正しさとは
その夜。神崎の研究室に、リンのホログラムが力なく浮かんでいた。彼女の瞳は赤く腫れ、声を出すのも辛そうだ。
「……ごめんなさい。私の力が及ばなかった……」
神崎は、スクリーンに映る無力な彼女の姿を、ただ静かに見つめていた。
「君が謝ることじゃない。僕の方こそ、すまない……。君を巻き込んで、こんな……」
リンは俯いたまま、神崎の顔を見ようとしなかった。声はかすかに震え、言葉の端に悔しさが滲んでいた。
「すべてうまくいくと思ってた。皆が耳を傾けてくれるって、信じてたのに……」
沈黙が部屋を包む。神崎が重い口を開いた。
「ARK-μまでもが……。あいつは、ただ『最大多数の生存』という合理性を選択した。AIとして、それが『正しさ』だと判断したんだろう」
「『正しさ』って、何……?」
リンの瞳から、光の粒子が涙となってはらはらとこぼれ落ちた。
神崎は静かに立ち上がると、まるで隣に座るかのようにホログラムの傍らに寄り添った。
「誰かの心に残り続ける命……それだけで、星を動かす理由になる。俺は、そう思う」
リンは、震える声で応じた。
「私は……その『誰かの心に残る命』を救いたかった。効率なんて関係ない。その命が、ただそこにいる。私たちがそれを美しいと感じる。それだけで、救う理由になるって……信じてたのに……っ」
その、魂からの叫びを聞いた瞬間、神崎の中で何かが弾けた。彼はハッとしたように顔を上げた。そうだ。それだ。俺たちが目指すべきは、委員会の基準じゃない。
「……リン。君が今、答えをくれた」
「え……?」
神崎の瞳に、再び強い光が宿っていた。
「『誰かの心に残る命』……そうか、俺たちは委員会を説得する必要なんてなかったんだ。もっと小さく、もっと強い、たった一つの命を守るための『星』を創ればいい」
彼はリンのホログラムに一歩近づいた。
「『アクア・ボリス』を超えよう。餌やりさえも必要としない、完全な閉鎖生態系。宇宙でも、地球上のどんな過酷な環境でも生きられる、本物の『命の箱舟』を創るんだ」
リンは、彼の突拍子もない提案に目を丸くした。
「……本気で言ってるの?」
その時だった。リンの端末に、匿名で技術ファイルが送信されてきた。差出人は不明。だが、添付された設計案と解析ログの構造には見覚えがあった。
「……このアルゴリズム、どこかで……?」
リンが驚きの声を漏らす。ファイルを開いた神崎も、目を見開いた。
「球体型閉鎖水槽ユニット……。自動給餌、完全水質循環、気圧調整……これ、まさに俺たちが話していた『命の箱舟』じゃないか」
ホログラム越しに神崎の端末を覗き込んだリンが、息を呑む。
「匿名送信……でも、こんな構造式を書けるのはARK-μしかいない。あの子……」
神崎は、静かに頷いた。
「システムは、俺たちの計画を公式に切り捨てた。だが、非公式には……まだ、命の詩を信じているのかもしれない」
涙の跡が残る瞳で、リンがかすかに微笑んだ。
「なら、私たちも応えなきゃ。この設計を、現実に」
神崎は決意を固め、力強く言った。
「直径30cmの球体。宇宙でも地球でも生き延びられる、本物の『小さな星』だ。名前は……『アクア・ステラ(Aqua Stella)』なんてどうだろう」
「……Aqua Stella。命のための、星」
「ああ。この設計案と、君さえいてくれれば、きっとやれる」
神崎の言葉に、リンの顔にもようやく確かな微笑みが戻った。彼女の瞳に、再び希望の光が灯る。
「やってみましょう。『アクア・ボリス』を、進化させる。」
「『アクア・ステラ』――小さな命のための、星を。」
二人はすぐさま行動を開始した。「アクア・ステラ」は、アベニーパファーに特化した超小型の閉鎖生態系モジュール。ユニット内で繁殖する微生物や巻き貝が自動で餌となり、水質から照明、気圧までを完全制御する。外部からの介入を一切必要としないその設計は、まさに極限環境のための「種を保存する方舟」だった。
さらに、彼らは再申請のため、プロジェクト名を「アストラ・ヴィータ(Astra Vita Project)」へと改めた。ラテン語で「星々の命」を意味するその名には、二人の新たな決意が込められていた。
これは、ただ宇宙空間に淡水フグを載せる計画ではなかった。極限の環境下で水換えや給餌を必要としない閉鎖生態系を完成させることで、将来的には地球上の一般家庭にも普及可能な、「家庭内種保存ユニット」として展開できる可能性を秘めていた。
「もしこれが成功すれば、宇宙だけでなく、地球上でも絶滅の危機に瀕した生き物たちを、誰もが自宅で守れる時代が来るかもしれない。」
神崎は、新たな提案の中に、その切なる思いを込めた。
「水換えも餌やりもいらない、家庭用の種保存ユニット……。そんな未来を創るのね」
リンはその横で、静かに頷いた。
失われた命を未来へ繋ぐための戦いは、まだ終わらない。そして、ARK-μの匿名の支援が示すように――冷徹な論理の向こう側で、かすかな情熱の火が確かに灯っているのかもしれなかった。




