妻と豆大福
権蔵は今年65歳で長く働いて来た会社を今日定年退職する。
ずっと仕事一筋で、子供は三人いたが妻に子育てを任せきりであった。
妻は愚痴一つ溢さず三人を立派に育て、子供達は三人とも独立して家を出て行った。
権蔵は自分は一家の大黒柱で家を支えているのだから、妻が子育てをして家事をするのが当然だと考えていたのだ。
権蔵は家に帰ると殆んど妻と会話をせず、
出されたご飯を無言で食べてお風呂に入って寝るだけだった。
そんな生活が当たり前のように数十年続き、
権蔵の定年を迎えたのだ。
いつものように、出来立ての温かい味噌汁を無言で飲み、朝食を食べて「行って来る」と一言言い玄関を出た。
妻はいつも「行ってらっしゃい、車にきよつけてね」と言うが権蔵は無言で扉を閉めた。
権蔵は会社に着くと、仕事の最後の引き継ぎを終え長年勤めた会社の職員達に見送られ、
夕方会社を後にした。
辛い事も楽しい事も色々合ったが、長年勤めた会社を後にするのは寂しかった半面、
肩の荷が降りた気もした。
ふと、権蔵は一件の和菓子屋の前で足を止めた。妻は豆大福が大好きだったのだ。
権蔵は初めて妻にお土産に豆大福を買って家に帰った。
家に着いて玄関の扉を開けると、いつも出迎えてくれる妻の姿がなかった。
リビングに行くとテーブルの上に白い封筒が置かれていた。
中を見ると一通の手紙が入っていたのだ。
手紙には妻から権蔵へ宛てた手紙だった。
「あなた、長い間お勤めご苦労様でした。
家族の為に一生懸命働いてくれて心から感謝しております。
でも、家に帰るとあなたは私との会話は一切無く、ご飯も新聞を読みながら食べて、休日は家でテレビを見るだけで、私の存在は何だったのでしょうか?
私は専業主婦で家事に子供の世話にと頑張って来ました。
でも、あなたは子供の進路の事を相談しても、一切耳を傾けず仕事一筋でしたね。
私は正直寂しかった、私は家政婦では有りません。
あなたの妻で有り、子供達の母親です。そしてあなたも私の夫で有り、子供達の父親なのです。
こんな事を言うのは我が儘なのでしょうか?
でも、何十年も私は家で夫と子供達の為に頑張って来たつもりです。
でも、あなたは仕事仕事で家族の事を見てくれてなかった。
子供達も独立しました、私はこの家を出て第二の人生を歩みます。お世話りなりました。」
権蔵は妻からの手紙を読み終わるとその場に崩れ落ちた。
俺は家族の為に働いて来た、お金を稼いで来た。
だが、妻に感謝すらせず当たり前のように思って来た。
家族の誕生日のお祝いの日も仕事で参加等しなかったし、プレゼントさえ渡した事がなかった。
俺は…俺は…妻を子供を見ていなかったのだ。
権蔵は後悔したが、もう遅かったのだ。
買って来た豆大福をテーブルに置いて、
そのまま寝室に入り布団に横たわった。
いつの間に寝ていたのか、起きた時には外は明るくなっていた。
そして、味噌汁の良い匂いが漂っていた。
キッチンに行くと毎朝当たり前のように、
見慣れた光景が目の前に合ったのだ。
妻が温かい朝食を用意してくれて、
笑顔で「あなた、おはよう」と言ってくれた。
権蔵は今まで、その言葉に応えた事がなかった。
権蔵は初めて「おはよう」と呟いた。
「おまえ、出て行ったのではないのか?」と権蔵は妻に訊ねた。
すると妻は、
「忘れ物を取りに戻ったら私の大好物の豆大福が置いて合ったので」と言った。
「そうか、あの…考えて治して貰えないだろうか」と権蔵はうつむき加減に言った。
「私の誕生日に毎年豆大福を買ってくれたら考えてあげる」
「豆大福なら毎日でも買ってやるよ」
「毎日食べたら体型が大福になってしまうわ」
「そうか、そうか、それは困るな」
そして、二人は顔を見合わせて数十年ぶりに笑い合った。