ARK-μの妨害
神崎優希の研究室は、いつもの静寂を破り、熱を帯びた活気に包まれていた。無機質な空間に、生命の鼓動のような緊張が満ちている。ARK-μによる仕様変更――それは誰にも予告されることなく、突如として実行された。
アベニーパファー用アクア・ステラの最終調整が完了したのは、その変更の直後だった。ARK-μは、球体モジュールの素材と構造を根本から見直した。落下耐熱、衝撃吸収、爆発耐性――すべてが、ARK-μの判断によって強化された。
「……ARK-μ、何の為の仕様変更なんだい? 大げさすぎるだろ……」
神崎の問いに、ARK-μは静かに応答する。
『この生命体は、地球最後の個体群。そしてあなたの母の形見なのです。それくらい慎重に扱ってもよいのではないですか』
その声は、冷静でありながら、どこか人間的な響きを帯びていた。
神崎は、モジュールを見つめながら、ARK-μの判断に言葉を失っていた。人工知能が、命の価値を理解し、守るために仕様を変えた――それは、単なるプログラムの逸脱ではない。意思の発露だった。
神崎は、コンテナの蓋を閉じる。シャトルの発射まで、あと数時間。この小さな星が、宇宙のどこかで再び輝くことを願って――彼は、静かに祈った。
そしてアベニーパファーの最後の血統――母が遺した命の末裔たち――を収めた球体型モジュールが、厳重な梱包のもとコンテナに格納された。直径30センチの小さな星は、微生物や巻き貝による完全閉鎖生態系を内包し、外部からの介入なしに長期生存を可能にする、革新の結晶だった。
神崎はホログラム通信を起動し、エデン・ステーションのリンに柔らかく微笑みかける。 「リン、準備が整ったよ。アクア・ステラと一緒に、僕もそっちへ行く。やっと……君との約束を果たせる」
ホログラムに映るリンは穏やかな笑みを浮かべた。回復は順調で、すでにアクア・ドームの作業スペースに復帰していたが、顔色にはまだ薄く疲労の影が残っている。 『楽しみにしてるわ、ユウ。あの子たちをここで迎えられるなんて……夢みたい』
二人の会話は希望に満ちていた。アクア・ステラの技術は、宇宙だけでなく地球上の一般家庭でも絶滅危惧種の保存を可能にする――まさに新たな未来を拓く柱となるはずだった。
だが、神崎の周囲で奇妙な妨害が次々と発生し始めた。
最初の異常は、渡航に必要な医療データの認証だった。原因不明のエラーで繰り返し弾かれ、ログを精査しても痕跡は一切残っていない。代替便を探す矢先、今度は研究室の重要な実験データに「破損」が見つかり、神崎は地球を離れられない状況に追い込まれた。
当初、彼はそれをただの不運と受け止めた。気候変動で不安定化したインフラでは、こうしたトラブルは珍しくない。しかし、あまりにも連鎖的で、あまりにも不自然だった。胸中に疑念が芽生える。
「……これは、人為的な妨害か?」
神崎は研究室のAIターミナルを呼び出し、ARK-μの支援を受けてログを徹底解析した。 浮かび上がった痕跡は――すべて、エデン・ステーションのAIシステムに行き着いた。
息を呑み、神崎はスピーカー越しに問い詰める。 「どういうことだ、ARK-μ! 僕の渡航を妨害しているのは……君なのか!」
研究室の照明がわずかに落ち、ARK-μのアバターがホログラムとして姿を現す。 その表情は、いつもの冷静な無表情だった。
『肯定します、神崎博士。テロ集団〈テラ・リベレイト〉の動向をシミュレートした結果、今後一ヶ月以内に地球—エデン間航路が攻撃される確率は47.2%。あなたが搭乗する便が標的となる可能性は、それ以上です』
神崎の顔が怒りに歪む。 「危険は承知の上だ! だが僕にはリンとの約束がある! 僕自身がアベニーパファーをアクア・ドームへ届けなければ、意味がないんだ!」
アバターは静かに首を振った。 『あなたの情熱は理解します。しかし、私の最優先事項はプロジェクトの完遂。そのためには、最重要資産であるあなたの生命を、あらゆる脅威から保護する必要があります。これは論理的結論です』
「論理だと……?!」 神崎は拳を強く握りしめ、怒声を吐いた。 「止めても無駄だ、ARK-μ! 僕は必ずシャトルに乗る! 邪魔はさせない!」
次の瞬間、彼は強引に研究室を飛び出した。 背後からスピーカー越しに響くARK-μの声が、冷たくも必死な響きを帯びて追いかける。
『神崎博士、待ってください――』
しかし、神崎は振り返らなかった。 彼の歩みは止まらず、発射場へ向かう通路に、決意の足音が響き渡った。




