曖昧ベイビー
足りない。圧倒的に、緑子成分が足りない。
ここ最近、暇さえあればそんなことばかり考えていたわたしは、ある名案を思いつき、ついにそれを実行に移すことにした。
今、緑子はベッドの縁にもたれかかり、わたしの部屋にあった漫画を夢中になって読みふけっている。まるで時間を忘れたかのように。
目をきらきらと輝かせ、物語の世界に没頭する彼女は、いつも通り、この世の森羅万象を超越しているかのような、とてつもない可愛さを放っていた。
そんな愛しくて愛しくて仕方ない緑子の隣に座り、何度もこっそりと顔を盗み見ていたわたしは、思わずからかいたくなり、そっと耳元に息を吹きかけた。
「わあっ! や、やめろよなっ! いきなり変なことすんな、バカっ!」
「ふふっ、ごめんね。緑子があんまりにも可愛いからさ」
「か、可愛くなんかねーひ!」
「あなた、今噛んだわね」
「か、かかか噛んでなんかねーしっ!」
「まぁ、そんなことはどうでもいいわ。はい、これ。あなたにあげる」
「何これ?」
緑子に手渡したのは、赤いチェック柄の包装紙に包まれた小さな箱だった。
「開けてみて」
疑問符を浮かべながら緑子は包装紙をはがし、宝物を扱うように丁寧に箱を開け、中のものにそっと手を伸ばした。
「気に入った?」
「……うん」
珍しいこともあるものね。今日の緑子はいつになく素直だ。
わたしは思わずクスリと笑ってしまう。
「……なんだよ?」
「ふふっ、なんでもないわ。ただ、喜んでもらえて嬉しいなって」
今回わたしが緑子に贈ったのは、落ち着いたボルドー色の、お揃いの可愛いレザーブレスレットだった。
いつだって、どんな時だって、緑子とお揃いのものを身につけていたい。
ほんの一瞬だって、緑子と離れていたくない。
できることなら、緑子という存在のすべてを手に入れたい。
もちろん、自分でも分かっている。これは、まさに“激重感情”というやつだ。
ヤンデレ女、ここに極まれり──。
だけど、悔しいから。緑子には、この感情のすべてを、絶対に打ち明けたりなんかしない。
「ジ、ジロジロ見んなってばっ。それでさ、今日はあたしの誕生日でもないのに、このプレゼントって何よ? まさか、なんかヘンな魂胆でもあるんじゃないでしょうね?」
緑子が怪訝そうな顔をして睨んでくる。
「あるわよ」
わたしはあっさりと言い切った。
「あるのかよっ!?」
緑子は思わず叫んだ。まさかの即答に驚いたらしい。
「もちろん。人が人に優しくするのって、結局は自分も優しくされたいからよ」
「そ、そりゃまあ……一理あるけどさ」
「なによ、あなたは見返りもなく人を愛せるっていうの?」
わたしは緑子の瞳を真っ直ぐに見つめながら、詰め寄るように問いかける。
「な、なんでそう、まるで“答えは決まってる”みたいに聞いてくんのっ! あたしはさ、ただ、見返りを求めて優しくするのもイヤだし、見返りもなく優しくするのもイヤってだけだからなっ!」
緑子は勢いよく首を横に振りながら、拒絶するように言い放った。まるで『そんなの絶対認めない!』って態度。
「ふふ、傲慢ね。わがままと言ったほうがいいかしら」
「うるせーし! あたしは欲しがり屋さんなんだよっ! ぜーんぶ揃ってなきゃイヤなの!」
「なら、そんなあなたに『この世のすべて』をあげるわ」
わたしはくすくすと笑いながら言った。
「……なんだよ、それ。“この世のすべて”って?」
「さあ、何だと思う?」
緑子はわざとらしくため息をつく。答えなんてわかってるくせに。
「言われなくても察しはつくよ。どうせ、“あんた”のことなんでしょ」
「ふふっ、正解。でも、もしかして──いらない?」
「……そうとは言ってないでしょ。ただ――」
「……?」
緑子が、意味ありげに一拍置いた。
「もしもさ、『終わりがある世界』だったら、あたしは……そんなの、イヤだよ」
「あなた、わたしたちの“世界”に終わりがあると思ってるの?」
「……違うのかよ?」
「確かに、わたしたちの“世界”にも終わりはあるかもしれない。でも、それってただの瑣末な問題よ。取るに足らない、つまらない話」
「はぁ? 終わるのが“つまらない話”って……」
「だって、わたしもあなたも、“超越者”じゃない」
「おいっ! あたし、そんなもんになった覚えないぞっ!」
「ほんとにそうかしら? じゃあ教えて。なんであなたは――いや、わたしたちは――」
“数えきれない可能性の中で、こうしてめぐり逢えたの?”
