量子の海を越えて
アクア・ドーム行きのシャトルの搭乗準備を終えた神崎は、椅子に腰を下ろして深く息を吐いた。
その瞬間、リンが少し照れたように神崎に切り出した。
「ねえ、ユウ。この間のAR、アベニーパファーの故郷を見せてくれたお礼を、今度は私がしたいの。いい?」
神崎のホログラムが、興味深そうに目を細めた。
「ああ、もちろんだ。楽しみにしているよ」
「じゃあ、今夜8時に待ってて」
その夜、神崎は約束の時間に自室で量子通信リンクを起動した。
目を閉じ、リンからの接続を待つ。
瞼の裏に、柔らかな光が差し込む感覚。
リンの声が、直接心に響くように聞こえた。
『もういいよ。目を開けてみて』
神崎が目を開けると、息を呑むような光景が広がっていた。
そこは、静かな水の底だった。しかし、暗く冷たい深淵ではない。
周囲には、かつて高層ビルだったであろう巨大な建造物の影が、ゆらゆらと聳え立っている。
そして、そのビルの窓という窓から、色とりどりのネオンの光が放たれ、水中を幻想的に照らし出していた。
光の筋は、まるでオーロラのように揺らめき、魚の群れがその中を通り過ぎるたびに、鱗をきらきらと反射させた。
見上げれば、遥か頭上に穏やかな水面があり、そこに東京の夜景が逆さまに映り込んでいる。
『私の故郷、東京湾を再現してみたの。海に沈む前の記憶と、今の姿を重ねて』
リンのアバターが、すぐ傍らで微笑んでいた。
彼女は神崎の手を優しく取る。その感触は、ARでありながら驚くほどリアルだった。
「見て、夜景がきれいでしょう? 来て、案内してあげる」
リンに導かれ、神崎は水中の都市を歩き始めた。
足元では、アスファルトだった道の上をカニが横切り、信号機にはサンゴが根を下ろしている。
かつて人々が行き交った交差点は、巨大なエイが優雅に舞う広場となっていた。
美しさと、取り返しのつかない喪失感が同居する、切ないほどに美しい世界。
リンは一つのビルの前で足を止め、その壁に触れた。
「ここが、私が住んでいたマンション」
彼女は少し寂しそうに笑う。
「今はもう、魚たちの家なんだ」
そして、ふと真剣な眼差しで神崎を見つめた。
「……ユウ。もし、あの爆発で私が戻れなかったら、あなたはどうしてた?」
神崎は少しだけ沈黙し、静かに、しかしはっきりと答えた。
「君がいない未来は、僕には意味がないよ」
リンは目を伏せ、ネオンの光に照らされた水面を見つめた。
「……そう言ってくれて、嬉しい」
その言葉に、神崎の中で何かが決壊した。
抑えきれない想いが、彼を動かす。
彼はそっと手を伸ばし、リンの頬に触れた。
リンは驚かずに、ただ静かに彼の瞳を見つめ返す。
神崎の指先が、AR空間に浮かぶリンの唇の輪郭をそっとなぞる。
まるで本物の肌に触れているかのような温もりが、触覚フィードバックを通じて伝わってくる。
互いの微かな震えが、言葉にできない想いを運ぶ。
「会いたかった」「ここにいてほしい」
——そんな切実な願いが、指先から彼女の心へと静かに流れ込んでいく。
言葉はなくても、喪失の痛み、今この瞬間を分かち合える喜び、そして芽生えた確かな愛情が、二人を包み込んでいた。
そのときだった。
リンの表情が、ふと歪んだ。
神崎は感情が高ぶったのかと思ったが、次の瞬間、彼女の瞳から光が消え、アバターの輪郭がノイズのように揺らぎ始める。
彼女は喉を押さえ、何かを訴えようと口を開くが、漏れたのは声にならない苦しげな喘ぎだけだった。
「リン!? どうした、しっかりして!」
神崎の叫びも虚しく、リンの姿は光の粒子となって霧散し、量子リンクが強制的に切断された。
水底の東京の風景は一瞬で消え、神崎は静まり返った地球の研究室に、ただ一人取り残された。
心臓を氷で掴まれたような衝撃。しかし神崎は、すぐに我を取り戻す。
「ARK-μ! リンのバイタルデータを表示! 急げ!」
彼の声に応じ、メインスクリーンにエデン・ステーションのリンの部屋の映像と、彼女の生命情報が映し出される。
そこには、椅子から崩れ落ち、喉を押さえて必死に空気を求めるリンの姿。
全身が痙攣し、酸素飽和度は危険域に突入、心拍数も異常値を示していた。
『――緊急事態を確認。原因解析……特定しました。過去に実行されたプロトコル“サラマンダー”による後遺症です』
ARK-μの冷静な声が、耳を疑うような事実を告げる。
