Remembrance of songs Past〜失われた歌を求めて〜
一羽の烏は、錆び付いた鳥籠の中で鳴き続けていた。
紡ぐべき詩も思い出せず。
足輪を繋がれ、籠の外に出ることもできず。
何故俺はここにいるのか?
何時からここにいたんだろうか?
それすらも、思い出せない程に記憶は薄れ歪んでいく。
だから、その烏は、ただ命じられるままに弱者を殺し、駆逐し、失われた歌を求めて、空を彷徨い続けていた。
霞む景色。
白くぼやける境界線。
まるでぬるま湯に浸かっているかのようなまどろみに包まれ、彼は物語を見せられる。
主人公は自分。
虚像か、実像か、手を伸ばしたら届きそうなのに、己の意思で指を動かすことすら叶わない、そんな世界。
シナリオはいつも同じだ。
鋼鉄の翼で空を駆ける彼は、そう、何かに追われている。
もっと早く、もっと高くと自分を急かそうとも、底なし沼に足を踏み入れたかのように、思い通りに動けず、後方から迫る黒の奔流に飲み込まれ、翼をもがれるのだ。
いつもどうにかしようと足掻くのだが、彼に結末を変えることは出来ず…いつも空から堕ちる不快なシナリオだった。
何度も見せられたそれは、過去の記憶か、はたまた夢か。
だが、その日は違った。
歌が聴こえたのだ。
不意に流れ出したメロディーは、どこか懐かしく、彼の胸を撃った。
衝動…とでも言うのだろうか?
力を失った身体に血流が流れるが如く、渇ききった身体に水を流し込むが如く、その旋律は彼を震わせた。
光の届かない暗黒の世界に唐突に訪れた光は、彼を誘い、そして、情景が変わる。
そこに、二人の幼子と、ギターを弾き語り、歌を歌う妙齢の女性がいた。
幼子は、その女性自身の子では無さそうであったが、目を爛々と輝かせ女性の歌を聴いており、とても慕っているように見えた。
やがて、歌い終えると、女性は幼子に語りかける。
「二人は将来何になりたい…いや、何を成したい?」
およそ、幼子に問いかけるような質問ではなかったが、二人のうち一人の少女が私に答えさせてと言わんばかりに勢いよく手を挙げると、身体を前のめりにして、自身の思いを主張した。
「アタシはね〜歌手になるんだ!」
「ふふっ…聞かせてくれ、歌手になって何を成す?」
微笑みながら女性は再度問いかける。
「えっとね、ーーの歌をみんなに…世界中に届けたい。そしたら、そしたらさ、みんな笑顔になって…んーよく分かんないけどイイカンジになるよ、きっと!」
それを見ていた彼は、少女の曖昧な回答に思わず言葉を紡いだ。
「なんだよ、それ。」
その言葉は、少女とともに女性の歌を聴いていた幼子のもう一人、少年の口から発せられた。
その時点で、ようやく彼は、その少年が自分自身であることに気づく。
呆れたような表情で、少年は少女に疑問を呈した。
「じゃあ、お前は何を成す?」
少女の夢に疑問を抱く少年の様子を見て、女性が尋ねる。
「ボクはーー」
少年が自身の夢を告げる。
その音は、まるで霧のように霧散して、彼の元へ届かない。
何て言ったんだ?
この少年…いや、俺は、この時何てーー
自分は何か大事な事を忘れているのではないか?
そんな焦燥感が彼を襲った。
と同時に、目の前の情景が急に白けて薄れていく。
あ…待ってくれッ!
まだ、消えないでくれ!
