消えてゆくもの…
私の人生は、淡水フグに捧げられてきた。
その原点は、幼い日に母と交わした一つの約束と、その直後に起きた悲劇に遡る。
あの日、母と訪れたアクアショップの片隅で、私はその小さな魚に出会った。アベニーパファー。淡い黄色の体に黒い斑点を散りばめたその愛らしい姿に、幼い私は一瞬で心を奪われた。
「お母さん、見て! 淡水にもフグがいる! これ飼いたい!」
「またそんなこと言って。何でもすぐ欲しがる……」
「だって、フグだよ! 毎日ちゃんと世話するから!」
「そう言って、結局お母さんがいつも面倒を見ることになるんだから」
食い下がる私に、母はふと、優しい目で問いかけた。
「じゃあ、約束できる? お父さんが宇宙から戻ってくるまで、この子たちを死なせずにちゃんと面倒を見るって」
「うん! 絶対に約束する!」
母は呆れたように、でも嬉しそうに笑い、4匹のアベニーパファーを買い与えてくれた。そして、冗談めかしてこう言ったのを、今でも鮮明に覚えている。
「大切にしなさいよ。もし約束を破ったら、お母さんもお父さんみたいに、遠くへ行っちゃうかもしれないからね」
帰り道、母は空を見上げ、父が建設に関わっていた宇宙ステーション【エデン】の軌道を指さした。雲の切れ間に、それは微かな光の点として瞬いていた。
「いつか、あそこに行ってみたいわね。ねえ優希、この子たちを星まで連れて行けたら、素敵だと思わない?」
母の話も上の空で、私はビニール袋の中の小さな命に夢中だった。
悲劇は、その直後に起きた。
交差点に突っ込んできた大型トラックが、私たちの日常を一瞬で破壊した。
耳を裂くタイヤの摩擦音。鼻腔を焼く焦げたアスファルトの匂い。そして、鈍い衝撃音がすべてを飲み込んだ。
「優希!」
母の絶叫と同時に、私は強く突き飛ばされた。トラックの巨体が母の細い身体をなぎ倒す。何かが砕けるおぞましい音が、鼓膜にこびりついた。
小さな身体は宙を舞い、植え込みに投げ込まれた。激痛が全身を貫き、息が詰まるほどの衝撃に意識が朦朧とした。
顔を上げたとき、母は青い横断歩道に広がる鮮血の海の中に倒れていた。アベニーパファーの入った袋だけが、まるで母に抱かれるように、その胸元でぽつんと転がっている。
「おかあ、さん……?」
震える声に、返事はなかった。
血に濡れた母の手が、力なく投げ出されている。呼びかけても、もうその目は開かれない。胸が張り裂けるような絶望の中、意識を失った母の顔が、網膜に焼き付いて離れない。
世界から色が消え、音が遠のいていく。残されたのは、握りしめた袋の感触と、アスファルトに広がる赤、そして母が死んでしまうかもしれないという、底なしの恐怖だけだった。
病院のベッドで、私は『フグを死なさなければ、母は助かる』と固く信じ、懸命に世話を続けた。母親が危篤だというのに魚の心配ばかりする私の姿は、親戚たちの目に奇異に映ったことだろう。
だが、母は帰らなかった。
そして父もまた、遥かな宇宙から帰ることはできなかった。
夜ごと、事故の光景が悪夢となって蘇る。あの血の海、母の顔、途切れた息遣い――その全てが、私の心を苛み続けた。母の死は、淡水フグへの献身を、私の「贖罪」へと変えた。それでも、フグは生き続けた。その命だけが、私にとって母との最後の約束であり、唯一の希望だった。
私は魚類学者の道を選び、淡水フグの研究に没頭した。母の犠牲を無駄にしないために。あの悲劇は、失われた命を宇宙で守るという使命感を、一種の強迫観念として私の内に深く刻み込んだ。
そして、2097年。
地球は気候変動と海面上昇で、淡水生態系の崩壊を迎えていた。多くの淡水魚が絶滅の危機に瀕し、かつて母と歩いた水辺も今は沈黙している。
そんな中、全7基からなる宇宙ステーション群【エデン】のうち、その1基が淡水魚の保存施設【アクア・ドーム】に割り当てられるという報せが届いた。
奇しくもそれは、父が建設に携わった、あのステーションだった。
私はそこに、一条の光を見た。淡水フグを救い、母との約束を果たすための光を。
母が見上げたあの空の先で、小さな命を未来へ託すための戦いが、ようやく始まろうとしていた。




