灰色の工場で会いたい
空の色は、何色だっただろう。今となっては、すぐに思い浮かべれそうにない。僕の着ている作業服は、暗い藍色だ。空の色も、こんな色だったかもしれない。工場の色は灰色だ。
灰色のラチェットレンチを握り、灰色のナットを締めつける。固定された材料は、これで加工が開始できる。操作する機械は、どれも古いものばかりで、僕が使っているものなんかは加工中にモニターの画面がいつ切れてもおかしくないほどの半壊状態だ。不安な気持ちで、起動のスイッチを押し、切削が始まった。
すぐに、鉄の切り屑がでてきた。集めて、捨てにいかないといけない。床には、切り屑が散乱している。安全靴の底は鉄が突き刺さり、足の裏が地味に痛い。だけど、そんなことは言っていられない。僕は、オペレーターとして、生産性を落とすわけにはいかない。バケツに切り屑を入れ、台車で捨てに行った。
なんで、こんなことをしているのだろう。僕は、なんで働いているのだろう。そうだ。お金のためだ。
僕は、黙々と作業をする。やがて、五分の休み時間になり、開いたシャッターから外に出た。夏の日差しが疲れた眼球をてらした。両目がひりひりと疼く。なぜ、こんなにも疲れているのだろう。竹やぶの方を見つめてもうまく焦点が合わないで、ぼやける。
「あ、あれ、どうしちゃったんだ」
視線が小刻みに動いて、定まらない。痙攣したかのように、ピクピクと眼球の下らへんが震えていた。とてもじゃないが、こんな状態で仕事ができそうにない。僕は、瞼ををこすった。
何度かまばたきを繰り返してみる。すると、不思議なことに、目の前に、人の形が現れた。まだ、シルエットしかわからない。驚いて、また、何度かまばたきを繰り返した。すると、目の前の人の形が鮮明になって、色づき始めた。
青。青。青。
とにかく青一色だった。よく見るとそれは、ツナギの服だった。上下一体になった作業着が青かったのだ。このとき、空の色を思い出した。
「仕事、忙しそうだね」
肩にかからない程度の髪がゆれた。まるで太陽の光のように躍動するその存在に、僕は動揺する。まぶしくて、目を閉じてしまいたくなる。だけど、それを阻止するかのように、彼女は言葉を切らさなかった。
「忙しいときほど、楽しまないといけないよ。時間は、限られているんだから」
「……はあ」
彼女には見覚えがあるがよく思い出せない。その原因は自分にある。僕は人と顔を突き合わせて話すことが苦手で、数年経った今でも社員の顔と名前が一致しないことが多い。
作業着の選択は自由だから、ツナギ服だろうと別に構わないけど、それにしても……よく似合っている。
「ここは、面白いところだよ。伸びしろしかない、最高の環境だ」
「……それ、悪口じゃないですか」
僕は、笑った。思わず目を閉じる。
「本心でそう思っているんだよ。ここは、楽しめる職場だ。もちろん、シンドイことはあるかもしれないけど。それでも、心を折れないで、改善していけば、きっと楽しくなる」
この言葉を境に、彼女は消えていってしまった。まるで、最初からいなかったかのように、唐突に消えていたのだ。
昼休みになった。稼動した機械の近くの椅子に座る。食堂にはいかない。あそこの壁掛け時計はいつも壊れていて見ているだけで気分が悪くなる。
先ほどのことについて少し考えてみた。しかし、彼女のようにポジティブ思考にはなれなかった。がんばったところで、僕は会社にとって不要な存在で、生きていたって無駄な存在なんだという思いが、だんだんと強くなってくる。
工程管理をする人間がいない職場で、日々、切羽詰まった納期で仕事を始める。到底、守ることのできない納期に追われ、後工程の人間に怒鳴られながら、仕事が進んでいく。所詮、人が守れるものは、自分が守りたいと思った人間だけで、誰を責めることもしない誰にも均等に優しい僕のような自分の部署さえ守れない無責任な人間は、残業や休出をすることによって、日々、惰性で納期対応に勤しむことになる。
やり場のない怒りが、ふつふつと煮えたぎってきた。納期が間に合わないのは、前工程の進みが遅いからなのに、それを僕が責任をとって残業や休日出勤をして会社の為に行動しないといけない。僕は、これでもがんばっているつもりだ。
