心の帰る場所
意識は、どこまでも冷たい水の底にあった。
目を開けているのか閉じているのかも分からない。ただ、身体がゆっくりと沈んでいく、抗いようのない浮遊感だけがそこにあった。
(……ああ、また、この夢か)
見慣れた故郷の街並みが、まるでスローモーション映像のように、静かに、しかし確実に水圧に屈していく。大好きだった海辺の公園のベンチが砂に埋もれ、家族と笑い合った家のリビングが、ぐにゃりと歪み、泡となって闇に溶ける。
手を伸ばす。でも、指先は虚しく水を掻くだけ。声を出そうとしても、ごぼりと絶望の塊が喉から漏れ、助けを求める言葉にはならない。守れなかった。また、何もできなかった。自己嫌悪が冷たい水となって肺を満たし、呼吸を奪っていく。
――もう、いいか。
諦めが心を支配し、身体の力を抜こうとした、その時。
視界の隅で、何かがチカ、と瞬いた。
淡い黄色の、小さな光。一つ、また一つと、深淵の闇の中から現れる。それは、インクを垂らしたような黒い斑点を持つ、小さなフグたちだった。アベニーパファー。
一匹が、そっとリンの頬に寄り添う。その柔らかな温もりに、凍てついていた心が微かに震えた。
見れば、無数のアベニーパファーたちが集まり、彼女の身体を優しく包み込んでいる。彼らの小さなヒレの動きが、穏やかで力強い浮力を生み出し、沈みゆく身体を支えていた。
絶望の底へと沈んでいくはずだった身体が、ふわりと持ち上がる。
下には、崩壊し、闇に溶けていく故郷の残骸。
上には、水面を通して降り注ぐ、どこまでも温かな光。
アベニーパファーの群れに抱かれ、リンは絶望の海から希望の空へと、ゆっくりと浮かび上がっていく。
そして、眩い光が世界を白く染め上げた瞬間――彼女は、目を覚ました。
意識が、ゆっくりと現実の輪郭を取り戻していく。
最初に感じたのは、柔らかな光だった。まぶたの裏側を優しく撫でるような、穏やかな白い輝き。次に、微かな機械音。生命維持装置の規則正しいビープ音と、空気循環システムの低く安定した響きが、彼女の五感を静かに呼び覚ます。
(……ここは……医療区画……)
林芽衣――リンは、ゆっくりと目を開いた。視界に広がるのは、無菌の白い天井と、壁一面に並ぶモニター。体はベッドに横たえられ、数本の管が腕や胸に繋がっている。痛みは薬で抑えられているが、全身を鉛のような疲労感が覆っていた。爆発の記憶が、閃光と轟音、そして真空の冷たさとともに、断片的に蘇る。
彼女は首をわずかに動かし、周囲を見回した。病室の隅に、淡い光の粒子で形成されたホログラムが、静かに佇んでいる。神崎優希――ユウの立体像だ。彼は椅子に深く腰掛け、頭を垂れて眠っていた。疲労の色が濃く、目の下には深い隈が刻まれ、いつもは整えられている髪も乱れている。ホログラムの輪郭が時折わずかに揺らぐのは、地球からの超長距離・長時間接続によるものだろうか。それとも、彼の心労そのものが投影されているかのようだった。
「ユウ……」
かろうじて動いた唇から漏れたのは、吐息のような呼び声だった。ホログラムがぴくりと揺れた気がしたが、彼は目を覚まさない。あまりにも深い眠りに落ちている。彼女の胸に、温かく、そして少しだけ切ない感情が広がった。地球から、こんなにも遠く離れた場所で、彼がずっと傍にいてくれたこと。それが、どれほどの支えになったか。
『リン技術士、意識が回復しましたね。バイタルは安定しています。体調はいかがですか?』
穏やかな声に視線を向けると、ARK-μのアバターがそこにいた。
リンは弱々しく頷き、再び視線をユウのホログラムに戻した。
「……ARK-μ。ユウは……いつから、ここに?」
ARK-μのアバターは、わずかに首を傾げ、眠るユウの姿を一瞥した。その表情には、いつもの論理的な冷静さの中に、微かな温かみが混じっているように見えた。
『神崎博士は、事故発生直後から量子通信リンクを維持し続けています。あなたが生命の危機を脱するまで、一瞬たりとも目を離さずに。地球時間の72時間以上、不眠不休であなたのバイタルデータを監視し、こちらの医療チームに専門的な助言を送り続けていました。彼の行動は、論理的な観点からは非効率の極みでしたが……』
ARK-μはそこで言葉を区切り、静かに続けた。
『……最終的に、疲労が限界に達し、数時間前に深い眠りに落ちました。あなたの命を繋ぎ止めるため、彼自身の命を削っていたのです』
リンは息を呑み、胸が熱くなった。
「そんなに……ずっと……私のために?」
『はい。彼の情熱は、時に論理を超越します。あなたという存在が、彼にとってそれだけの価値を持つという、何よりの証明でしょう』
ARK-μの言葉に、リンの瞳が潤む。虚空の闇から引き戻された命の重みを、改めて実感した。あの夢の中で見たアベニーパファーたちの温もりは、幻ではなかった。それは、ユウの想いそのものだったのだ。
「ありがとう……ARK-μ。あなたも、ずっと傍にいてくれたのね」
『それが私の役割です。再生プロセスは最終段階に入りました。バイオプリントされた肝臓の統合は完了し、数日で通常業務への復帰も可能でしょう。ただし、心理的なケアを強く推奨します。今回のトラウマは、あなたの心に予期せぬ影響を及ぼす可能性があります』
リンはゆっくりと身を起こそうとし、繋がれた管に気づいて動きを止めた。代わりに、そっと右手を伸ばす。もちろん、ホログラムに触れることはできない。けれど、その存在が、冷え切っていた彼女の心に確かな熱を灯してくれた。
ARK-μは二人の姿を静かに見守り、部屋の照明を少しだけ暖色系に調整した。病室に、夜明けのような優しい光が満ちていく。
虚空に響いた叫びは、静かな目覚めへと変わった。失われた命を繋ぐための戦いは、二人の魂をより強く結びつけ、新たな希望となって宇宙の彼方へ続いていく。




