キスより手を繋ぐほうがずっとエッチ
今日は、嬉しいことに祝日。朝から上機嫌なわたしは、朝イチで緑子の家に向かっていた。
念のため、最初に緑子のスマートフォンに電話をかけたが、どうやらその必要もなかったようだ。緑子は「電話をかけてくる暇があるなら、早く来い!」とのことだった。
わたしは、緑子に「きれいだね」って言ってほしくて、柄にもなく、あの子の前でだけおしゃれをすることにしている。けれど、緑子は決してわたしに「きれいだね」とは言ってくれない。
でも、それとは別に、必ずしてくれることがあった。
何も言わずに、わたしの手を握ってくれるのだ。
それは、言葉なんていらないほどに、緑子の想いが幾重にも伝わってくる、尊くて優しい、心からの愛情に満ちた行為だった。
(ふふ、今日は一日中、緑子とイチャイチャできる)
わたしはいつも、大切なあの子の琴線に触れたくて、わざと素直にならないようにしている。
いつも、あの子の繊細な心に触れてみたくて、小悪魔を演じるようにしている。
たぶん、緑子は気づいていないかもしれないけれど、わたしという存在は、いつだって、どんな時も、あの子だけのものになりたいと思っている。
わたしは緑子という、自分の片割れを――唯一無二のパートナーを、息をするように、当たり前のように、全身全霊で愛している。
だけどわたしは、緑子の前だといつもひねくれた態度をとってしまう。
自分でも、まったく可愛げがないなって思う。
でもそれは、わたしの想いが本物だという証拠。だって、わたしは、緑子のすべてが欲しいんだから。
もちろん、緑子はきっと、いつものわたしの態度に不満を持っているだろう。
けれど、人間っていうのは、欲しいものを簡単には手に入れられない方が執着するもの。
だから、わたしはわたしを、簡単には渡さない。
緑子は、わたしだけのもの。絶対に、誰にも渡さない。
――たとえ、それが緑子の「実の妹」の「小緑」であっても。
今、目の前には、玄関の隙間からわたしをじっと覗く小緑がいる。
正直に言おう。緑子の妹「小緑」は、わたしの完全なる「天敵」である。
年齢は十歳ほど離れているけれど、その目は間違いなく、わたしが緑子に抱く感情と同質なものを孕んでいた。
わたしは眉間を引き攣らせながら、「緑子は?」と訊ねる。
小緑の眉間にも、同じように皺が刻まれていた――いや、わかっている。あの子はもう、間違いなく、わざとそんな顔をしているのだ。
「……何しに来た?」
「緑子に会いに来た」
わたしと小緑の間に、重たい沈黙が生まれる。
無言の睨み合いが続いたあと、小緑は大きくため息をつき、勢いよく玄関を閉めようとした。
「――ちょっと待ちなさいよ、このバカっ!」
わたしは必死にドアを押さえる。
「カエレ! 森へカエレ! 薄汚い魔女おんなめ!」
「ばーか! 魔女おんなって、意味が重複してるわよ!」
互いにドアを押し合いながら口論する。
小緑が一瞬だけ動きを止め、ぽかんとした顔で訊ねた。
「……本当か?」
わたしは真剣な眼差しで首を縦に振る。
しばらくの沈黙。
やがて小緑は顔を真っ赤にして、目を逸らした。
「……入っていいぞ」
わたしは黙って玄関に足を踏み入れた。
(……そうだった。緑子の家には、こいつがいたんだった)
背中越しに、わたしは優しく告げる。
「ふふ、お間抜けさんね。まずは、その足らない頭をどうにかした方がいいわよ」
「……っ!?」
「ごめんごめん、冗談よ。ムキになっちゃって、わたしも子供みたいね」
わたしは小さく笑って、拳で自分の頭をコツンと叩く。
本当のわたしは、もっとお茶目で、もっと素直な性格。
だけど、緑子に好かれたくて、それを――全部、偽ってしまっている。
……いや、もしかすると。
素直じゃないわたしも、意地悪なわたしも、どれもこれも、本当の“わたし”なのかもしれない。
そもそも、わたしが“素直じゃないわたし”になったのは、緑子のため。
そうして生まれたこの人格もまた、紛れもない――純粋な愛情の産物なのだ。
――あの子は、絶対にわたしを好きになる。
緑子を幸せにできるのは、わたしだけだから。
「……可愛いわね、あなた」
バカにしたようにころころと笑うと、小緑も負けじと、わたしをバカにするように笑った。
「お前のことなんか、あちきは全部お見通しだかんな。絶対にお姉ちゃんと上手くいかないように、入れ知恵してやる。ひひ……」
邪悪な、心底邪悪な笑い方だった。
偶然だ。そうに違いない。だって、他の女の子が、わたしと同じ“歪み”を抱えてるなんて、そんなことは絶対にあるはずがない。
「やってみなさいよ! わたしと緑子の絆は、そんなのじゃ壊れないんだから!」
これは宣戦布告だった。
「緑子はわたしの家族だ!」
思わず出たその言葉に、小緑がぽかんとする。
くそっ。まさか、この子がこんなに――。
「……緑子は、一生涯大事にするから、わたしがもらう」
「ねーねは、絶対に渡さねえ。あの大きなお胸は、あちきのものだからな!」
とんでもないことを言われた気がした。
「……負けないから」
わたしは決意を新たにする。
「おねえちゃんだいすき!」
小緑のその一言が、わたしの存在を一瞬で吹き飛ばした。
ああ、今のわたしじゃ勝てない。だからもう、わたしもバカになることにした。
バカはいい。責任がないから、すごくいい。
“わたしの中のすべては、緑子そのものでできている”
それは単純明快な真実。
わたしは緑子で在るが故に、緑子もまたわたしの中に生きている。
「……緑子」
「な、なんだよ……」
見つめ合う。
ささやかな仕返しをしよう。
「実はさ、引っ越すことが決まりそうなんだ……」
「はーい、解さーん!」
「ちょっとは信じてよ!」
――そして、まさかの事態が起きた。
小緑が、大粒の涙をこぼして泣き出したのだ。
「……黒子。お前、引っ越しちゃうのかよ?」
「ち、違う違う! 冗談よ!」
「……本当か?」
「本当本当! だから泣かないで……」
「……うん。ありがとう」
意外だった。本当に。
こんなふうに、思われていたなんて。
「ごめんね、小緑。今日はちょっと調子に乗りすぎちゃった」
「もう、変なこと言うのやめろよな」
「うん……」
ふと見上げると、小緑はもう涙など見せず、にまにま笑っていた。
「いつまで騙されてんだよ。ばーか!」
「……は?」
「嘘だよっ」
「……ほんと、あなたのこと、嫌いだわ」
「それは、あちきも同じ」
「むかつく」
「お前だけじゃねーし」
「……いいから、靴脱いでさっさと上がれよ」
緑子が、呆れたように言った。
わたしと小緑は、互いにいがみ合いながらも、ひとまず停戦協定を結んだ。
犬猿の仲。それでも、今この瞬間を大事にする。
後悔のない未来を迎えるために。
――そして、わたしたちは、全力で今を生きる。