2.
今から七年前の春。世界は崩壊の真只中だった。
始まりは、魔法や異能と形容せざるを得ない新概念の出現だった。次いで、魔物や怪物と形容せざるを得ない危うい生命体かも分からない存在の出現。概念に目覚めた個人の力の肥大と、怪物達の出現による治安の悪化。
致命的だったのは、新概念と科学の相性の悪さだった。魔法や異能が世間に認知されゆくに比例して、科学はその体裁を保てなくなった。
かの古典三法則や、相対二法則、果ては超弦、空間熱量平衡。多くの科学者が魔法や異能と呼ばれたそれらを、科学という整合性で包みこもうと躍起になって、結局誰一人として成功しなかった。或るものは時間が足りないと口にしたが、けれど時間があれば、不定形のそれらが科学という、もとより不確かな枠に収まるとは思えなかった。しかし、変化が急激すぎるのもまた事実であった。
やがて世界はファンタジーになった。
怪物や、軍の活躍や、原因不明の新病の蔓延を伝えていたマスコミは、僅かな間で沈黙せざるを得なかった。彼らは数字を、ショッキングな絵を、彼らの真実とやらを追いすぎた。兵隊に例えるのであれば、先遣隊が死にすぎたのだ。
防衛装置は、自らを全うできなかった。突如として現れた異能者や怪物たちは、一週間の間に神出鬼没し、あらゆる街のあらゆる場所を、有り体に言って地獄と化した。彼らは、指をくわえてそれを見ているか、『偶然通りかかって攻撃された』という大義名分の下に、少なからず国民を守って、けれど自らは怪物や、怪物に成り果てた人との戦いにすり潰されていった。
政治は政を治めるに足らず、国家は諸人の家となりえず、政治家は数は減ったが、逆に質はやや好転した。しかし全ては遅すぎた。
人々は、不透明なリスクを伴ったままに異能や魔法と彼らが呼ぶ新しい力を行使し、望む望まざるに関わらず、自他を傷付け、基本的に悲劇な結末を迎える事になった。弱くなくなった人々は群れる必要をなくし、知恵を持つ必要をなくし、人である必要すら無くしてしまった。
英雄は不在だった。
かつて世間にはやった創作物との間にあった決定的かつ致命的な差異。誰もが英雄の登場を待ち、あるいは自ら英雄たらんとして、けれど誰もそれを成し得なかった。
そして僕らの世界は滅んだ。
何処かに国家が残存しているのかも知れないが、少なくとも、この国の首都と呼ばれた事もあるこの都市は、僕が見る限り、完膚なきまで滅んでいるようだった。
崩壊にファンタジーとルビが振られる。なかなかどうして、ハイファンタジーに怒られそうな記述であるが、面倒くさがりな狂言回したる僕は、滅んだ文明の色々に配慮したりはしない。
さて、世界が終焉を迎えるに当たって、先輩がまず行った事。それは、全財産(この場合の全財産とは、僕の全財産も含まれる)を、煙草に変える事だった。
「タバコを買いに行くわ。世界が滅ぶから」
忘れもしない。それは僕がこの街で龍を見る一週間ほど前のことで、世界に著しい綻びが現れる数日前のことだった。
◆
何時ものように遠慮も恥じらいも無く部屋に上がり込んできた先輩は、いつもとは違う切迫した表情で、銀行に行く、と言った。
今ならまだ機能しているでしょう、と独り言を言う先輩の顔には、いつに無く焦燥が浮かんでいた。
「コンビニで事足りないんですか」
「それだと目立つわ。引き出せるだけ、いえ、口座にある全てを引き出しなさい」
「先輩?」
何が彼女をそんなに焦らせているのか、僕には分からなかった。引き出せるだけ、など、まるで銀行の経営破綻を事前に察知した様な物言いである。
ともすれば、久しく起こっていなかった金融危機でも起こると言うのだろうか。
僕は、自動運転の設定を終えて、自動車の向かいの席に座っている先輩に視線を向けた。
「貴方が聞きたい事に答えるわ。金融危機は起きない。そのかわり、世界が滅ぶわ。10日も持たないでしょう。次、これから買いに行く物はいろいろ、けれどまずはタバコよ」
