1.
午後3時、世界は滅んでいた。
高層ビルが林立したのは、すでに過去の出来事だ。それらは今、根こそぎ倒れ、木っ端微塵に砕け、あるいは奇妙なほど、綺麗な断面で切断されていた。
見下ろせば、かつての舗装された道は影も無く、人の腰ほどもある雑灌が、水面のように広がるだけだ。
生い茂る草樹のその中に、浮島のようにまだらとあるのは、かつて人間が車と呼んでいたものの残骸に違いない。
街路樹が根を広げ、車道を割ったのか。鳥や獣が種を運んだのか。ともすれば、誰かの異能が鼻歌交じりに現実を歪めたのかもしれない。
過去の殆どが廃墟となり、辛うじて崩れずに残ったビルから見渡せば、冗談のように赤色の塔だけが視界の奥にそびえている。
「はぁ、まったく。『the day after tomorrow』って感じですかね」
滅びの年を無事に乗り越え、油断していた二千年王国は、その21年後の春に滅んだ。そしてそれから7年が経った。
「しかしさっぱり滅びましたね。もっと真綿で首を絞めるようなのを想像してました。こう、食料生産が追いつかない、とか、太陽活動の変化で陸地がジリジリと削られてとか、新種のウィルスが世界を侵すとか。もっとありきたりな感じか思ってました」
「実際、世界は滅んだわ。それも劇的に。目の前の現実から目を背けるのは夢想家や革命家に任せなさい」
と先輩が答えた。
滅んだ理由は著しく簡単だった。
異能と怪物。僕たちがそう呼ぶ力と存在達は、さも容易に世界を滅ぼした。
ただし何事も経緯を語れば長くなる。多くを語るのが面倒な僕は、それを次の機会の僕に譲ろうと思う。
つまり7年前にあっけなく世界は滅んだ。文明は残滓を遺すだけで手一杯だった。巨体を誇った人間社会は微細に分離し、滅びを辛うじて生き延びた無数の少数が、身を寄せ合うように短期的なスパンを生きていた。
取り急ぎ、それが分かってさえ入れば、物語の把握はできるはずだ。
これはファンタジーに染まった世界での僕と先輩の物語である。
「幼年期が終わったのね」
と、先輩が呟く。オーバーロードですかと聞くと、
「それでもライオネルよりましだわ」
先輩は、金色の鳩が刷られた缶から、タバコを取り出してそう言った。
彼女の煙草はいわゆる「缶タバコ」。崩壊前の世界ですら絶滅危惧種だったそれは、缶に収められた両切りタバコだ。普通のタバコよりもニコチン、タールの量が格段に多く、かつノンフィルター。僕が吸ったら、一本、いや一服で吐き気を催すシロモノだ。
こんな状況で吸う事こそが、完成された一つの冗句であるかのような銘柄のタバコを、先輩は愛飲している。青地に飛ぶ金色の鳩が、戦争のなくなった世界を笑っている。
「でもま、お陰様で地球は全席喫煙席、禁煙法は全廃止。オーバーロードになった甲斐もあるというものね」
しゅ、と淀みない動作で燐寸を点けて、タバコを燻らすと、先輩はタバコの先の火を大事そうに、ゆっくりと煙を吸い込んだ。
ゆっくり肺の中に煙を入れる、その特徴的な喫煙法は、クールスモーキングと云うそうだ。僕もよくは知らないが、特殊な吸い方で、いくぶん香りが増すらしい。愛煙家という言葉の権化のような先輩は、タバコに非常なこだわりを持っていてる。かつては肩身が狭かったが、今では世界が滅んだおかげで路上喫煙、室内喫煙も思うがままだ。
元々とある大企業が陣取っていたこのビルは、けれど無人の廃墟と化していたのを良いことに、先輩(と居候の僕)が不法占有していた。いや、あらゆる法が個人の力に任されたこの世界では、占有はすなわち所有に他ならない。
僕たち二人が今居る一室は、役員用の個室だったようだ。外側がガラス張りになっていて、ビルが生い茂っていた過去はどうだかわからないが、前方のビルが無くなった現在はーー、とても見晴らしが良い。
7年前、世界中は喫煙席になった。全世界喫煙席化、に「世界の終わり」とルビを振る。中々どうして世界の終わりと喫煙者に対しての皮肉が効いている。
かつては、健康増進法、および副流煙制限法によって認可された喫煙者と喫煙許可所が揃わなければ喫煙具から取り出すことすら出来なかった紙巻きタバコも、今は一切の枷を外されて先輩の手の中にある。
「ふふ、そう?」
と言って、先輩は視線を外からこちらに向ける。烏の濡れ羽色の黒髪が揺れる。美人の先輩の笑みは、けれど玩具を見つけた子供のようだ。
「ええ、誓って」
「ーー『喫煙所』に来る度、茶化されずに済むようになって安心してるくせに。
非喫煙者が|喫煙所に付いてくる事ほど、露骨なことなんて無いものね?」
「……」
世界が崩壊する前の他愛ないエピソードの一つだ。何があったかは皆の想像に任せたい。決して恥ずかしいから描写したく無いわけでは無い。そして、叶うなら大学時代の僕の行動を呪いたい。誓って、誓って若気の至りではない。
「喫煙者ですら無いのに、認可証を取った貴方が何に誓うのかしらね」
「ぐぬぬ」
と、恥ずかしさを紛らわす為に、先輩から顔を背ける。恥ずかしながら言ってしまうと。惚れた弱み、という奴だった。
世界が滅ぶ前には、『世界が滅べば、少しは先輩と対等になれるだろうか』などと不謹慎な事を考えたこともあったが、いざ滅んでみれば何のことは無い、先輩はとある理由から、以前より強くなり、二人の力関係は、より隔絶、確定したものになっていた。
「あの頃の君は可愛かったな。子犬みたいで、他の女も結構気にしてたんだから」
と、先輩はいう。そう云う情報は、世界が滅んだ今になって知っても何の意味も無い。
「じゃあ当時知りたかった?」
そうですね、その人が先輩より魅力的なら、あっさり鞍替えしたかもしれません。と、どうしようもない嘘をついた。我ながら面倒な女々しさである。
僕が先輩から顔を背けていると、「ほら、拗ねないで」と言って、先輩の気配が近く。気付けば、首元に先輩の吐息があたる間合いだった。ふわりとタバコの香りが僕を包む。何となく他のソレよりも甘ったるい気がしたのは、僕の錯覚だろうか。
「世界が崩壊したお陰で、私とこんな事も出来るじゃない?」
昼間から、こんな場所で。ね?
