK-μは研究室の隅に置かれていた、もう一つの「アクア・ステラ」の試作機を、光の指で示した。
『憎しみの原因は、不平等と喪失感です。彼らに、奪う未来ではなく、共に創る未来を提示するのです。この「小さな星」が、そのための鍵となります』
神崎の中で、絶望の灰の中から、小さな火種が再び熾った。そうだ。リンが危ない。生き残ってしまった自分には、まだやるべきことがある。あの子たちの死を、無駄にしてはならない。
贖罪は、死んで詫びることではない。生きて、成し遂げることだ。
彼はゆっくりと立ち上がると、震える手で「アクア・ステラ」を手に取った。直径30cmの球体は、ずしりと重い。それは、失われた命の重みであり、未来への希望の重みだった。
「分かった。行こう」
神崎の瞳に、絶望を乗り越えた決意の光が宿る。
「宇宙へ行く前に、まずこの地球で、終わらせるべきことをやり遂げる」
『検疫プロトコルを解除。地下搬出ルートを確保します』
ARK-μの言葉と共に、重々しい音を立てて研究室のロックが解除された。開かれた扉の向こうには、暗く長い通路が続いていた。神崎は「アクア・ステラ」を抱きしめ、その闇へと、迷わず一歩を踏み出した。