なんとも要領を得た回答は、まさに先輩らしい。というか、世界が滅ぶのか。またぞろ先輩が僕を弄んでいるのかも知れない。
「情報端末は……、持っていないのだったわね。しょうがない。好きな数を一つだけ選びなさい。何桁でも良い」
「何桁でも?」
「ええ」
言われて、僕は数字を思い浮かべる。
「『1』。ふふ、何桁でも、と聞いておいてよくもそんな選択を行えるわ」
「次」
僕は数字を思い浮かべる。
「『タクシーナンバー』」
「ねぇ、先輩、少しおかしいですよ」
「いいから」
僕は数字を思い浮かべる。
「『全てのものが触れうる楕円体』」
「先輩」
「次」
僕は数字をーー、
「『生命、宇宙、万物に対する究極の疑問の答え』」
「先輩、まさか」
「『数学者たちの数字』」
「先輩」
「次」
僕はーー。
「『一から無限までの総和』」
「先輩!」
「サザンカ。もう一度言うわ。世界が滅ぶ」
全く、今更なんだけどね。と、先輩は言う。息を呑んだ。
「私は、私は午後の恐竜になった」
戦慄した。《午後の恐竜》にどんな隠喩があるかは、この際あえて語るまいが、要は世界が滅ぶ。そして、彼女はその先ぶれとなった。そう言っているのだ。
先輩の声は震えていた。鈍色のライターを右手で握る先輩は、いつも通りタバコを咥えていた。桜のパッケージのタバコは、幾年も前の震災の折に途絶えたタバコだった。置かれた右手に、自らの右手を重ねた僕を、誰が咎められよう。
「御大も、まさかボッコちゃんのような、午後の恐竜が居るとは思わないでしょう」
「馬鹿ね」
そうして僕と先輩の講座を管理する最寄りの銀行についた。世界が滅ぶという彼女の言葉に反して、銀行はいつも通りの奇妙な静けさと忙しなさの最中にあった。僕は出せるだけの金額を引き出して、その全てを財布と、鞄に無理矢理押し込んだ。明細に表記された残高には5円すら残っては居なかった。口座を作った時未満の額面だ。
窓口担当は怪訝そうに僕を見ていた。彼からすれば、僕は他行に流れる客か、もっと得体の知れない何かに見えたかも知れない。
「窓口の人に訝しい目で見られました」
車に乗り込んだ僕は、先に戻っていた先輩にそう言った。エンジンを点けた先輩は自動運転のコンソールを操作しながら、一日に数度そういう事が起これば、不審な目にもなるわ。と少し笑って言った。
数度と言ったって、僕と先輩だけでしょう。それほど不審ですかね。
「駆け落ちでもするのかと思ったんでしょ」
僕と先輩の逃避行を想像して、赤面する。先輩が行き先操作のために下を向いていてよかった。
「馬鹿ね。貴方の表情なんて、見えなくても、この力が無くたって分かる」
「ぐぬぬ」
「冗談、他の午後の恐竜が、既に来たんでしょう。それも、たくさん」
と、タバコを咥えながら、自動運転の基本速度設定を弄って先輩は言った。
「そんなに多いんですか、彼らは」
「少なくはない。それだけは間違いない。フェルミ推定は貴方の範囲でしょう」
言われて考える。
銀行から、全額近く引き落とす人が何人以上ならば、係りの者は異常だと認識するだろうか。あるいは全店で何人くらいそのような人達があれば、係に通達があるだろうか。
あの銀行の顧客の数は何人程だろう。電子取引を利用する者もあるだろう。むろん、その全てが午後の恐竜である筈も無い。僕のような、『午後の恐竜達』に影響を受けた者も、確実に存在するだろうから、その人数分、下方修正を施すことも考えなければならない。
だとすれば、だとすれば、それはーー。
多い。多すぎる。
「そんなに!?」
「だから滅ぶの。ま、あの係員はそうではなかったけど」
「そんな」
僕の右手は、けれどいつの間にか先輩の右手に包まれていた。
「燻木のタバコ屋に行こう。あそこを知ってる『午後の恐竜達』は少ないはずよ」
と、先輩は馴染みのタバコ屋の名前を挙げた。