そんな、彼の叫びは言葉にならず、気がつけば、歌を歌っていた女性の顔も、少女の顔も知らぬ間にぼやけて、思い出せない。
ただ、声だけが響いていた。
「プハハッ!そうか、面白いなぁお前達は…。じゃあ、そんな二人にこの歌を贈ろうじゃないか。」
そう言うと、女性はギターを鳴らし、激しい旋律を生み出した。
そして告げる。
”これは、敗者を慰める歌じゃない。
英雄を讃える歌でもない。
お前達の行く先がたとえ雨空で、冷たい雨に打たれようとも、その歩みを決して止めるな。
悔しい時は叫べ。
悲しい時は哭け。
傷付けられたら牙を剥け。
醜く足掻いて見せろ…己を失わぬように。
そう、これはーー自由への凱歌だ”
女性の言葉が彼の心を揺さぶる。
そして、奏でられる旋律と紡がれる言葉は、重なり、混じり合い、一つの歌となる。
ああ、この歌だ。
この歌が俺を奮わせるのか。
彼はその歌を聞きながら、そして、口ずさみながら、何度も何度も見せられた長い悪夢から解放される。
やがて、女性の姿も消え、紡がれる歌さえも徐々に小さくなってゆく。
消えゆくソレを掴もうと、彼は虚空に手を伸ばした。
*****
Oct/12/2035 17:45
AFTS東北方面校
「待ッーー」
むにゅう
急に明るくなる世界。
先程と違い、音も匂いもハッキリと感じられた。
むにゅむにゅう
手の平に伝わる確かな感触が、これは夢ではないと伝えている。
ぼやけていた視界も、徐々に焦点が重なってきて、自身が掴んでいるものの正体が明らかになった。
「ホイ…はにしとんだよ、ほめぇ。」
手の平で掴んでいたものが何か言葉を発していた。
その声色には何か非難めいたモノが含められていたが、モゴモゴと喋りずらそうにしており、ハッキリと伝わっていなかった。
それもそうだろう。
彼が掴んでいたのは、桃…ではなく、メロン…でもなく、そう”顔”だったのだ。
いわゆるアイアンクローの要領で目の前にいる女性の顔を真正面から掴んでいた。
だから、口元が塞がれて上手く喋れなかったようだ。
「あ、スマン。」
男は素直に謝った。
そして、自身が置かれている状況を把握する。
アルコール系の消毒液の匂い。
体はやや硬い簡易ベットの上にあって、上体のみを起こし、目の前のオリーブ色の作業着を着た女の顔を鷲掴みしている。
「ホイ…ひつまでふはんでんはよ。」
ああ、そう言えば…
女の発する判然としない声を聞きながら、男は自分の現況を理解した。
ここは、戦機搭乗者養成学校東北方面校で、俺はその訓練生「橘薫」だ。
だがーー
「あれ?何で俺ここに?」
「はからーー」
目の前の女性が何かを伝えながら、拳を振り上げる。
そして、瞬きの狭間、コマ送りのように振り下ろされたソレは、橘のみぞおちへ吸い込まれた。
「ーーいつまで掴んでんだよッ!」
「ハウッ!?」
衝撃
女の拳が橘のみぞおちにめり込み、彼の身体は、手足をピンと伸ばした状態で腰を中心にVの字に曲がる。
たった今、意識を取り戻したばかりの橘は、何ら警戒していなかった。
だから、その容赦ない一撃は、彼にとってまさに命を削る暴力の塊だったのだ。
ベッドの上にうつ伏せにひっくり返った彼は、芋虫が這い進む時と同じような姿勢で腰を持ち上げ、腹を抱え、ウンウンと唸る。
「ふぅー、あのなぁ…」
女は、深い息を吐きながら言った。
未だ続く痛みに顔をしかめながら、橘が何事かと女の方に視線を向ける。
その、吊り目と八重歯が印象的な容姿に橘は見覚えがあった。
「ヅゥ…音無ぃ…一体、フゥフゥ…何のつもりだ?」
絞り出すようになんとか非難の声をあげる。
「何のつもり?それは、こっちのセリフだっつーの。」
乱れた髪をかきあげながらその女「音無紫苑」は、橘を見据えた。
「フツーよぉ、こういうハプニング的なイベントの場合、なんかこう…もっとドキドキさせるような展開になるべきだろう?」
