第四小節 哀愁とそして愛執
どうにもこうにも藤堂高校吹奏楽部は合宿の予定日までにやることが多すぎた。課題曲、自由曲共にステージ発表用の曲を兼任する必要があるからだ。一度演奏を聞けば分かるがこの高校の吹奏楽部の全体がレベルが低く、更に上手い個人が数人となると合奏ではない。
一人の労働は対したことはないのに全員が集まるだけで過度な作業が増える。昔からそうだった。蓮華響一にしても元々自分が上手いから藤堂を受験した訳ではない。
都内で進学を見据えた受験先として考えるなら藤堂を選ぶのはミスマッチではない。むしろマッチしているだろう。純粋な普通科の高校というのは案外多くはない。しかも一定のレベルでとなると難しいものだ。
己が音大に行くのか。それは高校に進学してからずっと言われ続けていることだが響一はどちらでも良いと考えていた。
部活動に全員が入らなければならないのなら吹奏楽部。楽器を持つならトランペット。そういう組織内で自分が輝いたとしてもその組織のレベルが知れているなら意味はない。
長年、趣味として自身はトランペットと向き合って来た。
きっかけは祖父だ。
祖父の蓮華響佑は有名なトランペットの演奏家だった。昔から、合奏やコンサートだけではなくとももっと実用的にトランペットを演奏していた。海軍に属していたこともあるが、やはり手に持ったトランペットは変わらなかった。それはそのまま、響一が持つトランペットだ。祖父から何かしらを受け取れれば違ったのだろう。しかし、祖父は響一がトランペットを始める前には亡くなっていた。残ったのはたくさんの楽譜やレコードを収めた防音の小部屋とトランペットぐらいだ。
小学生の頃に母親が離婚してから響一は母方の祖母の家に行くことが多くなり、必然的に祖父のことも知った。
楽器を持つことになったのは単純に暇だった幼少の好奇心だ。
母親の離婚が響一の人生を半場狂わせたのは事実だ。今ではそんなに珍しくはないのかも知れないが響一が幼少だった時は珍しかった。母親が二十代以下で結婚することも、二十代前半で離婚することも。
その経歴だけで響一の全てが選定されるのは『正直、迷惑』の一言に尽きる。母親の影響を良い意味でも悪い意味でも受けたので恋愛に関して気軽な意見は持っていない。
むしろ、誰でも気軽に、だなんて思っていない。女性が多い生活環境。
その醜さと言うのも充分に知っていた。
母親、姉、祖母。響一の周囲には些か女性が多い。母親の姉妹も女ばかり。
扱いぐらいは慣れると言うものだ。
結論から言えば、彼女らにどうこう言われる前には自分でやってしまった方が早いに尽きる。
分かってはいるが、彼女達は昔から何かしら動こうとするとそのことについて色々意見を述べてくる。それは時には助かるが、時には口うるさい、と思うことも多い。適度な距離と実効性は昔から響一が得意な作業だったので苦ではないが。
現在、祖母は色々な本を執筆している。
主に祖父の音楽についてあれこれ書いていたが最近は歴史から料理まで幅広い。そんな祖母は変わらず祖父の実家に住んでいた。都内から少し離れた小島。祖父の命日である夏ごろになると多くの祖父の知人が昔から訪れた。
希にそこに戻ることがあるので響一は夏前の日程は全て未定だった。
アイリスについては、驚きはしたが彼女自身に関して言えばそれほど醜い感情は持っていない。むしろ良い印象だ。彼女はさほど周囲の環境に左右されず自分の音は自分の音としてぶれることはない。その華やかな初速は見た目通りに。難しい場所は紳士に練習している。
周囲と響一の音の違いに早く気が付いた。その困惑した様子のアイリスを見て響一は自身の音をアイリスに合わせることぐらい難しくはない。彼女はロングトーンに主に気を使っているらしく、自然に、優しく、消えるような消音が意識し過ぎてあまり上手ではない。逆にサビの部分は意識せずとも華やかで、艶やかな音が出る。
