第三小節 超技巧的機械音
合宿での合奏を想定してオーディションが行われる。
選出人数は指揮者を抜いて計55名。
意外にも今年は一年には中学からその楽器一筋、命懸けてます系が多くレベルが高い。
そして困ったことに一番練習がガタガタなのは二年生だ。
まとまりは無く。
女子はとにかく夜宵に付いて歩き。
そんな中、連休前の午後。音楽室で順番に一人一人オーディションが行われる。
元々人数は多くはないがそれでもドラムを希望していた同じ一年の一茶 偲が走って行く姿を見た後に変わらぬ様子で音楽室から出た九条寺 海は合格したらしい。
音楽室の扉の前には病院の診察室のように椅子が並んでいた。
音楽室。
真っ正面。セレスタンを前に響一は始めて楽譜を開き、楽譜台の上に乗せる。
「準備はイイデスカ?」
「はい」
指定された部分を淡々と吹いた。
オーディションはあっという間だった。響一は吹き終え着席する。
「これが君の実力ですか?」
「はい」
「確かに合奏部分は問題ありません。合格です」
「ありがとうございました」
響一は表情すら変化しない。セレスタンはどうしたものか、と思う。
「私は君のような超技巧的な機械音は求めていないのですが……」
「え……」
「私はどんなに巧い子でも、もっと、もっと良くなるトコロ探します。響一のさっきの音、それがないのです。無」
セレスタンの期待する瞳。悪いが、それは簡単には応えられそうもない。
「そう言われましても……先生は本気で全国に行けると思いますか?」
そう言って響一はパタンと音楽室の扉を閉める。
目の前に立っていたのはアイリスで響一も驚いた。
「えっ!?!」
「何ですか。あのふざけた音」
アイリスは恐ろしい顔で響一を睨む。
まるで機械で作った楽譜の音をそのまま再現する機械の様だった。
「最悪です。信じられません!!」
「次、お前だろう?」
その時のオーディションの事などどうでも良くなるぐらいアイリスは怒りが湧いた。
おかしい。セレスタンに直接演奏を聴いてもらえるのだ。
普段なら喜んだし緊張もしただろう。
しかし怒りでセレスタンの顔も見ずにアイリスはオーディションを終える。
「うん。前より良くなってる」
声をかけられアイリスはハッとする。
「はい。ありがとうございます」
「でも、この曲を理解していないね。感情的なのは良いけど、ちょっと高音が掠れている。ピッチを合わせるのは巧くなったよ」
「はい……」
数分後セレスタンはため息を吐いた。
「正直どうしたものかな。ぶっちゃけアイリス、君か夜宵かどちらかなんだ。現状は」
「え……」
「実力ならアイリスの方が上だ。夜宵の音はおしとやかだけど迫力が足りない。でも、どちらも私の出して欲しい、聴きたい音じゃない」
「……蓮華先輩は?」
「え? レンゲ? ……ああ、キョウイチか。彼の実力は不透明だ。何せ機械で曲を流したようなものだ。無表情。無感情。それが全て彼の実力ならコンクールメンバーには入れるけどソロは向いてないよ。本人に伝えたけど」
オーディションを終え扉を締めた。
開いた窓から初夏の風が穏やかに吹く。難しい曲だ。豪快でもない。
感傷とも違う。
そんな時アイリスの頬に冷たい何かが当たる。
「ひゃっ!?」
「お疲れ。ちゃんと水分摂ったか?」
ペットボトルを持った宗滴だ。アイリスは受け取る。
「はい……ありがとうございます。オーディションは……」
「トランペットで最後」
「そうですか」
ソロは向いていない。セレスタンはそう言っていた。
セレスタンは言った。しかしアイリスは思った。もしかしたら本当は彼はソロになりたくないのではないかと。
「響一だと思っただろ?」
「え……?」
「そんな顔してた」
悔しくてアイリスは無言でミネラルウォーターを口にする。
「先輩、オーディションは?」
