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星を泳ぐ小さな命  作者: たんすい
第1章:喪失の水辺
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正義の在り処

 エデン・ステーションの外縁部。かつてはメンテナンス用ドックとして機能していたが、今では「追放区」と呼ばれる薄暗い居住モジュール群が広がっていた。人工重力は不安定で、空気循環システムの故障が頻発するこの空間は、ステーションの公式マップから意図的に削除されている。そこには約200人の「見捨てられた者たち」が、互いに身を寄せ合いながら暮らしていた。


 彼らは元々、ステーションの建設や維持に携わった技術者、労働者、あるいはその家族だった。だが、資源配分の再編成により居住権を剥奪され、この劣悪な区画へと追いやられたのだ。


 区画の中心にある狭い集会室では、ぼんやりとした非常灯が唯一の光源だった。金属製の壁は腐食が進み、湿った空気が肺に絡みつく。中央のテーブルを囲むように、数人の男たちが座っていた。


 リーダー格の男――かつて生命維持システムの主任エンジニアだった加賀人カガトは、深く刻まれた皺の顔を険しく歪め、ホログラム投影された犯行声明のドラフトを睨みつけていた。


「これでいい。簡潔に、だが痛烈に。『アクア・ドームは、魚の楽園のために人間の地獄を創り出している。我々は黙って見過ごさない』――これが我々の声だ」


 その言葉に、周囲の男たちが静かに頷いた。彼らの目には、疲労と決意が交錯していた。


「カガト、地球からの次の支援はいつになる?」

 一人の男が尋ねた。


「案ずるな。俺たちの“同胞”は、俺たちを見捨てない。エデンに入れなかった悔しさを、彼らは忘れていない。」


 カガトは50代半ば。ステーションの初期建設チームの一員として、家族と共にここで未来を築くはずだった。だが居住権を失って以来、彼自身もこの追放区で最低限の酸素と食料に頼る日々を送っていた。


「でも、カガト。あの爆発で技術士の女性が重傷を負ったそうだ。彼女も故郷を失った被害者じゃないか?」


 若い男――元メンテナンスワーカーのトーマスが、声を潜めて言った。彼の表情には、罪悪感が滲んでいた。


 カガトは目を細め、静かにテーブルを叩いた。


「犠牲は避けられない。リン・メイはシステムの一部だ。彼女の設計がなければ、あの魚のドームなど存在しなかった。我々のエデンが奪われ、資源が無駄に注ぎ込まれるのを、彼女は黙認した。偽善の犠牲者? いや、加害者だ。大義のためには、小さな血が必要だ。それが革命というものだ」


 その論理は冷徹だったが、長年の苦難が生み出したものだった。彼らにとって、アクア・ドームは傲慢の象徴だった。地球の気候変動で故郷を失った彼らは、ステーションでの新生活を約束されていたはずだった。だが委員会の決定により、居住空間が魚の保存施設に転用された。食料にもならない淡水魚に莫大な資源が費やされる一方で、人間は劣悪な区画へと追放される――それは、明らかな不正義だった。


「我々はテロリストじゃない。抵抗者だ。声明を送信しろ。次は、もっと大規模に」


 カガトの命令で、集会は終了した。非常灯の下で、彼らの影が長く伸びる。虚空の闇は、決して彼らの叫びを飲み込まない。彼らは信じていた。正義は、力ある者のものだけではないと。


 トーマスは一人、薄暗い自室に戻った。テーブルの上には、古びたデジタルの写真立てが置かれ、追放区の劣悪な環境で咳き込む幼い妹の姿が映し出されている。彼はその写真に触れようとして、指を止め、自分の手を見つめた。


 ――あの爆発を起こした手だ。


 仲間たちの手前では平静を装っていたが、一人になると、ステーションのニュースで見た、担架で運ばれる女性技術者の姿が脳裏に焼き付いて離れない。妹を守るための正義だったはずだ。なのに、今、胸を占めるのは重い罪悪感だけだった。カガトの言う「次の計画」が、彼には恐ろしかった。


 エデン・ステーションの医療区画。リンはベッドに凭れ、届いたばかりの犯行声明の文書を読み終えていた。顔は青ざめ、指先が微かに震えている。隣では、神崎優希――ユウのホログラムが同じ文書を睨みつけていた。彼の表情には、怒りと混乱が入り混じっていた。


