<夢の写真展>
蝉が鳴く。
立秋を過ぎたにも関わらず、相変わらず吹き付ける風は生ぬるい。
しかし彼女達、夏休みの小学生にはあまり関係がないらしい。
夏休みの宿題をするつもりなのか、小学五年生の彼女はその華奢な身体に似つかわしくない大きなトートバッグを抱えて古めかしい建物に入って行く。
レンガであしらわれた入り口には県立美術館の文字が、色あせた茶褐色のレンガに負けないくらいの古めかしさで佇んでいる。
年々、暑くなっていく夏。
僅か数十秒歩いただけで、玉のような汗をかく。
ようやくたどり着いた館内は、驚くほど静まり返りその静けさに追随するように心地よく冷えている。
幼い彼女には想いがあった。
涼しさに一心地着いた後、祖母から聞いた名前と同じ名前を冠した写真展の入口に立っている。
______________________________
幼い彼女が生まれる遥か以前。
日本は予てから予想されていた、東海地方を震源とする巨大地震に見舞われた。
熱さを感じるのは喉元までの言葉通り、再稼働していた原発はメルトダウンをおこし、海沿いの街は悉く津波の被害を被った。
海外に住む日本人は帰国を願うも、事実上の鎖国状態におちいった日本は渡航制限を敷かれ為す術もなかった。
彼もそんな日本人の一人だった。
カメラマンである彼は、偶々撮影に訪れていた異国の地で日本の惨劇を知る。
幸いにも家族と共に訪れていた為その心配をする必要は無かったが、それでも両親や友人の安否を知る術を得ることは出来なかった。
そんな彼には愛すべき友人がいる。
端的に言えば不倫や浮気などと言われる仲なのかもしれないが、この二人の関係は単純な不義密通の関係ではなく、身体の関係を除けば本当に仲の良い古くからの友人、幼なじみのような親近感をもった不思議な仲だ。
この状況では彼女の今を知る事は難しい。
家族の安否を気にしなくて良い。
状況を考えればこの上なく幸せな事であるはずだったが、彼は漠然としながらも強い不安を抱えた。
日を追う毎に酷い状況が判明する。
死ぬよりも酷い事がこの世の中には有ることを、日本語ではないニュースが伝える。
それでも生きる希望が有るのは、やはりそばに家族が共に有るからだったに違いない。
______________________________
そんな悶々とした日々を二十日ばかり続けたある夜、彼の携帯端末がけたたましく鳴りメールの着信を知らせる。
コンタクトを外さずに寝てしまうクセが抜けない彼は、メール着信の文字を判別するのにしばらく時間を要した。寝惚けて定まらない手で手元の目薬をさし、それでもぼやける視界に目を凝らす。
『私は無事だよ、でも何にも無くなっちゃった。』
その一文に、寝不足でクマが消えない目元から大きな涙が零れた。
色々な想いが心を交錯しているうちに、続けて次々にメールが入る。
『何にも無くなっちゃったけど、一昨日から電気が点いたし、炊き出しや食料配布も始まったんだ。』
『こっちはみんな無事。だから心配いらないよ。』
『日本に帰ってこれる?海外から戻れないってラジオで言ってたから心配』
『帰って来たらディトしようね』
この日送られてきた最後のメールには、炊き出しで出されたと思われる、大きな握り飯と紙製の器に盛られた豚汁、それにペットのフェレットにまみれている体格の良い彼女の夫の写真が添付されていた。
これだけ酷い災害にもかかわらず、通信網は比較的安定しているようだ。
毎日二・三通のメールのやりとりに大きな不便は無いものの、それでも電話を繋ぐ事は出来なかった。
とは言え連絡がとれることの安心感は、海外に居る者にも、国内で生活している者にも、とても大きな心の寄りどころになっていたに違いない。
____________________________
そんな生活が、間もなく3ヶ月目に入ろうとしたある日、その限定的な通信網がこの世の悲劇を伝えた。端末の中で時折赤字を含んだその文面は、電力会社が過去の過ちを愚直に繰り返した事を罵る内容だった。