「まあ、受かるだろ。当面、サックスのソロ任されたし。ただ、渋すぎるからもっと若々しい音出せと。無茶言うぜ」
「なんか……先輩らしいですね」
会話は弾まない。アイリスは響一の事を宗滴に聞くべきか悩んでいた。
「響一はそんな簡単に本気は出さないさ」
「……えっ?」
顔をあげるとアイリスの顔が宗滴の眼鏡に反射する。
「気になるんじゃない? お姫様」
「そんなに露骨でした?」
「まあ、割りと。夜宵じゃなく響一にライバル心向き剥き出してどうするのさ」
「……だって……あの人本気じゃないし」
「響一は目立つの好きじゃねぇからな」
宗滴は窓際に背を向けてボタンで蓋を開き水筒の中の何かを飲んでいる。
匂いからするに、ほうじ茶だろう。
「……どうして蓮華先輩は目立つのが苦手なんですか?」
「お、覚悟は決まったかい。お姫様」
パチンッと蓋が閉じる音がする。
「覚悟……?」
「そりゃ、そうさ。俺から響一の話を聞きたいってんなら覚悟しな。少なからず、響一に関わるって事だ。俺は誰でも、どうでもいい人間に自分の知る大切な人の話をほいほいするような人間じゃない。そこだけは信用問題でね」
宗滴の口調はまるで大人びていた。
彼の言うことも最もだ。これ以上どうしろと言うのだろう。けれどもアイリスは今更引き返せない。
神妙な面持ちでアイリスは頷く。
「上等。簡単に言っちゃえばアイツは根暗なんだよ」
「ネクラ?」
「自他共に認める」
それだけ? 本当に?
「ヒントは学校の開校時間。後は響一に聞きな」
「……え?」
「甘い、甘いぜ。お姫様」
宗滴の目の色が楽しそうに変わる。
「お姫様は嫌です」
アイリスは睨む。
「そうかな? 本気で響一の事を知りたいなら、形振り構ってられねぇよ。その大層なお顔使ってでも天岩戸を開いてみな。そしたら認めてやるよ。俺から直接ネタを聞き出そう、だなんて十年早いぜ。お嬢ちゃん」
宗滴は片手を縦に、まるでお坊さんがするようにスッと上げて去って行った。
悔しいけれどその通りだ。
アイリスはまだまだ出来る事があるのだ。
……ヒントは開校時間。朝六時。
「……起きられるかな」
オーディションは終わった。結果発表は明日の午前のミーティングで行われる。
振り向くと今度は夜宵とぶつかった。
「後生や……」
「……えっ?」
後ろから追突するようにぶつかり抱き締められた。思わず振り向くと美しい和風美女が泣いている。
「……あの」
「ウチ、今年で最後なんよ。吹きたいんや。あのソロ」
「それは……」
「そしたらトランペット辞めてもええ。元々、琴の稽古が嫌で始めた楽器や。アイリスちゃんがソロに選ばれる。……そしたら」
「私に辞退しろ、と?」
「アイリスちゃん一年やん? ……上級生に譲る、ってそんなに悪いことなん?」
「……先輩は全国に行きたくないんですか?」
「そない訳ない。……でも行けるとは思ってないんやろなぁ」
「……そんな無責任な事、言わないで下さい。巧い人がいなければ、巧くなろうとしなければ何も始まらない……です」
「今更、敬語はええよ。けど結局は高校生。限界があるやん」
「その限界は私が決めます」
アイリスは去った。
さらに腹が立つ。
怒りに電車と徒歩で寮に帰宅するまで何も覚えていない。
どっちも、どいつもこいつも腹が立つ。
冷蔵庫の麦茶をがぶ飲みして扉を強引に閉めた。
滴る水滴を拭ってようやく落ち着く。
「ぷはっ。マジでムカつく。……まずは蓮華先輩だ。明日は早起きしなきゃ」
だから今日はもう寝てしまおう。
怒りは次の日の早朝になっても続いた。
怒りのまま学校に向かう。
「何で! 私が! こんな暑い朝! 早くに学校に行かなきゃならねぇんだよ!! しかも早朝に!!」
屋上への鍵を取りに職員室に向かったら既に鍵は無くなっていた。
「……ない?」
その事実にアイリスは顔をしかめ。一歩づつ屋上に向かって階段を上る。
古びたドアノブを回すと鍵は掛かっておらず扉は開く。
