バカと天才を区別できるようになったら、こんな世界になると思う
「あなたたちは馬鹿です! カスです! クソ虫です! 粗大ゴミです!」
低俗な悪口がスピーカーを通じて、体育館に響き渡る。
「な、何を!」
「黙って聞いていりゃいい気になりやがって!」
みたいな反論は一切でない。五百人近くの人間が、壇上に立つどこの馬の骨かもしらんたった一人の男に対して反論ができないでいる。
だって仕方ない。俺たちは馬鹿だから。カスだから。クソ虫で、粗大ゴミだから。
そんなこと言われなくたって分かっている。こんな低俗な悪口がお似合いの人間なんだ。
だからこそ、ここにいんだ。
「しかし、賢くなれるチャンスです」と男は言う。
そうそう。それが聞きたかった。
馬鹿の間で噂になっているマルスって言う機械がある。それを身に付けると賢くなれると言うのだ。マルスって言うのは、ラテン語で言うところの「リンゴ」らしい。そして実際にマルスはリンゴの形をしている。
なんでリンゴかって言えば、物知りなら知っているだろうけど、アダムとイブが喰ったってことで有名な知恵の樹の実がリンゴだからだそうだ。でもこのリンゴは機械だ。食べるわけじゃなくて、コネクターと呼ばれる機器で脳と繋げるのだ。言ってみれば脳の補助。重たい物を持ち上げるためにパワードスーツを着るように、馬鹿な頭を賢くするためマルスは生まれた。
俺たちにとってはマルスがリンゴだろうがバナナだろうが、イチジクだろうが賢くなれるならウンコだって身に付けてやれるだけの気概があった。
何で俺たちは己が馬鹿だってこと認めていて、ウンコを身に付けようとも構わないくらい必死に賢くなろうとしているのか? そのことについて軽く説明させてもらえるだろうか? 聞いてほしい。難しい話じゃない。
結果から言えば脳の地図ができた。脳が解明されてきたのだ。
人類の長い歴史のなかで、幾人もの天才たちが研究に研究を重ね、実験に実験をし、多くのモルモットたちが命を落とした末に脳の地図はできた。伊能忠敬が歩き回って日本地図を作ったって言うけど、そんなの比べ物にならないレベルで凄い地図なのだ。たとえ一人で世界中を回って、世界地図を作ったとしても「大したことねぇな」と言ってしまうくらい凄いことだ。
そして脳のどこで、どんな処理が行われ、どういうことが起こっているのか? それが分かってきたせいで、脳の優劣をハッキリと判別できるようになってしまった。
コンピュータの箱をパカッと開けて「ほうほう」と中身を吟味するようなもんだ。
そんでもってもう分かっているだろうけど上田 秀太朗こと俺の頭に搭載されている脳は、科学的な検査によって「馬鹿」というレッテルを貼られている。IQ値は79。70以下から経度知的障害と言われるわけで、なんとか危なく障碍者にはならなかったけれど一般的(IQ値100)にみると劣っている。
それがどうした? と思う人もいるかもしれない。
でも考えてみてほしい。
学力テストとかせずに優秀な人間とそうじゃない人間がハッキリと科学的根拠に基づいて区別できるようになったんだぞ? 学力テストなんて当日の体調次第で賢い奴でも悪い点数をとるし、運が良ければ馬鹿でも高得点を取れる。そんな曖昧なものじゃなくて、精確に賢い人間を見分けることができるようになったんだ。
たとえば病気になって医者に診てもらいたいと思ったときに賢い脳を持った先生と、俺だったらどっちに診てもらいたいだろうか? とうぜん賢い方だろう。
学校は優秀な人材を求める。企業だってそうだ。なんだってそうだ。賢い人間には需要があり、馬鹿な人間にはない。ただでさえ人の仕事がロボットに代わられているのだから、俺たちの居場所はどんどんなくなっている。
目に見えて知能格差が生まれてきた。
馬鹿な脳を持って生まれただけで将来性は潰える。人生の選択肢は狭まる。
昔は良かったらしい。たとえ馬鹿でも努力すれば夢を叶えられたのだ。チャンスを得られた。希望を持てたらしいのだ。
でも今は違う。馬鹿に希望はない。どうしたってそれが現実だ。
だからここにいる。俺たちは賢くなりたい。賢くなって普通の生活を送りたい。夢や希望を持ちたい。劣等感を味わいながら生きていたくない。
五百人近くの藁にすがっている人間たちが、壇上に立つ男性の熱弁に心を打たれている。そんなとき、一筋の雷のような声が体育館に響いた。
「だめえええええええええええ」
甲高い幼い女の子の声が体育館内にこだます。壇上にいる男も口をつぐんだ。体育館内がざわついた。
