3.
目覚めると、世界が滅んでいた。滅んだままだった、と、言い換えてもいいだろう。
結局昨日、先輩と仲良くしてしまい、そのまま朝を迎えて眠った事を、微睡みから覚めたばかりの冴えない頭で思い出した。懐かしい夢を見たような気もするが、何も思い出せなかった。
ベッドには先輩の匂いがまだ残っていたが、肝心の先輩は既に居なかった。朝に弱い僕を気遣ってくれたのだろう。
体内時計によると、昼を過ぎているが、僕がこんな時間までこの部屋で眠って入られた事を鑑みると、ビルの権利者がこの建物の権利を主張しに来てはいないようだ。この建物のかつての利用者や、ここで働いていた頭脳労働者も大挙していないらしい。世界は相変わらず死んだままだ。
少しの間、先輩の匂いがするベッドの中で蠢いて、その後適当に朝の準備(もう昼だが)をしてベッドルームを出る。適当に同じフロアを探すと、食堂にブランチらしきものを見つけた。先輩が用意してくれたようだ。
惰性に任せてそれを咀嚼し終え、先輩を探しに行こうかと言うところでドアが開く。
「おはよう、よく眠れた?」
「おはようございます。何だか懐かしい夢を見ましたよ。内容は覚えてませんけど」
覚えてないのに良くそんな感想が出るわ。と、先輩が茶化す。
僕の正面に座った先輩の咥えたタバコから、パチパチと音がした。あれはたしかそう、国外のタバコ、それも特別タール数の高い物だ。香のような紫煙が遊ぶように僕らの周りを泳ぐ。
「そうですね。内容は覚えていない。けれど、そういう概念の何かを夢見たことだけは覚えている。僕は、『懐かしさ』という概念だけを夢見たのかもしれません。最近、思うんですよ。僕は、いや、僕だけじゃない。人類は、映像と、概念で夢を見ているんじゃないかって。例えば、全然知らない人間が夢のなかに出てきても、僕らはとっさに違和感を覚えられない。それはもしかすると、夢見る映像に『隣人』や『知人』の概念が重なっているからなんじゃないかって」
なんて、うまく言えませんけど、と僕が言うと、先輩は少し考えてから、私は石油王の四女にはなれそうに無いわね。と言った。
「そういう意味では、あらゆる人が哲学者で、神学者で、ついでに倫理学者とも言えますかね」
あらゆる隆盛を極めた学派も、世界に遍く広がっていた宗教も、この世界では用無しで、ついでに言うと型なしである。
私ならいの一番に終末論を廃止するわね、と先輩が駄言を駆る。
「僕が貴方の父親ならば今すぐにでも油を注ぎますけど」
「いやよ、ぎとぎとしそうだし」
油を注がれ、いやに艶めかしい先輩を夢想して、僕は頭を振った。彼女の父にして、マグダラのマリアになる事に、やぶさかで無いと愚考した僕の事を、誰が咎められよう。
「エッチ」
そこで心を読むのは反則です。誘導尋問です。と、彼女に返事をする。ふふ、と彼女は目を細めて、本題をようやく切り出した。
「今日は、ガラクタを漁るわ。『猫屋敷』に行きましょう。私の生命線が途切れる前に」
先輩は緑色の煙草の缶を両手で弄びながらそういった。加えた彼女の煙草から、薄紫の煙がゆらめく。それはとてつもなく甘い。甘ったるいと形容してもまだ足りない。何かの媒体に『吐き気を催す甘さ』と記されていたその煙草は、先輩がいつも最後までとっておく数少ないお気に入りの一つだ。昨日のように表情にこそ出さないものの、きっと限界が近づいているのだろう。
昼過ぎ、僕と先輩は『猫屋敷』の前にいた。
勿論、ここに着くまでの数時間の道程には困難や問題が山積していたのだが、面倒な狂言回したる僕は、その全てを描写しようとは思わない。
面倒だから、という理由もあるが、その殆どが、『aという問題が発生、先輩が解決した』という表現で済んでしまうからだ。狂言回しとしては、読者のゲシュタルトに致命傷を負わせるのは、望むところでは無いし、自らの表現力の低さが露呈してしまうのを望むわけも無い。
収穫は割れた記憶媒体や、ドロドロに溶けた電子機器の部品。ガラクタ(先輩は旧世界の色々を、一部の例外を除いてそう呼ぶ)を漁り、何度来ても覚える事のできない道とも思えぬ道を幾条超え、しかし先輩のおかげで僕たちは猫屋敷に着いた。実際、この程度の描写で十分なのだ。
「あらあら、誰かと思えば『紫煙』じゃない。主人に会いに来たのかしら?相変わらずひどい匂いよ。クフフ」
「アレクサンドロス、ご主人は息災ですか?」
猫屋敷というのは、僕たちが拠点としているビルからそれ程離れていない所に存在する、小さな一軒家の事だ。
そこには、主人と家令と、一匹の猫が住んでいる。
僕が言うのも何だが、そこはとても屋敷と呼ぶには相応しくない大きさの家だし、猫屋敷と呼ぶにも猫の絶対数が足りない。建物の名前と、中身の説明を最初に先輩から受けた時、どう考えても名前負けしているでしょう、とツッコミを入れたのは、記憶に新しい。
「っと、あらやだ、そうよね『紫煙』が居るなら後輩くんも居るのよね!私ったらこんな格好で恥ずかしいわ。言ってくれたら少しは用意もできるのに。ま、情報端末が悉く私のおもちゃに成り下がった今となってはそれも土台無理な話よね。いちいち狼煙を上げてなんて原始的な方法ナンセンスだわ。いえ、赤毛の少女に習ってろうそくの明かりで、なんてのが、ロマンチックでベターかしらね。でもそれもこの家じゃ難しいのかしら。それよりアレクサンドロスだなんて、他人行儀よ。後輩くんと私の仲じゃない。アレクで良いって毎回言ってるのに律儀な人。そんな所も素敵だけど、もっとフランクに話してちょうだい。あ、そうそう。主人の話よね。アレは誰がなんと言おうと元気よ。お互いの主人とも、殺して死ぬような性質のものじゃ無いでしょ?あ、サイトーの事だから、そろそろ感づいてこちらに来るでしょう。そのとき主人に紫煙が来たと伝えるように、言い含めるわ。それよりこの後暇なの?良かったらディナーでもどう?(サイトー)に言って作らせるわ。どうせアレと紫煙は話が長くなるに決まってるのよ。この前も延々とあーでもないこーでもないって……」
「あ、あはは……元気そうで何よりだよアレク」
猫が喋っていた。
矢継ぎ早に、猫撫で声で、僕がアレクと呼んだ『猫』が『喋っていた』。
これまでの長文を真面目に読んだ危篤な人で疑問を抱いた方は居ただろうか。家令ひとりに主人ひとり、では、それ以外の人であるアレクとは一体何者だろう、と。
なんの事は無い。彼女は猫屋敷にたった一匹住む猫である。
数年前、一番最初にここに来た時の驚きが思い出される。やはり、と言うかなんというか。世界が滅んだとは言っても、当時の僕はまだまだ滅んだ世界の常識という、崩れ去ってしまった枷に縛られていたのだろうと思う。世界が滅んだ。こうなってしまった以上、けれどかつての世界の常識など、ハイパーインフレを起こした国の紙幣ほどしか価値が無い。すなわち、燃やして嘗ての栄華に思いを巡らせる程度のものである。
世界が滅んだのだ。猫が喋る事くらい、何の不思議が有るというのだろう。
彼女は不思議の国の猫のように、にんまり笑った。