路地裏にある小さなタバコ屋と、それに付随するかのような小さな体躯の、しかし年老いてなお美しい店主が脳裏に浮かぶ。僕は先輩に連れられて数度行った事がある程度だが、成る程彼女が若く、先輩がいなければ僕は喫煙者になっていたかもしれない、と思う程度に彼女は美しい人だ。
とはいえ先輩とでもないとあそこを訪れる機会すらなかったろうが。店主は全く元気にしているだろうか。
「あの人に会うのも、今日が最後になるかも知れないわ。いえ、あの人だけじゃない。御両親にも、貴方の可愛らしい妹さんにも、ともすれば会えないでしょう」
覚悟しなさい。恐らく今なら端末回線も通じている。連絡は早めにしなさいね、と、先輩は言った。
「あの人たちに、未練はありません。特に妹には」
それは本心だった。僕より数段出来た妹にも、妹ばかりを溺愛して、僕を放棄してきた両親にも、特筆すべき感情を、僕は持ち合わせていなかった。
相変わらず家族のこととなると、貴方らしくない難儀さね。未練の有無を認識できるのは、幸福なことに違いないのに、と、先輩は言った。僕は彼女の家庭環境を何も知らない。そして、世界が滅ぶ際に立っても、彼女はそれを話そうとしなかったし、僕もそれを聞こうとはしなかった。それは逃げかもしれない。けれど恐らくはそれでいいのだと思った。
やがて車は裏路地の手前に止まり、僕たちは車を降りた。昼間だというのに、路地は薄暗い。僕と先輩、ついでに世界のこれからを暗示しているようだ、などと狂言を回していると、馬鹿、と先輩から小突かれた。
行こう。喇叭は待ってくれない、と言って、そのまま先輩は、カツカツと薄暗い路地裏に歩を進めた。彼女の烏の濡れ羽の御髪が、薄暗がりに溶けていく。
燻木のタバコ屋は、いつも通り暗闇の先にあった。表通りの店々のちょうど裏側、余った猫の額ほどの土地に取って付けたかのように在るその店は、そこだけ妙に明るい。
『非電子タバコの販売を許可する』という内容の証書が額に入れられ店先に置かれている。煙草を販売するのに国の審査がいるようになったのはいつの頃からか。
『許可書』を取るための教材には年表がまとめられていた筈。ただし、僕がそれに触れていたのは一年も前の事。ひっかけ問題に苦労したことばかりは記憶にあるが、今ではそのひっかけの内容すら覚えてはいない。
老齢の店主も、そこに在った。
「あら、いらっしゃい」と僕らを迎えた彼女は、けれど数週間前に見た時と少しばかり様子が違っている。
「お久しぶりです。燻木のおばさま」
と、挨拶する先輩を遠い目で見て、「貴女もそうなのでしょう」と、老婆は確認するように先輩に訊いた。
「……えぇ。私も、煙草を買いに来ただけですわ、おばさま」
「そう、そうね」とだけ言って老婆は少しばかり目を瞑った。
「……徒らに歳を重ねる事は、哀しい事だ、と言った友人がいたのを思い出したのよ。けれど、けれど長生きはするものよ。こうして貴女のような人に気にかけてもらえる。老人にこれ以上の幸せはないわ」
今度は先輩が顔を伏せる番だった。
「長話は年寄りの特権だと思って赦してちょうだい。ほんの、ほんの少しだけだから」
言って、老婆は狭い店の奥のカウンターから鍵を一つ取り出すと、細い目でそれを眺めた。
「どうでしたか」と、先輩は聞く。先輩は、その鍵が何かを知っているようだった。老婆は微笑して答える。
「えぇ、えぇ。それはそれは長かったわ。夫を戦争に取られて、友人達に助けられて、時には斡旋屋の真似事もして、みんな、居なくなって、私だけが残って。半世紀。でも、この鍵を初めて使ったのは昨日の事のよう」
「おばさま……」
「いいのよ。ずっとこうなれば良いってね、思ってたのよ。後輩くんの持って来た鞄は、あなた達のために使いなさい。私には六文銭だけあれば十分よ」
言って、彼女は美しく微笑んで、先輩に鍵を手渡した。
僕がパチリと瞬くと、路地裏は闇で満ちていた。猫の額ほどの土地に押し込められた煙草屋は硝子戸がしめられ、『長らくのご愛顧、ありがとうございました』と、丁寧な文字で書かれた張り紙だけがあった。