その部分は丸っとアイリスに任せてしまえば良い。
やることは簡単だ。自分は特にロングトーンだからといって最後に変な力が入ることはない。その部分の調整ぐらい難しいことではない。
更に、最後の一年で一年間の休憩が終わった。環境が変われば変わることはある。
それが音に諸に出るのは問題だがそれに合わせるのは難しくはない。
やれやれ、とは思うが何を思って、かは理解しているので誰かに対し何かしらを言うことは先ずない。
「なるほど。君のその音は全てを理解した上での音、という訳ですか」
夏場の予定を提出すると昼休みにセレスタンが屋上に訪れた。
全て未定の予定。響一は昔から何かしらの影響を受けない静かな場所を探すのが得意だった。この高校ではほとんど使われることのない屋上。似合わない美しい金髪が風に靡く。その姿だけで響一は苦虫を潰した様に箸をカキンと咥え、しばらくして離す。
「……何か、ご用でしょうか?」
「当然。君に話があるのでここまで来ました」
「……はぁ」
ズバリ言えば、響一はセレスタンのような人間は苦手だ。自分が特別であることが当然の人間に底辺を隠れて生きる響一の気持ちなど分かる筈もない。
「いい場所です。思ったより静かですがチャイムの音は聞こえる」
「まぁ、校内ですので……」
「君には私が滑稽に見えますか?」
「……いいえ?」
滑稽に見えますか、という問に響一はしばらく考えて否定する。何に対して考えた訳ではないが、セレスタンが既に指揮者という地位、名誉を確立しているにも関わらずこんな小さな高校の指揮者を一任するその行動が愚かだとは思わない。
「君の音は透明な壁です。そんな音は始めて聴きました。オーケストラにいた時も」
「むしろ貴方から見れば俺は滑稽でしょう」
「いいえ。そうは思いません。今、思えば。思えばですが、君のような音があっても良かったのに。居なかったのです。君のように、楽器を持つ者が楽器以前に謙虚な性格と相手を思いやる心を持ち合わせた人間、という希な人間はいません」
「……はぁ」
「つまり、楽器を持つ者ならば当然、自分の腕を過信し、自分の腕が良いのは当然なのです」
「そうなんですか?」
響一は買ってきたコンビニのサンドウィッチのパッケージを開く。このままだと昼飯を食いっぱぐれる。
おそらく、これは世間話、の部類だ。
「ええ。ですから、この高校の惨劇も珍しくはありません。問題なのは個人の音ではない。個人が自分の音を聴く能力です。君、たった一人が抜けただけで音の重厚感は無くなり、まとまりも無くなった。なのに一人、一人がその原因すら理解していない。キミの重要性を誰も分かっていない。キミは居ても居なくてもいい存在ではありません。この高校にとってはむしろ重要性しかない」
きらびやかな瞳に射られるように動きが止まる。サンドウィッチが口に入ったまま存在を主張していたので仕方なく口に含む。これが何味だったか考える余裕もない。
ペットボトルのお茶で飲み込む。
「そんな大層な存在ではありませんけど……」
「ソウテキは理解している。何故ですか?」
「それはアイツがこの高校に俺を薦めたからじゃないでしょうか? 確かに俺は昔から他人に合わせるような音しか出していません。それが中学の時、朝倉には妙に聴こえたのでしょう。そのようなことなら言われました」
「君は進学先さえ、他人に合わせたと?」
「そういう訳ではありませんよ。この高校がこうなったからと言って朝倉を攻めるのも筋違いです」
「ふうむ。君は生きづらくはありませんか?」
「特には」
「……そうですか。アイリスが珍しく、ライバル心を剥き出しているからどんな人かと思ったのです」