「…は?」
痛みに耐えつつ、ようやく体制を元に戻した橘には、余計な事を考える余裕はなく、音無の言わんとしている事がよくわからなかった。
音無が続ける。
「だから~例えば”壁ドンからの耳元での囁き”とか”押し倒し床ドンからの××とか、あとは~」
頬を赤らめながら、何を妄想しているのか、モジモジと愉しそうに語り出す音無。
「ーーなのに、アイアンクローとはな…やってくれるぜ。ていうか、せめて胸だろ!?そしたらアタシだって悲鳴の一つぐらいーー」
「ほい。」
「ひっ!?」
ぽよん
言われて、橘が音無の胸部に触れた。
そして、
「ぶっ殺す!」
「ドゥンッ!?」
腰の回転を利用した見事なボディブロー。
変な悲鳴をあげた橘の右肋骨の下、一番防御の薄いところを的確に、身体の中心に向かって打ち抜かれている。
その衝撃は、内臓を揺さぶり背中から一気に抜けた。
うわぁぅわぁぅぁ…
橘の声がその部屋に木霊し、床から浮き上がった体が再度ベッドの上に沈んだ。
「ハァーハァー」
乱れた呼吸を整え、音無がはき捨てるように言った。
「今日は、この位にしといてやる。次やったらどうなるかわかってるんだろうな?」
そして、まるで安いドラマのチンピラみたいな台詞を続けた。
フフンッと鼻息を鳴らしたその表情は「実は一度言ってみたかった台詞を言ってやった」というような満足気なドヤ顔で…
だから、
「ぅぅッ…ちなみに…どうなる?」
そんな余裕もないだろうに、なんとなく橘は尋ねた。
「ふぇッ?」
予期していなかったのだろう、その質問を。
驚いた様子で目を見開くと、腕を組んで「えーと、んーと」と必死に思考をめぐらせていた。
考えてなかったのかよ…。
ある意味予想通りでもあったその結果に、半ばあきれ気味で回答を待つ橘。
痛みがある程度引いてきたころ、時間にして十数秒だろうか。
長い時間をかけて目の前の音無が考えに考えて導き出した答えは、
「つ、次また同じことやったらなぁ…ア、アタシがめちゃんこ怒ることになるぜ。」
!?
指を指しながら橘に言い放たれた言葉
衝撃だった。
そして、橘は確信する。
この子…やっぱりアホな子だ。
「くっ…覚えてろよ!」
自分でもいたたまれなくなったのか、音無はまたもやチンピラがはきそうな捨て台詞を言って、部屋から逃げるように出て行く。
「一体、なんだったんだ?」
その背中を見送って橘は一人自問する。
しかし、その問いに答えたのはーー
「あーあー、せっかくお見舞いに来てくれたのに、追い返しちゃったんだ。」
聞き覚えのない女の声、それは、ベッドの脇に天井から垂れ下がったベージュのカーテンの向こうから聞こえてきた。
見舞い?というか…
ベッドの上から手を伸ばし、そのカーテンを開ける。
視界に広がったのは、白を基調とした空間。
壁際に配置された戸棚には薬品や医療器具と思われる備品が納められており、橘が寝ていたベッドのほかに5つのベッドが横並びで置かれている。
ああ、やっぱり
橘が思ったとおり、そこはAFTSの医務室であった。
そして、部屋の隅に置かれた事務机に白衣を着た女の姿を認めた。
「ハロー、ご気分はいかが?」
事務用の回転椅子に足を組んで座っているその女は、橘に見せ付けるように、男を挑発するデザインのストッキングで包まれた脚を、艶かしくゆっくりと組みかえると陽気な調子で橘に軽く手を振った。
「惜しい…じゃなかった。あんた誰だ?」
見えそうで見えなかった光景に対する心の声を漏らしつつ、見知らぬ女に名を尋ねる。
この東北方面校の衛生士は40代のおばちゃんだったはずだと自身の記憶を手繰り寄せたが、目の前にいる見事なプロポーションの女性は、その容姿と色気から見るからに20歳代半ば過ぎであることに疑いはなかった。
「橘薫候補生、旧所属での階級は少尉」
「?」
