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星を泳ぐ小さな命  作者: たんすい
第1章:喪失の水辺
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多様性のゆりかご

 アクア・ステラの試作機の中で、アベニーパファーのペアが、球体内で生まれたイトミミズをついばむ姿は、人工の星に芽吹いた生命の連鎖——閉鎖された球体の中に息づく、小さな奇跡だった。イトミミズの蠢きは、まるで星の鼓動のようだった。


 地球の地下研究室とエデン・ステーションの作業室。二つの場所で、ユウとリンはホログラム越しにその光景を見つめ、静かな達成感を分ち合っていた 。


「トーマスさんのおかげね。アベニーパファーのためだけの閉鎖系じゃない。この小さな球体は、もっと大きな可能性を秘めている」


 リンの言葉に、ユウのホログラムが力強く頷いた 。


「ああ。決めたんだ、リン。アベニーパファーを救うことは、始まりにすぎない。僕たちの『アストラ・ヴィータ・プロジェクト』は、このアクア・ステラを、地球から失われつつある多様な命のネットワークとして進化させる。この小さな星々が、僕たちの希望になる」


 彼の瞳には、母との約束を守るという個人的な願いを超えた、より普遍的な生命への情熱が宿っていた 。それは、ただ一つの種を保存する方舟ではなく、生態系そのものを宇宙に再構築するという、壮大なビジョンへの第一歩だった 。


「生態系ネットワーク……素敵ね。どこから始める?」

「食物連鎖の、一番底からだ」


 ユウは即座に答えた 。


「あらゆる水生生物の命の源、植物プランクトンだよ。まずは、クロレラやナンノクロロプシスといった微細藻類を、このアクア・ステラの中で安定して培養するんだ」


 その日から、二人の新たな挑戦が始まった。ユウは地球側で培養条件を、リンは宇宙環境に最適化したシステム調整を担当し、試行錯誤を繰り返した。


 いつしか、トーマスもメンテナンスを理由に研究室へ姿を見せるのが日常となっていた。彼は黙々と作業をしながらも、その視線は時折、熱心に議論を交わすユウのホログラムとリンの姿や、静かに輝くアクア・ステラへと向けられていた。


 ある日、トーマスが、ふと呟くように言った。


「あの、リンさん……気のせいかもしれませんが、ここの空気、他の区画より澄んでいる気がしませんか?」


 毎日作業に没頭していたリンは、その変化にまったく気づいていなかった。

「そう? ずっとここにいるから、あまり意識したことなかったけれど……」


 トーマスの言葉に、リンはふと気になって作業端末を操作し、区画内の環境データを表示させた。そして、モニターに映し出された数値に息を呑む。


「……うそ」


 酸素濃度が、ごく僅かだが、しかし計測開始から確実に上昇し続けていたのだ。リンはハッとして、部屋の隅で静かに稼働する緑色の球体群に視線を移した。原因はこれだった。実験用に複数稼働させていたアクア・ステラだった。緑色の培養水で満たされた球体群が、静かに酸素を生み出していたのだ。


 リンは、発見のきっかけをくれたトーマスに驚きと感謝の目を向けた。トーマスは、自分の何気ない一言が持つ意味の大きさに気づかず、ただ戸惑ったように視線をそらすだけだった。


 リンはこの驚くべきデータを手に、すぐにDr.リーへ報告に向かった。医療区画の廊下で、彼女の報告を聞き終えたDr.リーは、厳しい表情を崩さず、しかしその瞳の奥に確かな興味の光を宿していた。


「微細藻類の安定培養……か。それは単なる魚の餌に留まらんぞ、リン技術士」

「と、言いますと?」


「高密度のクロレラ培養は、それ自体が非常に効率的なCO2固定装置であり、酸素供給源となる。ステーションの生命維持システムの補助、あるいは非常時のバックアップとして応用できる可能性がある。それに、栄養価も高い。加工すれば人間の食料にもなる」


 彼の視線は、アクア・ドームの魚たちではなく、ステーションで暮らす5万人の未来を見ていた。テロ事件を経て、彼は効率一辺倒だった考えを改めていた。技術は、人の心と社会を支えてこそ真価を発揮する。


「直ちに小規模なパイロットテストを実施する。君に一任する。結果が良ければ、ISERCに正式提案する。必要な資材は私が手配しよう」


 それは、テロによって失われた命への、彼なりの償いと未来への投資だった。


 パイロットテストの結果は、委員会の予想を遥かに上回った。アクア・ステラは、既存の生命維持システムの補助装置として、酸素供給率を15%以上向上させる可能性を示したのだ。


 ISERCの緊急会議で、Dr.リーは自らプレゼンテーションに立った。

「『アストラ・ヴィータ・プロジェクト』は、単なる種の保存計画ではない。ステーションの自給率と安全性を飛躍的に高める、生命維持システムの革命だ。テロ後の不安定な状況下で、この技術は我々自身の生存性を高め、住民に心理的な安定をもたらすだろう」


 議論の末、Dr.リーの強い推奨を受け、委員会は満場一致でプロジェクトの正式承認を下した。


 会議の後、Dr.リーはリンを呼び止めた。

「リン技術士。君たちの功績を委員会は高く評価している。そこで、プロジェクトを次の段階へ進めるための、二つの決定事項を伝える」


 リンは息を呑んだ。


「第一に、この生態系の完全性を証明するため、食物連鎖の頂点に立つ生物による最終実証を許可する。プロジェクトの原点――アベニーパファーの、アクア・ドームへの輸送を正式に認める」


「……! ありがとうございます……!」

 込み上げる感情に、リンの声が震える。


「そして第二に」

 とDr.リーは続けた。


「これほど重要なプロジェクトを、地球からのホログラム通信だけで管理させるわけにはいかない。責任者である神崎優希博士本人に、特別シャトルでエデン・ステーションへ赴任してもらう。彼をアクア・ドームの正式な研究主任として招聘する」


 リンの思考が、一瞬停止した。信じられない言葉に、彼女はただDr.リーの顔を見つめることしかできなかった。


「……彼が、ここに……来るのですか?」

「そうだ。君から伝えてやるといい。――君たちの『約束』が、ようやく果たされる、と」


 その夜、リンからの通信を受けたユウは、言葉を失った。ホログラム越しの彼女は、涙を浮かべながら、最高の笑顔を見せていた。母との約束、アベニーパファーの救済、そして、まだ見ぬリンとの対面。全ての夢が、今、一つの未来となって繋がろうとしていた。地球の地下深くの研究室で、ユウは星空が広がるステーションへと続く、本物の扉が開いたのを確かに感じていた。

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