星の水槽、命の設計図
エデン・ステーションの医療区画から退院したリンは、ゆっくりとした足取りでアクア・ドームの作業室に戻った。
まだ体の芯に残る微かな痛みが、悪夢のような事件の記憶を呼び覚ますが、彼女の心は不思議なほど静かだった。失ったもの、守れなかった命への哀悼は、今、未来へ向かうための確かな決意に変わっていた。
作業室のドアが開くと、慣れ親しんだ水の匂いと、静かな機械の駆動音が彼女を迎えた。
室内では、若い技術者が一人、壁際の生命維持システムのパネルを開けて診断ツールを操作している。
彼はこちらに気づくと、まるで幽霊でも見たかのように体をこわばらせ、慌てて立ち上がった。
「あ……リン技術士……」
その異常な反応にリンが眉をひそめた時、背後からDr.リーが静かに入室してきた。
彼の視線はリンを通り越し、直立不動の青年へと鋭く注がれている。
「紹介しよう。トーマス君だ。先の事件を受けて、メンテナンス部門から人員補充で配属された。腕は確かだと聞いている」
Dr.リーの声は平坦だったが、その言葉にはどこか値踏みするような響きがあった。
トーマスと呼ばれた青年は、リンの顔をまともに見れず、視線を泳がせながらかろうじて言葉を絞り出した。
「トーマスです。あの……ご無事で……本当によかったです」
その声は微かに震えていた。
リンが返答に窮していると、Dr.リーが青年の肩に手を置き、静かな、しかし有無を言わせぬ圧力で言った。
「そうだな。リン技術士の回復は、我々全員の喜びだ。……特に、彼女が守ろうとしたものを破壊した者たちと同じ空気を吸っている我々にとってはな」
その言葉は、誰に向けたものなのか。
作業室の空気が一瞬で張り詰めた。
トーマスの顔からサッと血の気が引き、彼は何も言えずに俯いた。
Dr.リーは無表情のまま手を離すと、リンに向き直る。
「では、私は仕事に戻る。何かあればすぐに報告しろ。……どんな些細なことでもだ」
言い残して去っていくDr.リーと、石のように固まったトーマスの姿に、リンは単なるぎこちなさではない、底知れない不気味さを感じていた。
彼女は青年の存在を意識の隅に追いやり、自分のワークスペースへと向かった。
いつもの場所に、淡い光の粒子が集まって人型を成す。
神崎優希――神崎のホログラムが、心配そうな表情でそこにいた。
「リン、無理はしないで。アクア・ステラの仕様は、僕が地球側で進められる部分をやっておくよ」
神崎の声は、彼女の体を労わるように優しかった。
リンは一番近くのベンチに腰を下ろし、ホログラム越しに映る地球の研究室を覗き込む。
青い光に満ちたアベニーパファーの水槽が、静かにきらめいていた。
「ありがとう、ユウ。でも、一緒にやりたいの。あのテロの後で、余計にこのプロジェクトが大事だって思ったから。失われた命のためにも、私たちは前に進まないと」
その瞳に宿る強い光に、神崎は静かに頷いた。
二人は早速、アクア・ステラの球体型モジュールのシミュレーションを起動した。
直径30cmの小さな「星」。
内部で微生物、巻き貝、水草が共生し、アベニーパファーが外部からの介入なしで生きられる完全な閉鎖生態系。
それは、二人の希望の結晶だった。
設計図を共有しながら、神崎がふっと笑う。
「君と一緒に出来る作業が、楽しいから」
数日後、二人の共同作業は目覚ましい進展を見せた。
地球と宇宙という途方もない距離を越え、二つの知性が一つの目標に向かって完璧に同期していた。
作業室の隅でメンテナンス作業をしながら、トーマスは二人の会話と、ホロスクリーンに映し出される美しい設計図を盗み見ていた。
彼らの純粋な情熱と創造の喜びに満ちた姿は、カガトが語っていた「傲慢なエリート」の姿とはかけ離れていた。
『ユウ、アクア・ステラver0.01の設計図が完成した。そちらのデータと最終同期して、問題なければユウのいる地球の3Dプリンターで出力してみて』
「わかった。データ受信。…同期完了。問題なし。出力を開始してみる」
神崎の研究室に設置された高精度3Dプリンターが、静かに稼働を始める。
ステーションから送られた設計データを基に、光硬化樹脂が積層され、複雑な内部構造を持つ透明な球体が少しずつ形作られていく。
組み立て時間は、わずか15分ほどだった。
完成した試作品は、まるで大きな水晶玉のように美しかった。
神崎は慎重に手を伸ばし、その滑らかな表面に触れる。
「すごい……試作機とはいえ、本格的だね。すぐにでも実用できそうだ」
彼は組み上がったアクア・ステラに培養水を満たし、研究室で育てていた微生物、数匹の巻き貝、そして光合成を担う水草を丁寧に入れる。
最後に、アベニーパファーのペアをそっと移した。
小さなフグたちは、新しい環境に戸惑うことなく、広々とした球体の中を好奇心旺盛に泳ぎ始めた。
『見て、リン!本当に素晴らしいよ。この中で、一つの世界が完結している』
ホログラム越しにその光景を見ていたリンの顔にも、心からの笑みが広がった。
二人の作業は、穏やかな時間の中で着実に進んでいく。
その光景を遠巻きに見ていたトーマスは、静かに作業室を後にした。
通路の影に身を隠し、彼は胸ポケットから小さな通信機を取り出す。
カガトへの定時報告のためだ。
しかし、彼の指は震え、なかなか起動ボタンを押すことができない。
報告すべき「弱点」や「破壊工作の機会」ではなく、彼の脳裏に焼き付いていたのは、リンの屈託のない笑顔と、小さな球体の中で輝く命の姿だった。
(俺たちは……本当に正しいことをしているのか……?)
その問いが、鉛のように重く彼の心にのしかかっていた。