過去の災害でもそうだったように、今回の渡航制限も風評被害に拠るものだと信じて疑わなかった日本人は、このニュースに心の底から怒りと悲しみを覚え、一時は冷静さを取り戻した帰国難民が再び焦りを持つことになった。
事態が好転する事が無いまま2ヶ月が過ぎる。
その間も二人のメールだけの関係は続き、他愛もない内容のやり取りが交わされていた。
しかし、ある日突然入った別れを告げるメールに彼は愕然とする。
『あのね、放射能なのかな。なんかよく解らないけど、ヤバいみたい。今日病院側行ったらもうダメだって言われた。』
『今まで励ましてくれてありがとう。先に行っちゃうかもしれないけど、許して下さい。』
『忘れ物は思い出だけって言われたけど、思い出全部持って行くからね。』
『今まで、解ってたけど怖くて言えなかった。でも、今日はちゃんと言うね。』
『愛してるよ。』
このメールを最後に、彼が彼女と連絡をとることは出来なくなった。
______________________________
静かな空間。
自分が発する吐息以外の音がしない、張り詰めた空間。
そこには一度に視界には収まらない程度に作品が飾られている。
自分の目線の位置にピッタリ合ったタイトルの文字。
ひらがな、カタカナ、英語に中国語が混じるタイトルの大半は読むことができない。
しかしながら、その上にかかる写真はどれも少女が今まで見たことも無い美しい写真だ。
無我夢中で食い入るように写真を見つめる。
今日、自分が何をしに来たのか。
それを忘れてしまう程に。
______________________________
東海地震と銘打たれた地震から何年が過ぎたであろう。
元々ホウズだった頭が海外での生活ですっかりボサボサが定着し、そのボサボサの頭の大半に白いものが混じっている。
家族揃って日本に戻ってこれた。
この一言に尽きるはずの彼の心はそう単純には出来ていなかった。
間もなく地震から10年になろうという年月の中で、彼の心の中にはずっと一人の友人が、仲の良い女性への思いが渦巻いている。
帰国後、心当たりを探してはみたものの、安否の手掛かりになるようなものは何一つ見つからなかった。
海外の暮らしで代替わりした携帯端末の中で、未だ彼女の送った文字だけが踊っている。
諦めても、諦めきれないという思い。
とは言え、今ある家族との生活を守らなければならない事には変わりない。
いつしか、心の中を占める割合が小さくなっていくのが自覚出来るようになった。
それでも、ふと思い出すと激しく湧き出る愛しさと、どうにもならないもどかしさに潰されてしまいそうになることも、決して少なくはなかった。
______________________________
少女は夢中だった。
それは、今まで見てきた写真とは違うと言う芸術的な観点からではなく、飾られている写真の中に祖母が語った彼を見つけようと必死になっていた。
しかし、まだ第二次性徴期にさしかかったばかりの彼女にはそれを見い出すだけの経験が不足している。
それでも、彼女はは夢中だった。
そんな様子を見かねたのか、それとも小さな客人が珍しかったのか、ひとりの初老の女性が歩み寄る。
『こんにちは。気に入った写真はありましたか?』
決して子供扱いをしているわけではないが、おっとりした、それでいてハツラツとした声に少女はハッと我に返った。
『これね、みぃんな私のお父さんが撮った写真なんだよ。こんなおばあちゃんのお父さんが撮ったなんて信じられないでしょう?』
50代半ばを過ぎたと思わしき容姿をした女性が語るには少々大げさな言い回しではあったが、確かにこの女性の父親と言えば常識的に考えて若くても70歳過ぎ、恐らくは80代半ばの老人であろう事は幼い少女にも理解が出来た。
少女は突然、声をかけられたことに強烈な不安感を抱いた。
どうも、人見知りな性格は祖母譲りらしい。