最後の一歩を踏み出した瞬間。
そこは階段ではなく草原だった。
美しい旋律。歌うような優しい曲が巧みに奏でられる。指の動きすら想像出来ない。
確かな腹式呼吸は巧みな強弱もロングトーンも美しく消音する。
アイリスが本当に苦手なのは高音ではない。この無理のない、優しい消音だ。
またサビになれば突き抜けるような音が響く。まるで奏でているかのような音が。
これはコンクールの曲ではない。
アイリスはしばらく、その場で踞った。
「どうして……どうして……この音を差し置いて自分がソロをやりたいだなんて思えるんだよ」
頬には涙が伝う。
早朝。響一の音が構内に響いた。
運動部も教師も手を止めて屋上を見上げる。
授業中にアイリスは今朝の旋律を楽譜の五線譜で出来たノートに書き込む。
少し寂しく切なく美しい旋律。それはコンクールの曲とは違う曲でアイリスの知らない曲だった。
昼休み、そっと柚姫を呼び出す。
いつもの理科室でアイリスはそのノートを見せた。
「授業中、何やってるのかな、って思ったら……作曲してたの?」
「ち、違う!! これ、知らない曲で……何かなって」
「うんうん、あるよね、そういうの。これって主旋律かな?」
「多分」
「じゃあ、クラシックじゃないかも。聞いたことないし。トランペット?」
「ああ」
「アイリスちゃん、これ吹けるの? ちょっとリズムが難しいけど」
言われてアイリスは顔をしかめる。吹けるか吹けないか。ちゃんと正式な楽譜を見て曲を聴けば吹けるかもしれないし、むしろ無理かもしれない。正しくはトランペットが吹く曲ではない気がした。
けれど、やろうと思えば吹けるのだろう。
「無理だ。最初の音の印象が強くて自分がそれ以上を吹ける気がしない」
「えっ……誰かな? そんなに上手な人、いたかな……」
「……多分……いや良いや。放課後、部活でな」
「うん。また何かあったら何でも聞いて」
その言葉にアイリスは頷いた。
今朝の曲が頭から離れずもやもやする。曲も歌詞も知らない曲だから余計だ。
でも旋律は柔らかく少しジャズっぽいのにどこか切なく、
苦し気で。アイリスが吹けるか? あんな風には無理だ。事実がひたすら悔しく拳が震える。
明日の放課後はミーティングはオーディションの結果発表だ。流石に緊張はしたが元々トランペットソロがメインの曲だ。
コンクールメンバーはやはり部員が巧いと思う人が選ばれる。それには柚姫も含まれソロにも選ばれていた。
やはり数名の女子が何かコソコソと言っていたが気にすることはない。
彼女には九条寺海がいる。
彼はそんな女子たちを後ろから睨み見下していた。それは酷い表情でアイリスは一気に九条寺海という人間性が分からなくなった。
眼鏡を掛けているが真面目を装っているだけなのかもしれない。
「最後にトランペット。パートリーダー三年、瀬戸内夜宵」
「はい」
女子たちの話題は一気に変わる。
「ソロ、アイリス・クリスティーヌ」
音楽室が静まる。
セレスタンは首を傾げてもう一度名前を呼んだ。
「アイリス? アイリス・クリスティーヌ」
アイリスは返事をしなかった。
音楽室を静寂が支配する。アイリスは仕方なく立った。
そう。自ら名乗り出る気はないらしい。
「先生。ソロは辞退させて頂きます」
アイリスは手を上げハッキリと言った。
今度は騒音が音楽を支配する。柚姫や梓の驚いた顔が浮かぶ。少し嬉しそうな夜宵の顔。だが彼女の思惑通りにアイリスはソロを辞退した訳ではない。
「辞退? 何故? アイリス、ハッキリと言いなさい」
セレスタンの瞳が厳しくなる。この人は音楽には妥協しない。妥協できない人なのだ。
「私より巧い人がいるのに私がソロをやるのは不相応です」
セレスタンは首を傾げて頭を掻く。
「やれやれ、困った。ワタシ困った。こういう時、ドウスル? キク? ミンナニ?」