なのに、このがんばりさえ、納期が間に合わなければ、無駄だ。僕だけが、納期対応のために、がんばって働いても、無駄なんだ。僕は、生きていたって無駄かもしれない。
まだ昼の時間帯だということに僕は、とてもしにたくなった。ひとりでご飯を食べていた。まぶたは痙攣したように震えていた。また、視界はおぼろげになって、青いものが見えた。
「どうしたの? しにそうな顔して」
涼しげに、そう言った。
「しにたい。いや、別に会社が悪いとか、なにが悪いとかじゃなくて、学生の頃だって、よくしにたかったから。こういう集団の中にいると駄目なんだ。みんなにとって都合のいい人になる為にがんばってしまうから。だから、うん。その場の空気とか、プレッシャーとか抵抗とかに、弱くて、弱い自分の心を安定させる為に自分がしぬことを考えたりするんだと思う」
「……そうだったんだね」
誰にも話せなかった本音を言った。なぜだかしらないけれど、心に温かいものがすとんと、入ってくるような心地よさがあった。それは、誰にも心を打ち明けることのできない僕にとって、すごく必要なことだったのだと思った。
「がんばりすぎないで。でも、本気でがんばりたくなったら、応援しているよ」
とりとめのない言葉ではあったけど、僕は、孤独ではなくなった。名も知らない誰かは、いったい何者なのだろう。もしかしたら、僕の空想が肥大したせいでできた幻なのではないかと考えたが、それにしては、容姿や声が鮮明すぎると思う。
美麗な立ち姿。爛々とした輝く瞳。はきはきとした男勝りな喋り方。どれも、僕とは正反対だった。あと、青のツナギ服、可愛かった。萌えだった。
僕は、また彼女に会いたいと思った。もしまた会えたなら人間関係でシンドイことがあっても、がんばることに、意味を見出せそうな気がした。
***
「幽霊?」
僕は、衝撃的な真実を知った。勤務中、工場内で青色の幽霊が現れると、話題になったのだ。なんでも、以前この会社を勤めていた人にそっくりなんだそうだ。
休憩時間に、ひとりになって目を閉じた。ゆっくりと開けたまぶたから、徐々に青色の美麗な彼女が現れる。
「なんで辞めたんですか?」
こんな質問をしなければ良かったと、後悔した。彼女が辞めたのは、会社ではなく、人生の方だったのだ。自らしぬことを選んだ彼女の、思いはどんなものだったのだろう。鈍感な僕は思った。
「え。楽しかったよ。しの感情は突発的な起伏によるものが多いからね。だから、うちは、人生を謳歌しながら生きたよ。短い間だったけど、全然、後悔してない」
質問すると、そう答えた。後悔をしないなんて凄いね、と率直な感想を述べた。本当に凄いなと思う。僕は、後悔して落ち込むことばかりだから、まったく後悔しない、そんな人間がいることが凄い。
「そんなことないよ。普通だよ。ふつー。後悔する暇があったら、反省をして、次に活かしてるよ」
と、度肝を抜かれることを言われてしまった。この人……凄すぎる。なんで、そんなイキイキと楽しそうなんだろう。まるで、この世に不幸がないみたいじゃないか……。
「うちにだって不幸なことは、あるよ。でなきゃ、しんでないし」
まあ、それは、その通りなのかもしれなかった。そんな彼女には、しんでしまって心残りなことがあるという。それは、この会社の環境を改善できなかったことだそうだ。それを聞いて、僕はコンサルタントでも雇えば済む話しなんじゃないかと思ったが、そうではないらしい。
「そんなツマラナイこと、したくない!」
僕では、理解しがたい主張だった。仕事とは、そもそもツマラナイものではないか。なぜ、それを躍起になって楽しもうとするのだろう。それがよくわからない。
彼女は、あくまでも自分が主体になって環境を変えることを重視していた。その先に見えるものは、なんだろう。それは、経験したも者にしかわからないのかもしれない。
「一緒に、やろうよ。環境を変たいなら、僕が、その願いに協力する。願いが叶えば、この世に未練を残すことはなくなる訳でしょ」
この時の、無邪気な笑顔が嬉しかった。出会いに別れはつきものだけど。それでも、彼女に、幸せになってもらいたい。それだけで、良かった。
