4.
そうして応接間に通された。
「主人を呼んで参ります」
と、僕らを案内した家令が言う。彼を見るたびに、時代錯誤も甚だしいと思う。この時代に、時代という言葉すら聞かなくなって、定義すらできなくなったこの世界で、雇用主や被雇用者という言葉すら曖昧になったこの世界で、人々が自らを主人として生きているこの世界で、これほど似つかわしくない言葉もない。
家令が去って、部屋を見渡せば、この屋敷だけは、けれど文明の崩壊などと言う馬鹿げた事象から、一番遠い所にあるように思えた。
品の良い調度がほどよく在り、点けられた明かりが部屋を四隅まで照らし、壊れていない家具が何もなかったかのように備えてある。僕らの寓居とは、けれど天と地ほどの差だ。
座る椅子の前に置かれた低いアンティークの机には、コーヒー、茶菓子、先輩の目の前には灰皿とマッチ、タバコすら置いてある始末だ。
家令、主人、調度、照明……。この屋敷の一歩外が、悉く滅んでいるなどと、一体誰が信じるだろう。僕はこの場所が苦手だ。
「相変わらずですね」という僕のセリフを、「趣味の悪さも」と、先輩は笑った。
先輩は用意されたタバコを手に取る。パッケージには、煙に巻かれた踊り子が描かれている。
先輩が青い色のパッケージに入れられたタバコの一服を終えて、青い灰皿に吸殻を押し付けようかというころに、扉が開いた。
「や、ようこそ」
10日ぶりかな『後輩くん』と、『猫屋敷の主人』は言った。けれど僕の記憶が正しいならば、最後にここを訪れたのは1ヶ月は前だ。
「うんうん。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。君が来たのは3日前かもしれないし、30年前かもしれない。世界は滅んだかもしれないが、しかし、滅んでいないかもしれない。
ま、ことこの家の中に限れば、そんな些事はどうだって良いのさ。大事なのは何時だって今。『後輩くん』のセリフを借りれば、『過去は今に補足され、未来は今に捕捉されている。即ち、今こそは過去未来の総算だ』だったっけ。
あぁいや、これは君のセリフだったかなぁ、『紫煙』。
--じゃあまぁ、間をとって1年ぶりって事にしとこうかなぁ、ま、とにかく久しぶり『紫煙』。ついでに被保護者兼ペットの『後輩くん』。お元気そうで何よりだよ。
先ほどのセリフを潔いまでに翻し、『猫屋敷の主人』は薄く笑って言った。設えの良い服に、半ば眩暈すら覚える。
周りを煙、いや濃霧に巻くような人間である。僕はこの場所が苦手だ。それはこの屋敷が馬鹿げている事もそうだが、何よりこの人の言動が、何も見ていないような気がしてならないから。
「あいつこそは、『在りて在らぬ者』だ」と、この世界に僅かしかいなくなってしまった友人の一人が、そう評したのを思い出す。
世間一般の狂言回しのあらゆる先例を無視し、一切の役目を放棄して僕は先輩の横に座って居る。とりあえず、自分はともかく、先輩の名誉のために言っておくならば、前述の『過去は〜〜』云々という刹那的すぎるセリフを、僕ら両名は一度たりとも口にした事はない。
「難儀ね『猫屋敷』」
と、座ったままの先輩は言った。彼女は屋敷の主人のことを常にこう呼ぶ。
「こちらの要件は伝わっていて?」
いつの間にか、先輩は新しいタバコを咥えていた。ふっ、と、字の如く紫煙が燻る。
「あぁ、『アレクサンドロス』から聞いたけどね、忘れちゃったよ。世界がこんなになってしまったからね。どうやら僕はチャンドラー艦長にはなれなさそうだ」
「あなたにはネモ船長がお似合いね」
「そこはナイルアラホテプと呼んでほしいなぁ」
「まぁ、フリードリヒ先生はお元気?」
馬鹿め。奴はもう死んだ。くはは、と、猫屋敷の主人は笑う。全くノリの良い人らしい。
「私が邪なる神だとして、君は何を望む」
「可能性の等価交換を」
ふむ、と『主人』は言う。僕たちが持ってきた大きな鞄を透視でもするかのように見据えて、考えているようだった。
「外なる神に等価交換とは。草葉の陰で御大も泣いてるな。まぁ良い、ここはインスマスじゃないし、俺も白痴の神じゃない。スズキィ。居るかぁ?」
「斎藤ならばこちらに」
主人が声をかければ、すっと、何もない空間から人が現れたような気がしたが、けれど主人の後ろに家令が控えていただけの事であった。彼は確かに控えていた。それだけの事なのに、呼ばれるその瞬間まで認識できないとは恐れ入る。それも家令の嗜み、と言い切ってしまわんばかりの従者ぶりであるが、この家に一人しかいない家令の彼は、主人に名前すら覚えられていない。
「ん、サイトーか。まぁいい。『後輩くん』に夕食を。アレクサンドロスがそろそろ煩いだろう。
俺たちにも軽食と、そうさな、20年前だかのワインがあったろう。アテも忘れるなよ」
「かしこまりました」
「先輩……」
「心配するなよ、二人きりだからと言って、君のご主人を取って食ったりしないよ。なに、確かに私は猫屋敷の主人だが、けれどネコでもタチでもない。でも『後輩くん』、例えば君なら私と一晩どうだい?」
酷い下ネタだった。崩壊する前を含めても、五指に入ろうかという下世話な台詞を口にして、『彼女』はニヤニヤと笑って居る。よしんば世界が滅んでも、彼女に身を預けようとは思わない。
「猫屋敷」
立ち上がろうとした僕の裾を掴んで、先輩が言う。それだけで背筋がぞくりと粟立った。
「これは私のよ」
「は、駄言さ。そんなに睨まないでくれ、七代祟るのは僕の領分だ、逆は御免被る。わかったわかった。いい加減、始めようか、等価交換をさぁ」
家令にどうぞ、と促され、僕は部屋を後にした。結局、二人の話が終わったのは、僕らがデサートを食べ始めた頃だった。