「先生、瀬戸内先輩です! やっぱり瀬戸内先輩がソロをやるべきです」
「ヤヨイ。ソロやりたい?」
「……ええと……そりゃあ、やりたいです。今年で最後やし」
「違います」
アイリスの言葉にまた女子が騒ぐ。
「違う? 違うって何よ」
「私は、三年の蓮華先輩がソロに相応しいと思います!」
アイリスの叫ぶような声に音楽室の騒音がピタリと止む。
「……それはスイセン。ヤヨイはリッコウホ。ドウスル? こういう時、日本人はドウスル??」
「違います!! 夜宵先輩も推薦です!! 大体、練習もしない蓮華先輩なんか……どうして」
「それは違う。練習する必要がないからしないだけ。あるならします。……ですよね? 蓮華先輩」
アイリスは先ほどの海に勝るとも劣らない瞳でこの場になっても一人静かに端に座る蓮華響一を睨んだ。
「否定はしない」
無表情。無機質。
「今のこの部のレベルなら練習する必要すらない」
「まあ、そうだな」
「先輩はオーディションまでの時間。何をしていましたか?」
「曲を聴いた」
「それだけ?」
「色々なオーケストラ、高校、とにかく色々な違う曲を課題曲、自由曲共に聴いた。それぐらいしか出来ることはなかったから」
「はぁ? それってどういう意味よ! うちらがヘタクソだから本気出さないって?」
同じトランペットの二年生が間に入って来た。アイリスを押し退けて。そのせいでアイリスが倒れかけたが響一がその手を掴む。
「待ちなさい」
セレスタンの声が騒動を集束させる。
「つまり響一。キミは今まで一度も本気で吹いていない、と」
「ええ。合奏には不相応です。……本気? 合奏するために皆が出来る所は押さえる。出来ない所は吹く。そうしないと合奏にすらならない。違いますか?」
ようやく蓮華響一は立った。
「そんな俺を欠いて合奏が出来ると言うならソロだろうが退部だろうが何でもします」
「何様のつもり!!」
「結乃ちゃん、ちょっと!」
「一人が巧くても合奏にはならない」
そして威嚇の瞳よりも怖い。無機質な瞳は何も捉えない。そのまま響一は音楽室から去って行った。
「……分かった。トランペットソロのやり直しを認めます。立候補、推薦含め合宿の最終日に今度は全員で一回づつ合奏して決めましょう」
パンッとセレスタンは手を叩く。
一気に緊張感が溶けて縮んだゴムのように空気が弛むが同時に何とも言えない虚無感が場を支配する。
意図せずしてお前らヘタクソだ、バーカ、と言われた気分だ。いや。言われたのだろう。
瞬間アイリスは飛び出す勢いで音楽室から出た。
廊下を歩く響一の背中にぶつかる。
「うおっ!!」
「一度でいい」
背中の制服をぎゅっと掴んだ。部室からコンクールの合奏が聴こえる。
これは夜宵のソロだ。
「私、あんな音は嫌! 先輩の音じゃなきゃ嫌です!!」
「……いや、だから」
「だったら何ですか。自分だけ一人巧かったらどうだって言うんですか!! 出来るのにやらないなんてただの傲慢です!! そんなに目立ちたくないから本気を出さないって……それってただの自意識過剰です!」
アイリスの体が大きな背中に受け止められる。
「……自意識過剰、そうか……そうかもな」
そのまま響一は音楽室から去って行った。
その日の夜。
初夏の空気が近付いている。一人寮の部屋でアイリスはあの屋上の曲がどうしても気になって何度も一人で音程を拾うが難し過ぎる。
そんなガタガタな演奏を弟のマルコーに送ったら曲名と和訳、英訳、フランス訳で送られて来た。
その歌詞を見てアイリスは愕然とする。
「何だ……これ」
リズムも曲も良い。
しかし歌詞は圧倒的に暗い。暗すぎる。
これが彼の内心だと思うと妙に納得出来た。
同時にこの曲を響一のように吹くのは無理だという事実にアイリスはベッドに転がるクッションに顔を伏せる。
だとしたらあんな言葉、言うべきでは無かったのかもしれない。