しかし、そんな性格の彼女にも今日の目的を達成する願ってもないチャンスだと言うことは理解できる。
『あ、あの…』
彼女は大きなトートバッグの中から何冊かの写真集を取り出した。
その全てに、この美術館で催されている写真展と同じ名前が記されていた。
『あの、この人に会えますか?』
唐突な申し出に初老の女性は一瞬驚いた様子だったが、満面の笑みと共に大きく2度頷き、展示室の裏へ歩いて行った。
そこで、二言三言会話が交わされたようだ。やがて、奥から人影が出てくる。
よもやここにその人が居るとは思っていなかった少女は、新たな驚きのあまり、呆然と立ち尽くした。
展示室へやってきた老人が、あまりにも祖母が語った話からイメージしたその人そのものだったからだ。
その老人はゆっくりと少女へ向かって歩いてくる。
急いているのかそうでないのかわからないスピードであったが、やがて少女の前にたどりつき、またゆっくりとした動作で跪いた。
初対面の恥ずかしさから足元ばかりを見ていた少女は、跪いた老人の表情を見てもう一度驚く。
老人の、そのしわだらけの目元から大きな涙が行く筋も落ちていたからだ。
______________________________
老人は小さな声で祖母の名をつぶやいた。
何度も何度も。
その名を確かめるかの様に。
そして、老人が、彼が、かつて彼女にそうしたように、小さな頭を抱き寄せて、愛おしく撫でた。
______________________________
少女は何も言わなかった。
言わなくても、老人がその人である事が解り、同時に今日ここを訪れた目的が達成されてしまったからだ。
老人はしばらく頭を撫でたあと、すっと身体を離して顔をしげしげと見つめた。
『あぁ、お前さんそっくりだ。本当によく似ているね。お孫さんかい?』
この時少女は以心伝心の意味を身を以て経験した。他人と解り合う事がいかに素晴らしいか、も。
そして、達成感に包まれた屈託の無い笑顔で言葉を発する。
『はい、そうです。おばあちゃんから話を聞いてて、広報で写真展が有るって知って来ました。』
老人はしわだらけの顔を綻ばせて頷く。そうして、何かを懐かしむような顔をしながら言葉を紡いだ。
『お前さんのおばあちゃんはね、こうして頭を撫でられるのが、凄く嬉しかったんだよ。』
そういいながら、老人は頭を撫で回している。
気がつけば、涙に濡れたしわの深い顔の中に微笑みらしい表情が見て取れるように思えた。
やがて、少女の母親が展示室に入ってくる。
片田舎に住む少女が、便利が良いとは決して言えない県立美術館に来る為には母親の協力を得て、車で来るのが手っ取り早い。
ひとりで先に行っちゃって、と憤る少女の母親の後ろにはもう一つ小さな影があった。
その陰は、老人と同い年位の老婆であった。
恥ずかしそうに老人と目を合わせる老婆は、いつしかむせび泣いていた。
老婆に歩み寄る老人。
気がつけば老人と老婆は、泣きながら見つめ合い、言葉を発する事なく、ただひたすらに頷き合い、お互いの手を固く握っている。
想いを伝えるには、言葉では不足があるかのように見えた。
______________________________
蝉が鳴く。
建物の外から絶え間なく蝉の鳴き声が聞こえる。
もう立秋を過ぎたはずなのに、茹だるような暑さを容易に想像できる日の光が、展示室の入り口に差込み、二人の影を写している。
それは、今日ここに飾ってあるどの写真よりも素晴らしい写真になるに違いない。
ご覧いただきまして誠にありがとうございました。
数年前に、一文ずつ友人へ送ったメールの内容をまとめたものになります。
短いですが、物語を書いた初めての作品になります。
不義密通いわゆる不倫恋愛が背景にあるので、内容的にあまり褒められたものではありませんが、当時世間を騒がせていた不倫恋愛ドラマが当人同士でネタになっていたのでこのような設定になりました。