まず始めに、環境を変えるとはどういうことかを分析してみようと思う。そもそも悪い環境とはどういうものなのだろう。
「それは、人が人として輝けるかどうかだよ。汚い仕事は誰かがやらないといけないんだけど、でもね、汚れ役にだって、輝いてもらいたい。だから感謝癖をつけた方がいいと思う。率先して、汚れ役をしてくれる人にありがとうって言ってあげるの。あと不要な物は捨てて、楽に仕事ができるように最適化して、それで、全員が思い通りに仕事ができる環境をつくってあげたい!」
だそうだ。なんだか、この人は凄すぎるんじゃなくて、優しすぎるんじゃないかと思えてきた。なんで、他人の為にそこまでしようとするのだろう。わけがわからなかった。
がんばったって、無駄で自分だけが損をするかもしれないのに。なぜ、そこまで、環境を改善させるために躍起になれるのか、よくわからなかった。
僕は、僕が無駄だと思う。だから、環境を改善させるためには、僕を捨てたほうがいい。
僕なんか、しんだ方がいい人間に違いない。相対なんてする余地もなく、絶対的に、きっと無駄だ。
「そんなことない! この世に生を受けて、無駄な生き物なんて、いない! 絶対に無駄な人なんていないんだよ!」
「お、おう……」
本当に、そうなのだろうか。実際、世の中、絶対に決めつけられることは少ない。相対して、差別化するからこそ、価値が生まれるのではないか。僕は、僕に価値を見いだせない。この会社でだって、きっと、僕は無駄なんだ。なんの役にもたたない……。
「弱すぎだよ。なんで、自分のことを、卑下するの? 弱いふりをするの? そんなんじゃ、強くなれない。成長、できないよ」
「成長ってのはいわゆる、レベルのこと? 誰かよりレベルが高いほど、なんなの? 幸せになれるの?」
「レベルってのは、誰かと比較するだけのものとは限らないよ。全部同じ性質の人はいないんだから、比較するだけ意味があまりないよ。大切なのはね。前に進む楽しさを味わうことなんだよ。それが、成長の喜びなんだよ」
悟ったように、彼女は言った。それは、たしかに一理はあった。一概にそう言われてしまえば、その通りだと、認めざるをえない。そういえば、僕は、なんの話しをしていただっけ。たしか会社の環境を変えるって話しだったと思うのだけど、随分と脱線してしまったようだ。
「……誰だって、成長が自覚できたら嬉しいものなのかもね。環境を変えたら、なんなのかな。どうなるのかな。いるものってなんなのかな。僕は、会社にとって無駄じゃないのかな」
また、始まった。どうやら、僕は、思考のループにはまってしまったみたいだ。整理はたしかに大切だとは思う。でも、ものを片付けていったときに、もし、『全部』を捨てるようなことがあれば、片付け終わった最後に残る自分という存在は、無駄ではないのか。あらゆるものを相対していった結果、最も無駄なものがあるとするなら、人間にだって同じように無駄な人間はあるはずだ。至極に無駄な人間がいるなら、きっとそれは僕のような存在に違いない。部署のリーダーを任されている僕は、部下の顔色をうかがいながら、部下になんの指示も出せずに、忙しいことを口実に、やるべき仕事をなにもできていない。リーダーとしての責任をなにも果たせていない。そんなの会社にとって無駄な人材ではないか。そうだ。無駄なんだ。僕は役に立たないんだ。
「だから、無駄じゃないって言ってんじゃん! うちが無駄じゃないって言ったら無駄じゃないの! わかった?」
「……わかり、ました」
わかったふりをしてしまった。わかってないのに。わかってないのに、わかったふりをしてしまった。高圧的な態度に弱い僕だから、詮無いことだと思う。
「ねえ」
「なんですか?」
「幽霊って、本当にいると思う?」
「目の前にいるのですが……」
「そう。それなら、それでいいんだけどね。ごめん。言ってみたかっただけ。気にしないで」
「はい」
まぶたをきつく閉じて、しばらくして開けた。すると彼女はいなくなっていた。周囲を見てみる。灰色だった工場の床は、明るい緑色になっていた。そういえば、昨日の夕方に塗料をもらってローラーで塗ったのだった。埃や切り屑が見えやすい明色になって、前より掃除をこまめにするようになった。