「……彼らの視点からすれば、理屈が通っているのかもしれない」


 リンの声は弱々しかったが、そこには純粋な葛藤が滲んでいた。彼女自身、地球の海面上昇で故郷の東京湾岸を失った「喪失者」だった。何もできずに家族を失い、無力感に苛まれた日々。犯人たちの境遇は、かつての自分と重なる。アクア・ドームの計画が、彼らの居住権を犠牲にしていたという事実は、彼女の心に鋭い棘を刺した。


「命を救う」という自分の正義が、別の誰かを追い詰めていたのだ。


「でも、リン。彼らは爆発で君を……いや、多くの命を奪った。許せない」


 ユウの声は低く抑えられていたが、感情の揺らぎがホログラムの輪郭を歪めた。彼の夢は、母との約束から始まった純粋なものだった。アベニーパファーを宇宙で守る――それは、失われた命を未来へ繋ぐための情熱だった。


 だが、このテロは、その夢が憎しみの連鎖を生んだことを突きつけた。


「僕の執念が、誰かを不幸にしていたのか?」


 その自問が、彼の胸を締め付ける。アクア・ステラの開発を進める手が、初めて止まりかけた。


 二人は沈黙した。虚空の外で、星々が無関心に輝いている。


 リンはゆっくりと息を吐き、ユウのホログラムに視線を向けた。


「ユウ。私たちは、ただ魚を守りたいだけ。でも、彼らにとっては、それが生存の脅威だったのね。私たちの正義は、絶対じゃないのかもしれない」


 ユウは目を伏せ、静かに頷いた。


「そうだ。だが、諦められない。母の約束を、ただの幻想に終わらせたくない。でも……これからは、もっと広い視野で考えないと」



 Dr.リーは、ステーションの管制室で、犯行声明の分析レポートを読み終えた。彼の表情は、これまでになく厳しかった。効率と合理性を重視してきた彼にとって、この事件は単なるセキュリティの失敗ではなかった。ステーションの社会構造そのものが、テロを生んだのだ。居住権の再編成が、追放区のような「闇」を生み出し、そこから憎しみが芽生えた。


「ARK-μ。居住権問題の再調査を命じる。追放区の住民リストを全て洗い出し、資源配分の見直し案を作成せよ。」


 ARK-μのアバターが頷いた。『了解しました。効率優先の観点から、追放区の統合を提案します。長期的に見て、内部対立はステーション全体の存続を脅かします。』

 リーは窓の外の宇宙を眺め、静かに呟いた。「効率だけじゃ足りなかったな。人間の心を、無視しすぎた。」


 事件は、彼を変え始めていた。ただ犯人を追うだけでなく、ステーションの不平等を是正する方向へ動き出す。アクア・ドームは、魚のためだけのものではない。人類の未来を、誰もが共有できるものにしなければならない。


 正義の在り処は、決して一つの視点に留まらない。物語は、対立と理解の狭間で、さらに深みを増していく。




【Interlude - EARTH(地球)】


 酸性雨が降りしきる、灰色のメガシティその西側に、海に沈みかけたゴーストタウンが広がっていた。かつて宇宙開発の夢に沸いた技術者とその家族が暮らした街は、今や潮風に晒され、朽ちた木造の建物が波間に揺れている。


 その水上集落の一角、波に揺れる小屋の中で、一人の老婆アヤコが古い通信端末の光を見つめていた。その横顔は雪のように白い髪で縁取られ、知性の色を宿す瞳は眼鏡のレンズの奥にある。画面には、アクア・ドームから送られてきたばかりの暗号化されたメッセージが表示されている。


『第一段階、成功。ただし標的は生存』


 メッセージを読み終えると、老婆は深く刻まれた皺の奥で、瞳をカッと鋭く光らせた。アヤコもまた、エデン計画の初期メンバーに選ばれながら、最終選考で切り捨てられた一人だった。約束の地へ旅立った者たちが、自分たちを忘れて魚の世話にうつつを抜かしている。その事実が、彼女の冷静な思考を憎悪で焼き続けていた。


「……まだ始まったばかりよ」


 アヤコは震える指で返信を打つ。老いた指先だが、その動きに迷いはない。


『追加物資、次の便で送る。我々の楽園を取り戻すまで、止まるな』


 窓の外では、寄せる波が廃墟を洗う音だけが響き、汚染された空がどこまでも続いていた。宇宙そらに輝くはずだった希望は、今や地上で燻る復讐の炎となっていた。

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