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星を泳ぐ小さな命  作者: たんすい
第1章:喪失の水辺
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二つの戦線

 アクア・ドーム、追放区画。


 そこは、公式の航路図から消された、忘れられた場所だった。かつてエデン・ステーションの骨格を組み上げた技術者たちとその家族が、居住権を剥奪され追いやられた影の領域。不安定な人工重力が時折もたらす不快な浮遊感、点滅を繰り返す非常灯、そして壁の継ぎ目を伝う結露が、常に湿った金属の匂いを漂わせていた。


 むき出しの配管が迷路のように張り巡らされた通路では、薄汚れた服を着た子供たちが、危険なパイプの上を遊び場にして駆け回っていた。彼らの甲高い笑い声に混じって、この区画の汚染された空気が引き起こす、乾いた咳の音が絶え間なく響く。彼らの瞳には、エデンの豊かな青い輝きを映す機会など、一度も与えられたことはなかった。


 大人たちは、とうに希望を失くした顔で、最低限の栄養ペーストの配給に静かに列をなす。彼らの目からかつての技術者としての誇りは消え、疲労と諦めが深く刻まれている。だが、その奥底には、自分たちを追いやり、限りない資源を食用にもならない魚のために独占する上層部への、消えることのない怒りの火が燻っていた。ここは、人間の尊厳がゆっくりと死んでいく場所だった。


 湿った金属の匂いが充満する集会室に、カガトの声が低く響いていた。最初の爆破テロからステーションの管理体制が強化され、彼らの動きは以前よりも遥かに制限されていた。しかし、それは沈黙を意味しない。水面下で、次なる計画は着々と練り上げられていた。


「小手調べは終わった。奴らは我々の存在を認識したが、まだ本気で恐れてはいない」


 カガトはテーブルに置かれたステーションのホログラム設計図を睨みつけながら言った。その指先が、アクア・ドームの区画を強くタップする。


「そこで、我々は最後通告を突きつける。要求は二つだ。一つ、追放区画にいる我々全員の即時居住権回復。一つ、アクア・ドーム計画の即時凍結と、その全予算・資源の居住区画改善への再配分」


 集まった数人の男たちが、固唾を飲んでカガトの言葉を聞いている。その中に、痩せた顔に深い罪悪感を刻んだトーマスの姿もあった。彼の脳裏には、この劣悪な環境で咳き込みながら眠る幼い妹の姿が焼き付いていた。


 一人が、かすれた声で尋ねた。

「……奴らが、その要求を飲むとでも?」


 カガトは、まるでその質問を待っていたかのように、口の端を歪めて笑った。

「飲むまい。だからこそ、拒否した瞬間に我々の『正義』が完成する。奴らが我々の要求を拒否した時、我々は二つの戦線で同時に火の手を上げる」


 彼はホログラムのアクア・ドーム区画を拡大させた。巨大な円筒形水槽が、青く輝いている。

「まず、我々の手でここを潰す。俺はここの生命維持システムを知り尽くしている。メイン濾過システムをバイパスし、水質センサーに検知されない特殊な化合物を投入する。数時間もすれば、あの巨大水槽は生物の住めない『毒の海』と化すだろう」


「毒……」

 トーマスの喉から、か細い声が漏れた。彼が脳裏に描いたのは、必死にアクア・ステラの生態系を完成させようとしていたリンとユウの姿だった。あの小さな命の輝きも、巨大な水槽の魚たちも、全てが無に帰す。


 カガトはトーマスの動揺を一瞥し、構わずに続けた。

「だが、それだけでは足りん。奴らにとって、それはステーション内部の『事故』でしかないかもしれんからな。だからこそ、もう一つの戦線が必要になる」


 カガトはホログラムを地球の衛星軌道図に切り替えた。一つの光点が、地上から宇宙そらへ向かう航路を描いている。

「地上の連中が、次の定期シャトルの打ち上げを破壊する」


 その言葉に、室内の空気が凍りついた。

「シャトルを……!?民間人も乗っているんだぞ!」

 誰かが叫んだ。


「そうだ。だが、そのシャトルは我々を見捨てた地球から、我々の資源を食い潰すエデンへと物資を運ぶ、偽善の象徴だ。それを断つ!」

 カガトの言葉に、トーマスは血の気が引くのを感じた。


「地上の仲間が、そんな危険な真似を本当にするのか……?」


 その弱々しい問いに、カガトはゆっくりと振り返り、暗い瞳で仲間たちを見据えた。そして、確信に満ちた声で言い放った。


「案ずるな。俺たちの“同胞”は、俺たちを見捨てない。エデンに入れなかった悔しさを、彼らは忘れていない」


 その言葉には、地球に取り残された者たちの怨念が宿っていた。彼らにとって、シャトルは希望の船ではない。自分たちを置き去りにした者たちだけを運ぶ、憎悪の対象なのだ。


 部屋は再び静寂に包まれた。トーマスは、自分の手が震えていることに気づいた。アクア・ステラで見た小さな命の輝きと、これから起ころうとしている巨大な破壊。二つの光景が頭の中でせめぎ合い、彼の心をバラバラに引き裂いていく。もう、後戻りはできない。破滅へのカウントダウンが、静かに始まっていた。

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