これは、環境の改善かもしれない、と思った。掃除する時間の無駄かもしれないけど、床が綺麗になって仕事に対する、モチベーションは多少あがったと思う。……そんな意欲、三日で落ちると思うけど。
まだ、工場は灰色の割合が多い。現場も事務所も人が意気消沈している感じだ。みんな、溢れんばかり(あふれてるけど)の仕事量を抱えて、人によってはヒステリーをおこしたりしている。みんな責任感はあるのに、自分がどれだけの量の仕事や責任があるのか、具体的にわかっていないのだ。納期に間に合わない責任は、責任感がある人しかとらない。みんな自分がどれだけの責任を負っているのかわかっていないのだ。だから責任を分担して、指示する潤滑な存在がいないといけない。がんばる力は、エネルギーの無駄にだってなる。僕のがんばりが、無駄なように。
翌日、朝は少しだけ早く出勤した。工場に着くと、彼女が見ていてくれているような気がして、安心する。ひとりではなにもできない弱い人間だけど、今はツナギ服のあの存在がいるから、大丈夫。自然と、頬はほころび力がみなぎってくる。僕は、乱雑に置かれた机の上の整理と整頓をした。整理整頓はどこまでやるのが最適で、正解なのか、僕にはわからない。だけど、勤務時間外なら誰に怒れるわけでもない。好き勝手にやれる。
「コラ! 勤務時間外にやるな!」
怒られた。一日ぶりの再会。青いツナギ服の彼女だった。眉間にしわを寄せて怒っている顔も可愛い、とか思ってみた。
「いいじゃないですか。僕は、仕事が溜まってて環境改善をしている時間的余裕はないんですよ。やるなら、朝の今しかないんです」
「そんなのおかしいよ。整理整頓清掃は勤務時間内にやる仕事だよ。そうやって、自己犠牲精神でがんばるからしにたくなるんだよ」
「それは、的を得ているのかもしれませんが……。別にいいでしょ。やりたくてやってるんだから」
「それは違うよ。間違っている。もしくは、逃げているよ。君は、人と関わることから逃げている。協力すれば解決できることだってあるのに、人と話しをすることを億劫がって君は逃げてるの」
君と言われた。逃げていると言われた。……逃げてはいけないのだろうか。逃げないと、安心できないのに。それでも、不安でい続けろというのなら、僕は、しにたい。嫌なことから、逃げれないならしぬ。
僕は、人の目が怖い。だから、いつも休み時間はひとりでいることが多い。僕は、居心地が悪くなると、すぐにしにたくなる。だから、誰とも関わりあいたくないのだ。生きるために、逃げている。それは、いけないことだろうか。
「それは、ツマラナイよ。逃げてばかりだと、絶対に成長はできないんだからね」
逃げなければ成長ができるのだろうか。いや、本当はわかっている。僕自身が逃げたと思った時点で、それは成長ではない、ということぐらい、そんなの、わかってる。でも、逃げることが、他者の視点によって、追っているように見えることだってあるじゃないか。今の、僕のように、誰かと会話するのが怖い人間は、誰かと会話をしないように、逃げて、仕事をがんばるかもしれないじゃないか。
「がんばることが、良いことだとは限らないでしょ」
そうだ。その通り。がんばることが悪いことだってある。なら、僕は、逃げないで、人と意思の疎通をする努力をしないといけないということか。そうすれば対人関係を『前向き』になれるのだろう。なら僕は、話そう。苦手な怖い人にも、積極的に、話しかけよう。がんばらないで、話しかけよう。
ある日、就業時間の十分前。僕は、部長や専務がいるベンチに向かった。
「おはよう、ございます!」
元気よく挨拶をした。
「おう。おはよう」
専務が挨拶を返してくれたので、会話を始めることにした。口調をはきはきと堂々と胸を張る。
「僕は、無駄でしょうか?」
「……なにを言っておるのかようわからん」
「僕は、この会社にとって無駄でしょうか!?」
「……えっと、君、誰じゃったかな」
会話にならなかった。
あえなく、僕はその場から早々と退散することになった。青いツナギ服の彼女に理由を聞いてみる。
「君はコミニケーション力、零か!」