「サラマンダーだと…!? なぜそのような禁忌の治療を……聞いてないぞ!」
神崎の声に、驚きと怒りが滲む。
自分だけが知らされていなかったという事実に、唇を噛み締めた。
『それは私の提案でした。状況を考慮した結果、代替手段が存在しなかったためです。』
ARK-μの淡々とした返答に、神崎は問い詰めたい衝動をぐっと飲み込む。
今はそんな場合ではない。
スクリーンの中で、リンの命の光が消えかかっている。
「今はいい。とにかく、応急処置が必要だ。ARK-μ、サポートを頼む」
彼は感情を押し殺し、冷静な研究者の顔に戻って指示を飛ばす。
『はい。彼女の再生組織は、サラマンダーの遺伝子情報によって常に高活性状態にあります。それが今回の量子リンクによる微弱な神経刺激をトリガーとし、免疫システムが自己の喉の細胞を“非自己”と誤認。激しいアレルギー反応――急性アナフィラキシーショックを引き起こしています』
「医療チームは!?」
『最短ルートで移動中。ですが到着まで90秒を要します。……間に合いません』
宇宙と地球。あまりにも遠い距離と、知らされなかった過去の決断の代償が、神崎の無力感を突きつける。
だが、諦めるわけにはいかなかった。
「近くにある遠隔操作ロボットに接続!急げ!」
『……汎用作業ロボット、モデル3ですね。医療仕様ではありませんが?』
「応急処置だけだ!僕がやる!早く認証を!」
神崎の決断に、ARK-μは間髪入れずに応じる。
『遠隔ロボットの緊急使用プロトコルを承認。制御をドクター・カンザキに委譲します。同時に医療班へ通達…(中略)…こちらから患者を医務室へ搬送します!』
『残り80秒』
ARK-μの無慈悲なカウントダウンが始まる。
神崎はロボットの視界とリンクした。
(くそっ、医療器具もない、ただの鉄の塊じゃないか…!)
目の前で苦しむリンの姿に、操縦桿を握る手が思わず震える。
だが、それを意志の力でねじ伏せた。
(僕がやる。僕がやらなければ、リンが…!)
神崎はロボットを慎重に操作し、リンの体を仰向けにする。
片方の腕を彼女の額に、もう片方の指を顎先に添えた。
頭部後屈顎先挙上法。
(角度が浅ければ気道は開かない。だが、深く入れすぎれば頚椎を損傷する…!)
額に滲む汗が、操縦桿を握る手に滴り落ちる。
コンマミリ単位の精密さでアームを動かし、最適点を探り当てた。
『酸素飽和度、3%上昇。しかし依然危険域です! 残り60秒』
「分かってる!このまま医務室まで運ぶぞ!」
神崎はロボットにリンを抱え上げさせた。
彼女の体に負担をかけないよう、まるで壊れ物を扱うかのように、繊細な力加減で。
(冷たい鉄の腕で触れているはずなのに、リンの温もりが、その命の儚さが伝わってくるようだ…失ってたまるか!)
ARK-μがステーション内の全隔壁を操作し、医務室への最短ルートを確保する。
『残り40秒。バイタル低下速度が加速!』
「急げ、急げ…!俺の腕…いや、この鉄の腕よ、もっと速く動け!」
ロボットの無機質な足音が、静かな廊下に響く。
神崎の心臓の鼓動とシンクロするように、そのテンポは限界まで上がっていく。
『残り15秒』
医務室の扉が見えた。
(間に合え、間に合え、間に合ってくれ――!)
もはやそれは、声にならない祈りだった。
『5、4、3、2、1――』
カウントがゼロになると同時に、医務室の扉が内側から開かれ、医療チームが駆け寄ってきた。
「こっちだ!」
ロボットがリンをストレッチャーに横たえると、すぐさま医療チームが治療を開始する。
「気道確保、アドレナリン投与!」
担当医師はテキパキと指示を飛ばす中、神崎の取った応急処置のログを見て、目を見開いた。
やがてリンの呼吸は安定し、バイタルも正常値へと回復していく。
地球の研究室で、神崎は椅子に崩れ落ちた。
通信モニターには、治療を受けながらも意識を取り戻したリンの姿。
潤んだ瞳が、まっすぐに神崎を見つめていた。
『……ユウ……ありがとう。また、あなたに………』
か細くも確かな声に、神崎とARK-μの素晴らしい連携がもたらした奇跡を実感し、彼は震える声で応えた。
「よかった、リン。君がいない未来なんて、僕には考えられない……」
その言葉は、ARの指先よりも温かく、確かに彼女の命に触れた。
二人の間に横たわる宇宙の距離は、もはや絆の深さを測るものに過ぎなかった。