しなやかな指が、僕の首筋を撫でる。ムードも何もあったもんじゃ無いが、条件反射でゾクリと首が鳥肌立つ。
「な、こんな昼から!」
そのまま指は僕の背けた顔、唇へと這う。震える僕の唇を指先が弄ぶ。ふわりと先輩の匂いがして、ん、という小さな声。瞬間、先輩が首を甘噛みにする。柔らかな舌が、噛み跡をなぞるように這う。
「うゃぁ!?」
「ほら、暴れちゃダメよサザンカ、こっち向きなさい」
「……っ!」
「……『出来ない』じゃない」
さっきまで僕の首筋を嬲っていた唇が、声が、麻薬のように左耳を犯す。
「出来ないってナニが!?」と、凡庸なツッコミを入れる事も叶わずに、ただ顔が首が耳が、熱を持つのがわかる。先輩の手は僕の顎に添えられ、くい、と僕の背けた顔を自分の方に手繰り寄せて、
「お、お昼ご飯作ってきます!」
僕は撤退した。先輩のペースに乗せられてこのままだと、昼にもかかわらず「仲良くして」しまいかねない。それはマズイ。世界が滅んだ今、自堕落に過ごしても、バチは当たらないだろうが、残念なことに、僕はチキン野郎なのだった。
「続きは夜ね」
と、去り際に聞こえた声は、けれど聞こえなかった事にしておこう。
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火を熾し、少し前に近くのレストランから拾ってきたパスタを茹でて、ぼくと先輩は昼食を済ませた。
下のレストランまで移動するのが億劫だったので、近くの「会議室だった部屋」で床敷きを剥いで、そこで火を熾した。火種は先輩のマッチの予備。燃料は散らばっていた「書類だったもの」。このビルの社員達が見れば阿鼻叫喚するかもしれないが、あらゆる物が悉く滅んだ現在、必要書類など一枚もない。企画書、収支報告書、領収書、etc、etc、etc、すべてはただの紙束である。
「あぁ、崩壊に感謝ね」
言って先輩は紫煙を吐く。
食後の一服を、楽しんでいるようだ。この様子では、さっきの様なことが急に起こりはしない。断じて、断じて残念では無いが。
「不謹慎にも程がありますかねぇ」
「禁煙法すら無い今、どこにそんな概念があるのよ」
と、先輩は笑った。ゆっくりと紫煙をはく先輩の横顔は、かつて僕が付いて行った喫煙所での顔よりも、幾らか安らかだ。狭い所に押し込められて吸う必要が無くなったからか、世間という大きな檻に押し込められる必要がなくなったからか、或いは、僕の知らない理由が、きっとあるのかもしれなかった。
……結局のところ、世界が崩壊でもしない限り、喫煙者達の楽園は訪れなかった。先輩を含めて、彼らは何とも生き難い星の下に生まれていたらしい。
「喫煙者の楽園がこんな世界だとは」
「イチジクは甘露ね」
上機嫌な先輩は笑う。何とも見惚れるような笑みである。短くなったタバコを右手に、間髪入れずに次を吸おうと、タバコが入っているはずの缶に人差し指と中指をつき入れて、無遠慮にしなやかな指先で探る。
……少し身を強張らせて、それから缶をつまみあげて、自らの目で確かめて……。
先輩は、この世の終わりが訪れたかのような顔をした。そんな顔をしなくたって、この世は進行形で終わっているところだ。
「さ、サザンカぁ……。私のタバコが」
「吸い過ぎですよ。缶は少ないから大切に吸うって、自分で言ったの忘れてたんですか?」
世界全席、喫煙席化。
肩身がせまい世界が滅んで、気兼ねなく煙草を吸えるようになったかと思えば、今度は容易に入手できない、という当然のオチが彼らを待っていた。