叱責されてしまうことになった。
「出会い頭に『僕は、無駄でしょうか』って! 君は馬鹿なの!? しぬの!?」
「どうしても質問したかったことなので……、僕はもうしんでるようなもんですよ。生きてる気がしない」
「もっとくだらないことでいいんだよ。今日はいい天気ですねーとか。最近のニュースの話しとか、色々あるでしょ?」
「でも、どうしても聞きたかったんです。僕は、この会社に必要とされてないんじゃないかって……」
「まあまあ。まずはうちの話しを聞こうよ。相手の話しに興味をもって聞くのは対人関係において、大切なことだよ。そうでなくちゃ会話が、ツマラナくなるでしょ?」
「言っていることは、なんとなくは、わかりますが、そういうの……苦手なんですよね」
「一緒に、克服しよ」
溌剌とした明るい笑顔で彼女は言った。その容姿、声質、どれをとっても、僕の思い出せる文章描写では形容できないほどに美麗だと思った。別に、幽霊に、なにを思ってもしかたないのかもれないけど……。それでも、僕に活力を与えてくれる存在であることには違いないのだ。
……なんだか、恋してるみたいになってるなあ。
「え。今、なんか言った? 独り言多くない?」
「うん。多いよ? それが?」
この疑問形を疑問形で返すテク。さすが対人コミュニケーション能力、零なだけはある。……自分のことなんだけど、悲しくなってきた。きっと僕は、このまま、誰にも興味を持たないで、誰にも興味を持たれないで、終わってしまうのだろう。興味があるのは自分の評価ばかりで、周りの人が自分のことをどう思っているかしか、興味がなくて、相手が自分に対して不快な顔をするのが怖くて怖くて、一歩踏み出して打ち解けることすらできなくて、でも本当は、みんなと打ち解けたくて、それができなくて……。
ああ、さみしくて、消えそうだ。誰かに、必要とされない自分が、さみしい。頭が、思考が、フリーズして、この時、僕は生きていない実感を味わった。そうか。考えるって楽しいことなのだ。それができなくなった今。僕は、ツマラナイ人間になってしまっていた。
機械横の机で僕は、文字通り頭を抱えた。ムンクの叫びのように耳を塞いだ。周囲の声がほとんど聞こえなくなって、安心した。そうやって、僕は嫌なことから逃げている。自覚はしていた。不安なんだ。不安でい続けることができないんだ。だから、逃げるしかなくなる。そうでもしないと、しんでしまうのだ。
「ぅ……」
「」
耳から声を遮断した。今だけ逃げさせてほしい。対人関係の苦痛から、逃げて、逃げて、逃げまくりたい。そんな気持ちだった。視界も閉じているため、景色は黒一色だった。そこでは、あの青色は微塵も感じることができない。希望を持たされると、反動が怖い。だから、僕は視界を黒で満たして、希望も絶望もない場所にいる錯覚にさせて心を平常化させていた。
「」
なにも聞こえない。それは楽だ。気を使わないでいられる。誰かの気配がすると、自分がどう思われているか心配になって、目に緊張がはしる。その状態が続くと眼球付近の筋肉が痙攣を起こしたように勝手に震えてしまう。それぐらいに、人というものが怖い。いや、怖い人が苦手なのだ。怖い人の側にいると、自分が卑下されているのではないか、見下されているのではないかと、不安でいっぱいになる。それは、とても怖しいことだ。もう少しで、休み時間が終わる。目を開けたくない。このまま視覚と聴覚を遮ったままでいたい。暗闇は落ち着く。外は怖い。
世界は——怖い。
「怖すぎんだよ。もう」
突然、腕の皮膚から、暖かい感触がした。それは、優しく、撫でるように滑り、消えていった。それがなんだか気になり、僕はゆっくりと目を開けた。黒から、青に変わる。それと同時に、耳を塞いでいた手は離れていく。僕は、困惑していた。
「心配になって触ってみたの。大丈夫? 目が泳いでるよ?」
「……お、おう」
焦点がうまく合わない。眼球が左右に震とうしている。視界は青い。それは彼女の作業着だとわかった。やわらかい笑みで僕を見つめているようだ。それだけで、僕は安心した。不安から逃げることが難しい殺伐とした職場で、安らぎを感じた。心臓の鼓動が速くなり、ポンプが全身に、力を与えているかのようだ。胸が熱くなるのと同時に、沈んだ目が潤い、視界が少し透明になった。