アイリスに持ち合わせた感情は良く考えれば分かることだが、彼女が存在して始めて確立する。つまり、アイリスが来てそれから、の悩みなのだ。夜宵がソロをやろうがそれは関係ない。そもそも、トランペットはアイリスが居なければここまで話題になることはなかった。
「いえ。彼女は何も間違った行動はしていないと思います」
「おや。君は彼女が憎くはないと? 君がこうして今、日の目を見ているのは彼女が原因でしょう?」
「いいえ。全く。彼女、というか部外者の存在は珍しくありません。トランペットと括ると希ではありますが。俺は別にこの組織が永遠だとは微塵も思いません。むしろ儚くあっという間の瞬間です。何が起こっても不思議ではない」
「君の言葉は時々難しい。しかし。私は理解出来ない訳ではありません。いいえ、むしろ分かります。良く、良く、考えれば。君は私にその切っ掛けを与えてくれるのです。君は良い演奏者ですよ」
「それは……どうも」
という言葉しか浮かばない。どうにもこうにも他人に誉め慣れていないのは確かだ。サンドウィッチの一辺が無くなる頃にセレスタンは立ち上がった。
「なるほど。つまり、私は私次第、という訳ですか」
「……いいえ、先生は俺に、俺など気にする必要はないと思います。邪魔なら切ればいい」
「それは出来ません。私は君がこの組織の中で最も優れた演奏者だと認識した。内弟子も含め、全員の音を聞いた結果です。その結果を信じる、つまり君を信じることが私の使命です。指揮者として」
「俺は……そ、そんな大層な……存在では……」
「いいえ。存在です。君に自覚しろ、と言うのも酷でしょうが、私がそんな簡単な問題を間違える指揮者だとは思わないで欲しい。……そうですね、もっと簡単に言えば、君も私を信じて欲しいのです」
「……信じる?」
「ここまで来ること時点、容易ではありませんでした。多くの学生や内弟子がいた。妥協案はそこらに転がっていた。……けれど、私は妥協が出来ません。音楽だから、妥協出来ません。私は否定します。最初に君に言った。ソロに向いていない。この言葉を否定します。君こそ最もソロに相応しい演奏者です」
「……はぁ」
「君の予定表は確かに受け取りました。私はこの時、今の全力を出すのなら今が勝負だと思っています。夏前。この時期に。私は君が欠損した状態での部の完成度を最高の状態にすると約束しましょう」
「……あの!」
「はい」
「そんな過信されても……困るというか……」
「これは過信ではありません。君が持つ当然の権利です。今まで、それが無かったのが不公平なのです」
「そんな……」
「君の欠点たる欠点はその自信のなさですが、その原因もこの部の完成度が問題ですね。私は指揮者。君は演奏者。この立場は決して違えない」
セレスタンはそれだけ言って、立ちあがりくるりと響一を見下ろした。
鮮やかな風が彼をまとう。不思議な光景だった。
「アイリスの事はよろしくお願いします。……困るでしょうが、君になら任せて間違いない」
「そりゃあ、困りますよ!」
「ですが、私は今、この時。君に出会えて良かった。幸運でした」
と、最後は面白そうな表情で去って行ったセレスタンは大層な衝撃だった。
響一はただ、自身の未定な予定表を提出しただけだ。テストは受けたが、ただ言われた通り曲を吹いただけだ。
総評としてセレスタンは指揮者に向いているのだろう。人物一人一人を己の持つ基準で正当に評価出来き、正当に優越を付けられる人間というのも希だ。『私を信じて欲しい』という言葉を信じてもいい気がした。少なくとも響一がどうこうする必要はないし、どうこうする気もない。セレスタンが決めた方向性があるのならその通り従うだけだ。それでも他人にどやかく言われるのは迷惑でしかない。
飲み物を机に置いて響一は立つ。音楽準備室にアイリスはいた。昼練で見事、不協和音に、部員の音に酔った。元々そんな徴候はあった。
