星の泡
エデン・ステーション、居住区画の一角。
林芽衣――リンの私室は、人工重力の安定した空間に設けられていた。小さなテーブルと二脚の椅子が並び、窓の外には地球が青く輝く光景が広がっていた。
その光は、遠く離れた地球の地下研究施設にいる神崎優希――ユウの研究室にも、通信回線を通じて届いていた。
ホログラム通信が接続され、神崎の立体像がリンの前に鮮明に現れた。彼の顔には、疲労と達成感が混在した柔らかな笑みが浮かんでいた。
神崎は地球の研究室でグラスを手に取り、リンもステーションの私室で同じくグラスを準備した。ホログラム越しではあるが、二人はまるで同じ部屋にいるかのように向き合っていた。
「乾杯しましょう、リン博士。ここまで来られたことに。」
神崎の声が、軽やかな通信音とともに響いた。リンはグラスを掲げ、穏やかに訂正した。
「私のことは、リンと呼んでください。」
神崎は一瞬驚いた表情を浮かべ、すぐに頷いた。
「では、私のことは……ユウで。昔から親しい人には、そう呼ばれていました。」
リンはテーブルの上に置かれた透明なグラスを手に取り、中に微細な気泡がゆっくりと立ち上る宇宙製の発泡水を注いだ。アルコールは含まれていないが、祝賀の象徴として十分なものだった。ユウも地球側で同様のグラスを準備し、ホログラムを通じて同期させた。
「リトル・ライフ・プロジェクトに。そして……未来に生まれる命に」
「……乾杯、リン」
二人はグラスをそっと掲げ、ホログラム越しに合わせた。かすかな電子音が響き、それは宇宙と地球を繋ぐ静かな約束の響きとなった。
「母が言っていたんです。『この子たちを星まで連れて行けたら、素敵だと思わない?』って。」
神崎の声には、懐かしさと決意が込められていた。リンはホログラムの神崎を真っ直ぐに見つめ、優しく応じた。
「素敵な言葉。きっと、お母様も……星のどこかで、あなたのことを見守っていますよ」
神崎はグラスの中の泡を見つめ、静かに頷いた。
「泡って、星みたいですね。小さくて、儚くて。でも、確かにそこにある。」
リンはその比喩に共感し、柔らかく続けた。
「ええ。だから、守りたくなるんです。消えてしまう前に。」
窓の外では、地球がゆっくりと回転していた。青い星の光が、リンの頬を優しく照らした。
その静かな余韻の中で、ユウは少し躊躇するように言葉を切り出した。
「リン……もしよければ、もっと特別な方法でこの時間を過ごさないか。量子通信統合型仮想・シミュレーションを使って。」
リンのホログラムが、興味深げに目を細めた。
「量子通信統合型仮想……ですか?」
それは、遅延のない量子リンクでAR技術を組み合わせたもの。量子暗号化通信でプライバシーを確保しつつ、拡張現実(AR)グラスやインプラントを通じて、アバターを現実空間に投影。互いの空間を重ねて、まるで一緒にいるような体験を出来る技術だ。
ユウは頷き、穏やかに説明を続けた。
「そう、君に是非見せたいものがあるんだ。」
「見せたいもの?」
「ただ、量子暗号化通信にはお互いの同意がないとできない。君はどう思う?」
リンは一瞬沈黙し、ユウの提案がもたらす新しいつながりを想像する。やがて、彼女の顔に穏やかな笑みが広がった。
「私も同意します。あなたとより深く共有できるなら……ぜひ。」
二人は互いに視線を交わし、合意の言葉を交わした。リンとユウはそれぞれのデバイスを調整し、量子リンクを活性化させた。遅延のない接続が確立され、ARインターフェースが起動する。
「僕がいいと言うまで目を閉じていて下さい。」
ユウの声に従い、リンは静かに目を閉じた。量子リンクを通じて、ユウの研究室の空間が徐々に変化し始め、エデン・ステーションの私室と重ね合わさる。
ARインターフェースが活性化され、ユウは事前に準備したデータを呼び出した。それは、アベニーパファーがかつて生息していたインド・ケーララ州のパンバ川の詳細な再現モデルだった。
絶滅前の記録に基づき、豊かな水生植生、水没した根、草や葦の茂る岸辺、常緑林と落葉樹林の背景、淡水と微かな塩水の混じる独特の流れを、触覚フィードバック付きのホログラムで構築した。川の水音が穏やかに響き、微かな風が仮想の葉を揺らす。
「もういいよ。目を開けてみて。」
ユウの穏やかな声に、リンはゆっくりと目を開いた。視界に広がるのは、失われたパンバ川の風景だった。豊かな緑の岸辺、穏やかな流れ、水草の間を泳ぐ小さな魚たち。かつての故郷を思わせる自然の美しさが、鮮やかに再現されていた。
『もう二度と帰れないと思っていた、あの海の匂いがした』
リンの瞳に感動の光が宿り、胸が熱くなる。
「美しい……。これが、アベニーパファーの故郷……。」
「言葉だけでは伝えきれないと思って。僕が見ている世界を、リンにも見てほしかったんだ」
ユウのアバターがその手を優しく握り、仮想の空間内で導く。二人は再現されたパンバ川の岸辺から、水面を踏むように進み、川の真ん中まで移動した。仮想の水流が足元を優しく撫で、温かく透明な水の感触が触覚インターフェースを通じて伝わる。
「ここで寝転んでみて、大丈夫呼吸は出来るから」
言われた通り、リンは仮想の川底にゆっくりと寝転んだ。触覚フィードバックが、水の柔らかな抵抗と底の砂の感触を伝える。
すると、周囲の岩場からアベニーパファーの群れが一斉に現れ、淡い黄色の体をきらめかせながら、二人の周りを優雅に泳ぎ始めた。
「すごい……アベニーパファーって、群れで行動するんだ。」
彼女の声は震え、ユウの手を強く握り返した。失われた命の記憶を共有し、未来への希望を深めた。
「ありがとう、ユウ。見せてくれて」
「ありがとうって……僕の方こそ、君と一緒に見られてよかった」
「ねえ、ユウ。もしこのプロジェクトが成功したら……その時は、直接会いに来てくれる?」
神崎は少しだけ驚いたように目を見開き、そして静かに頷いた。
「もちろん。その時は、地球の泡じゃなくて……本物の星の泡で乾杯しましょう」
リンはふっと笑みをこぼし、少し頬を赤らめながら答えた。
「……約束、だからね」
その言葉に、ユウもまた笑みを返した。
「ああ。今度は僕が、約束する」
地球の青い輝きが、二人を優しく包み込む。
その光の中で交わされた言葉は、宇宙と地球を越えて――確かな未来の約束となった。
そして、運命の日が訪れる――。