「そんなの、決まってるじゃん。出逢う運命だったからに決まってる」
「ふふ……やっぱり傲慢ね。まるで、この世界を作った女神様みたい」
「……イヤか? やっぱイヤだよな、こんなあたし」
「すぐに決めつけないの。そんなことないわよ。むしろ、わたしは――あなたのそういうところ、好き……かも」
「きききき……あたしもさ、黒子のその“曖昧”な感じ、好きだよ。なんかさ……心がほっとする」
緑子がそう言って、そっと甘えるように、わたしの肩に頭を預けてきた。
「わたしの“曖昧”なところが好きだなんて……あなたって、ほんとに変わってるわよね」
「だって、“曖昧”ってさ、常に“可能性”が示されてるってことじゃん? あたしはさ、運命も何もかも、ぜんぶ決まっててほしいし、ぜんぶ決まっててほしくないの」
「あははは! そこまで傲慢だと、もう何も言えないわね」
いつものことだ。
ほんとうに、いつものことだけど――だからこそ、緑子と一緒にいるのはたまらない。
わたしの大好きで、大切で、心から信頼しているパートナー、緑子。
今も、普段も、そんな気持ちを表には絶対出さないようにしてるけど、それでも、わたしの中ではもう決まっている。
何よりも大切なのは、彼女ひとりだけ。まさしく、“最愛”ってやつだと思う。
「――黒子」
「なぁに?」
「あんた、さっきあたしにこう言ったわよね。“まるで、この世を作った女神様みたい”って。……それ、どういう意味か分かってる?」
「あなたがこの世を作った女神様なら、その世界における唯一絶対の掟ってわけでしょ? で、その偉大なる女神様に対して、わたしができることは、たったひとつ……そう言いたいのね?」
「察しが早くて助かるわ。じゃあさ――んっ!!」
緑子がぎゅっと目を閉じて、わたしの目の前に顔を差し出してきた。
「ほらっ!! 分かってるでしょ!? ちゃんと、やることやってもらわないとダメなんだからねっ!!」
「ふふっ、しょうがないわね。……不服だけど。だって、あなたは女神様なんですもの。そんな女神様の言うこと、無視なんてできないわ」
わたしは静かに目を閉じて、緑子の肩をやさしく抱き寄せる。
そして――ためらうように、穏やかなキスをそっと重ねた。
「満足した? わたしの敬愛する、偉大で“へたっぴ”な女神様」
「へたっぴなのは、あんたもでしょーがっ!」
「ふふっ、でも……本当に良かった」
「何がよ?」
「わたしがずっと、心のどこかで求めてた“見返り”を、あなたがちゃんと誠意を持って返してくれたから」
「……あんたってさ」
「ん?」
「意外と、欲しがり屋さんなんだね」
「ふふっ、わたしもね――この世界のすべてが、ぜんぶ決まっていてほしいし、ぜんぶ決まっていてほしくないの。
つまりさ、それって……」
わたしたちは、そっと目を見つめ合いながら、ぴたりと手を重ね合わせる。
「そうね……もう、わかってると思うけど」
顔を見ないように、見られないように、わたしたちは静かに――おでこを“こつん”と重ねた。
「わたしたちは」
「あたしたちは」
――“完全な、似たもの同士”ってこと。
ふたたび、そっと視線を交わす。お互いの存在を確かめ合うように、わたしたちはゆっくりと顔を寄せ合い、そのまま――感情のままに、甘く、柔らかい、至上のキスを何度も、何度も、重ね続けた。