「まあ、好きに出来るのなら好きにすればいいと思うが」
アイリスは合宿の予定表を持ち困惑した様子で響一の前に立った。
「つまり先輩が好きにする努力はしないと」
「……努力というか。そんなことに気を使う暇があるなら練習しろとは言いたいな」
「……っ」
「俺がどうしようが放って置けばいいものを。誰がソロだろうが、俺は与えられた責務を果たすだけだ」
それは中々痛い指摘だ。この部に足りないものの一つだ。
「それは……言う通りだと思う」
アイリスはぐったりと席に戻った。
「君は別に何かが劣っている訳でもないのに、そんな気を使う事はない」
「……でも。先輩が先輩らしい音を出せるような伴奏を奏でたいと思うのは間違いないと思っています」
「君は不思議だ。出会った頃はとても喧嘩を売られている感じだったのに」
「そういう感情が皆無になった訳じゃない。ただ、先輩の実力が分からない愚か者ではないのも確かです」
「そうか」
「まだ嫌ですか?」
「何が?」
「この部の前でソロを吹くのは」
「色々な意味で嫌だな」
彼女の瞳はストレートで、そして歪みなくこちらの音を聴き、そして慕ってくれているのだとするとあまり無下には出来ない。
「色々な意味で……ってどういう?」
「色々な意味だ。立場、部員、色々考えてもいい気はしない。もちろん、この部のレベルがそもそも低いのもあるが。俺がソロだろうが、瀬戸内だろうが音ではどちらでもいいと言う事だ。そんな所で何故、俺がまるでお山の大将のようにソロをやらなければならない」
「……リスクしかない」
「更に、俺が蓮華 響佑の孫だと知れば、だから巧いのかと思うのだろう。阿呆らしい」
「仰る通りで」
響一は頷いた。アイリスはずっと、何故、と思っていた。そんなことを聞いても、聞かれてもという感じだったが響一の立場で考えれば分かるような気がした。こんな、響一の音さえ分からない残念部員のお山の大将をやりたいのか。そう問われればアイリスとてNOだ。
チャイムの音が聴こえる。部員にはこの音が普通のチャイムの音に聴こえているのだ。だとすればちゃんちゃら可笑しい。こんな狂った和音。そこまで思考がたどり着き、アイリスは顔を上げる。
「でも! 先輩はその暗い思考回路、どうにかすべきです!」
「……ああ、そうだな。しかし、もはや己の性格とも言える内面をどうにかするのも難しいものだ」
アイリスを目の前にしても響一は余鈴の音に従いその場を離れる。
これは思った以上に難解な相手だ、とアイリスは頭を抱えた。宗滴の言うように、アイリスの顔やら何かでコロッと分かりやすく態度を変える男の方がよほど面倒ではない。そう思うぐらいには。
ただ何故かアイリスは響一のそういう部分も含めて嫌いにはなれなかった。元々、顔は良い人だ。
性格が違えば作る表情が違えばこんな暗い人だとは思わなかっただろう。
つまり元々根暗だからこうなった訳ではない。そう、それは後付けでも説明すべき事項だ。限りなく宗滴は宗滴で正しい。事実しか提示していない。
響一はフランスではあまり見られないタイプの男性だ。魅力的なのに本人はそう思っていない。
そして限りなくアイリスに優しく、それは無自覚。
「……あの人、あれで多分私に気なんか無いんだよな。やってられねぇ」
自分の音には正直で、アイリスに触れる手は武骨で優しい。
アイリスが音の妙に気が付き、気持ち悪さに倒れそうになった瞬間、響一は素早く音を切り替えアイリスに合わせた。
時々音に酔ってこうして少しくっだりしているとさらりと様子を見に来る。
そんな手が嫌いではないのだ。つまり元々アイリスは響一のような男性をそもそも嫌いじゃないのだ。まだ十代。己の趣味なんてあって無いようなもので分かってて分かっていないのだ。