照明を消した暗い体育館内でも、きらきらと輝いて見えるほど綺麗な金髪をした少女が、ずんずんと人を掻き分けて進んでくる。彼女の進行を止める者はいない。不思議とみんな道を開いた。
俺も横にずれようとした―――とき、金髪少女と目があった。丸くて大きな綺麗な瞳だ。暗い場所で光る猫の目のようだ。とても強い目力で見つめてくる。
金髪少女が俺の前で立ち止まる。
彼女の頭が俺の胸あたりにあった。中学の1年くらいか? と予測する。
金髪少女は立ち止ったまま動かない。
「……え? 何?」
「しゃがんで」と少女が言う。
「へ?」
「しゃがんで!」
わけも分からず屈んでしまった。目の前には金髪少女の長い髪と、細くて白くて長い足があった。今、顔を上げたらパンツが見えてしまうのだろうか? 見るわけないだろ。安心しろ。
がっ、と少女が俺の肩を掴んだ。次に両肩がずしんと重くなった。
「立って!」と彼女は頭を引っ叩いてくる。彼女の綺麗な足をガシッと掴みながら俺は立ち上がる。まさかの肩車。俺の頭が彼女の純白のパンツを公衆の面前から隠している。なぜ純白だって分かったか? そんな疑問は野暮だから捨てろ。
とにかくもう、本当に混乱してしまって、こういう時って拒否とかできないものらしい。完全に脳の制御を彼女に取られてしまっている。
「マルスはダメだから」肩に乗る金髪少女が声を上げる。「付けちゃダメだからねっ!」と大事なことらしくて、何度も言う。
「どうしてダメ―――なんです?」壇上の男がたずねた。
「心がなくなるからだよ!」
ざわり、と会場がさざめいた。
なだめるように、落ち着いた声で「なるほど」と壇上の男は頷いた。
「きちんと説明するつもりでしたし、ここにいらっしゃる方はすでにご存じだと思いますが、たしかにマルスを付けることにより感情が希薄になります。ただし、無くなるわけではありません」
「同じことなの!」
「違います。いいえ。だとしても何です? たしかに感情は薄くなります。でも、それがどうしたと言うのです? 感情なんて理性的な思考を邪魔するだけです。豊かである必要はありません。
なにより賢くなるためにリスクが伴うのは当然でしょう。何の犠牲もなくして賢くなれるはずがありません。昔から天才と呼ばれる人達は何かしらの障害を持っているものなのですよ。
なによりも些細なリスクより、知能を上げ、社会的に地位を上げ、有意義な人生を送れるようになるほうが、よほど有益なことだと思いませんか?」
館内が静まりかえる。誰も反論するものはいない―――一人を除いては。
「心を失くして、善も悪もなくしたら意味ないよ! 嬉しい気持ちを失くしたら賢くなる必要なんてないもん!」
金髪少女が訴える。しかし、もう誰も聞く耳を持っていないようだ。
俺もみんなの気持ちがわかる。誰もがマルスに希望を求めている。俺たちにはそれしかない。たとえ心がなくなろうと、このまま死んだように生きていくより余程マシだ。賢い奴らに見下されて生きていくくらいなら、そんなツライ想いなんていらない。心なんていらない。どうせこのまま生きていても楽しい事なんて一つもありはしないのだから。
メリットだけではなくリスクがあることが逆にマルスの信用をもたらせた。金髪少女はかませ犬のようだった。そして、まさに犬のように、きゃんきゃん吠えている。
「うるせー」と既に心を失っている誰かが叫ぶ。それは腐ったミカンが周りのミカンを腐らせるように伝染していく。いや、もともと俺達は腐っているんだ。
「邪魔だ」「出てけ」と次々に声が上がる。
「心の大事さを知らないから、だから―――あなたたちは馬鹿なの!」
金髪少女が火に油を注いだ。油を得た火は、化学反応を起こして炎に変わる。
出てけ、出てけ、のシュプレヒコールが金髪少女に向けられる。と、同時にそれは肩車している俺にも浴びせられるわけで、ついにはゴミを投げつけられて、俺の制服にジュースがかかった。なんで俺が……
仕方なく逃げることにした。金髪少女が辿ってきた道を通って、出口に向かう。
「ちょ、ちょっと! ウエダ! まだ終わってないよ!」
彼女は、がしがしと足を動かし、ぱしぱしと頭を叩いてくる。
「もう止めとけ、暴動になりかねん」
何度だって言う。誰もが何よりも賢さがほしいのだ。それを邪魔しようとする奴がいれば人を殺すことさえも厭わない。群集の中にいる人は、想像以上に残酷になれる。
体育館から出ると、ばんっ! と誰かがドアを閉めた。
しばらく肩車したまま歩く。金髪少女は黙ったままだ。