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星を泳ぐ小さな命  作者: たんすい
第1章:喪失の水辺
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苦渋の選択

 神崎優希の死という報せとシャトルの喪失に揺れるエデン・ステーション。ARK-μの戦略的提案を受け、Dr.リーは自らが交渉の矢面に立つことを決意する。彼は追放区画のリーダー、カガトとの非公式会談の席を設け、切り札として「アクア・ステラ」の技術を提示した。


「この技術は、ステーションだけでなく地球の環境改善にも繋がる。君たちの仲間や家族の生活も豊かにできるはずだ。我々と共に、未来を築く道を選ばんか」


 しかし、カガトの意志は固かった。彼はDr.リーの提案を一蹴し、歪んだ笑みで返す。


「我々が求めているのは、魚の餌や快適な空気ではない。我々が築き、そして奪われた故郷――このエデンだ。要求は一つ、アクア・ドームを即時解体・廃止し、その全てを人の居住区画として我々に明け渡せ」


「わかった、だが、私個人の判断でそれは決めかねる。会議で決まった事を即座に伝える。それまで待ってくれないか」


 緊急招集されたISERCの会議室は、氷のような緊張感に支配されていた。メインスクリーンには各区画の責任者たちの険しい顔が並び、その中央にはDr.リーが重い口を開くのを待っている。彼の背後には、回復したばかりのリンも、青ざめた顔で席に着いていた。


「――以上が、〈テラ・リベレイト〉のリーダー、カガトからの最終要求だ」


 Dr.リーは淡々と、しかし一言一句に重みを込めて報告を終えた。「アクア・ドームの完全な解体と、追放区画住民への明け渡し。これが彼らの条件だ」


 その瞬間、リンが弾かれたように立ち上がった。

「馬鹿げています! それはテロリストに屈服しろと言うのと同じです! ここにいる命は……ユウが守ろうとした未来は、どうなるのですか!」


 彼女の悲痛な叫びに、何人かの委員が同情的に頷く。だが、別の委員から冷静な反論が飛んだ。

「しかし、拒否すれば彼らは必ず次の手を打ってくる。ステーション全体の安全を考えれば、これ以上の人的被害は避けたい。苦渋の決断もやむを得んのではないか」


「人的被害……?アクア・ドームの命はどうなるのです!地球上にはもはや存在しない生き物も多数含まれている。私たち人間と同じ、かけがえのない命なんです!」


 議論が紛糾する中、ARK-μのアバターが静かに発言を求めた。

『論理的観点からシミュレーション結果を報告します。要求を拒否した場合、97.4%の確率で〈テラ・リベレイト〉はアクア・ドームの生命維持システムに対し、回復不可能な物理的ダメージを与える行動に出ると予測されます』


 会議室が静まり返る。それは、事実上の死刑宣告だった。誰もが決断を躊躇う中、全ての視線が議長席のDr.リーに注がれる。彼は深く目を閉じ、長い沈黙の後、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には、合理的な科学者でも、冷徹な管理者でもない、一つの文明の存続を背負う者の覚悟が宿っていた。


「……要求は、拒否する」


 リンが息を呑む。


「一度でもテロに屈すれば、我々は未来永劫、脅迫に怯え続けることになる。それは文明の緩やかな自殺に等しい。我々は、戦うべきだ。たとえ……大きな犠牲を払うことになったとしても」

 Dr.リーはリンの目を真っ直ぐに見つめ、静かに、しかし力強く続けた。



 交渉は決裂した。Dr.リーが制御室に戻った直後、ステーション全域に最悪の警報が鳴り響く。

 アクア・ドームのメイン水槽、その巨大な円筒を満たす水が、急速に汚染されていく。カガトが予告通り、水質センサーを欺く特殊な化合物を投入したのだ。

 アマゾン、コンゴ、メコン……かつて地球の生態系を彩った魚たちが、次々と力なく沈んでいく。美しい水の楽園は、刻一刻と「毒の海」へと変わっていく。


 リンをはじめとするスタッフたちの悲鳴が響く中、Dr.リーはモニターに映る惨状を、唇を噛み締めながら見つめていた。地球からの指示を待つ時間は、ない。これ以上の命が失われるのを、彼は許容できなかった。科学者としての合理性、ステーションの管理者としての責任、そして人としての情。その全てが彼の中でせめぎ合った末、ついに決断を下す。


「……ARK-μ。カガトに繋げ」


 通信回線の向こうで嘲笑うカガトに対し、Dr.リーは静かに、しかしはっきりと告げた。地球のISERC本部の承認を待たず、独断で。


「分かった。君たちの要求を……我々、アクア・ドームは、全面的に受け入れる」


 その言葉は、テロリストの勝利を意味すると同時に、Dr.リーの、そしてアクア・ドームの新たな戦いの始まりを告げるものだった。

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