おかしいと思った。なぜ、彼女に恋してるみたいになっているのだろう。それはありえない。二度と恋なんてしないと心に決めているのだ。恋なんて、どうせ長続きしないんだから。希望を持たされて、あとで落ち込むよりも、最初から諦めたほうがいい。
僕はあとのことを考えてプラスマイナス零の方を選ぶ人間だ。最初と相対してマイナスになるよりかは、まだ零の方がいい。
幽霊に恋に落ちて、後で落ち込むなら、きっと僕は酷く悲しむに違いない。その時、きっと僕はしねる。
この世の生に失望して零に希望をもつことだろう。しぬことに逃げ道を探すだろう。
それは虚しいことだ。
「ごめんなさい」
そう言葉を切り出したのは。彼女だった。髪に隠れてよく見えないが、少し伏目がちだ。
「この前、うちね。嘘をついてしまったの」
嘘とはなんだろう。真面目で清廉潔白そうな彼女が、嘘をつくだなんて、想像できない。
「……なんですか? もったいぶって」
「やっぱりいいや。なんでもない。よーし。これから、会社の環境を変えていくために頑張ろー!」
「お、おう……」
反射的に返事をしたら、なんだか、掛け声みたいになった。本来なら「オー!」って握りこぶしを上げるのだろう。そんなどうでもいいことを考えながら、もう一度。
「で、なんですか? もったいぶって」
執拗になってみた。彼女は、少し困ったように口を歪ませて、こう言った。
「本当のことを言うと、傷ついてしまうから言えなかったんだ。あのね、君はもう、しんでいるんだよ。顔を見てみて」
「……はい?」
手洗い場の鏡を見てみた。そこには、青白いしんだような顔が写り込んでいた。まるで生きていない。それなら、青いツナギ服の彼女は……。
「うちは幽霊じゃないよ。あのね。勘違いしていたんだよ。自殺をしたのは君だ。君は、うちに取り憑いた幽霊なんだよ」
環境を変えるのは彼女の願いだった。だから僕は、名前も知らない彼女の願いを叶えるために、現世に戻ってきたのだろう。鈍感な僕は自分がしんだことすら気づかないまま、この灰色の工場で働いている振りをしていたということだろう。それで、納得がいった。この結末は僕が望んでいたことなのだ。しんだ僕は、これから、この灰色の工場を、どこまでも澄んだ色に変える為に、全力を尽くすことにするよ。
「無理だけはしないでね。でも、もし本気でがんばりたいって気持ちになったら応援してるよ」
「おう。がんばる」
もうこの世に恐れることはないと思った。消えることだって恐ろしくない。だって僕が最期を迎えた時、それは彼女の願いが叶う時なんだから。
***
あれから一年が過ぎた。
工場で、あの清々しいほどに澄んだ青に会えた僕は幸せに昇天した。そう思った時、彼女は言った。
「幽霊だと思ってたの? 超ウケる。あんなの全部嘘に決まってんじゃん」
そこでいっせいに笑い声が響き渡る。現場で働くおじさん達と社長と専務と部長と工場長と各部署のリーダーが休み時間にあのベンチに集まり、輪をつくっている。
和やかな輪の中心にいるのが、僕だった。
あれから僕は彼女の驚く表情を見たくて、工場内の工作機械を念入りに磨いた。床に油や切り屑が全く落ちてないほどに、清掃した。ときには、油や切り屑が床に落ちない改善案を彼女に質問したりした。すると、間髪入れずに、改善案を教えてくれた。機械が故障してもすぐに上司に報告し、率先して発生原因を究明するようになった。食堂の壊れた時計を外そうと背伸びをしたときのこと。大丈夫? とれる? と声がした。振り返ると、そこには爛々と輝く青い彼女がいた。このとき、僕はひとりではなかった。
無為に思えていた日々が色づきだしている。灰色から彼女の色になり、僕の世界も変わった。
ほどよく吹く風が肌にあたり心地よい。見上げると、明るい未来を予知しているかのような青天が広がっていた。
隣にいるツナギ作業着の方にお礼を言った。
ありがとう。会えてよかった。このときの僕の顔は蒼白ではなく、少し赤味をおびている。この感覚は霊ではなく零でもない。つまり、なんだか、恋してるみたいになっているということだ。