女が橘の疑問には答えず、A4版大のコピー用紙を机から持ち出すと、それを読み上げ始めた。
「日本国防空軍第四航空団にて戦闘機操縦課程を修了し、北部航空方面隊第二航空団へ、間もなく第三次世界大戦が開戦されると、日本統合軍に召集され、独立組織オクシデント殲滅戦等各種作戦に従事、その後、第103特別飛行小隊として中国大陸は南京開放戦に出撃、同任務中、華北平原上における制空戦闘において突如出現した所属不明機により、同飛行小隊は全機撃墜される。」
「いきなり何をーー」
「その中で辛くも生還した唯一の生き残り、それがあなた”橘薫”…で間違いないかしら?」
橘に口を挟む余裕を与えず、一気に読み上げる。
書類を読む際に垂れ落ちた、胸元まである長い髪を左手で耳元まで掻きもどすと、首を軽く横に曲げて橘に同意を求めた。
「…ああ。」
読み上げられた自身の大まかなプロフィールに特段大きな誤りも認められなかったため、わけが分からないと思いつつ、橘は一応同意する。
「いきなり御免なさいね。」
突然のことに呆気にとられた様子の橘に女が謝ると、椅子から立ち上がり、橘に近づく。
「私もこの間着任したばかりで、訓練員の名前と顔を覚えるのだけでも一杯一杯なんだけど…」
と言って、片ひざをベッドの端に乗せ、顔を橘の顔に近づけた。
細い指が橘の頬を伝わり、あご先へ移動するとクイッと視線を合わせられる。
「…気になる人のプロフィールくらいは把握しておきたいからね。」
続きの言葉とともに甘いフローラルな香りが橘の鼻腔をくすぐった。
着任したばかりということは、人事異動か…
しかし、何故、この時期に?
「別に構わないが…結局、あんたは誰なんだ?」
鼻と鼻が近づきそうな位に近づいた女に臆せず、橘が疑問をぶつける。
「私は、沖野蓮華、ただの衛生士、ちなみに絶賛婚活中だからそこんとこ含めてよろしくね。」
ようやく顔を離して、自身の正体を女が明かした。
「…自己紹介ついでに、何故俺がここにいるのかも教えてもらえると助かるな。」
「あら、覚えてないのね。」
蓮華が意外そうな顔をして腕を組み、何かを思案しているのか人差し指をあごに当てた。
「あなた、ペアの音無さんと訓練機に搭乗して、実機訓練中に気を失って倒れたって、ここに運び込まれたのよ。」
「まぁ、後頭部に少したんこぶが出来ているだけだから、特に問題はないと思うけど…」
「たんこぶ?」
言われて、橘は後頭部をさする。
確かに、そこには500円大にぽこりとふくらみが確認できて、橘に鈍い痛みを伝えた。
その痛みが記憶を呼び起こす。
※※※※※
『アイサー!音無、俺はお前の……』
『あ、アタシの?』
『ケツが結構好きだ!』
『オーライ……よくわかった。』
『死にてぇってことだなッ!!』
『ぎゃぁぁ……』
※※※※※
ああそうか、あの時か
「思い出した?」
「ああ…」
「そう、よかった。…じゃあ”昔の記憶”は思い出せたかしら?」
ドクン…
橘の鼓動が高鳴った。
が、「落ち着け」と体に言い聞かせるようにして、それを押さえ込む。
トクン…トク…ン…
「…どうしてそれを?」
少しの静寂の後に、蓮華に聞き返す。
「え?だって…ここに書いてあるし。」
蓮華が先ほどの書類を指差し、告げる。
「戦闘時・被撃墜時における過度なストレスの負荷により、交戦前後における一部記憶の欠落、解離性健忘の症状が認められるってね。」
そういうことか…
蓮華の言うように、橘は自身の”記憶の一部”が欠け落ちていた。
それこそ、救出され目を覚ました時は、自分の名前すら思い出せなかった様子で、先のプロフィールについても、後から自分で資料を読んで記憶したものであった。
解離性健忘…
いわゆる「私は誰、ここはどこ?」という症状の事だ。
生活に必要な知識や経験は残っているものの、自身に関する記憶の欠落が何かしらの受傷・発症によって、それ以前の記憶が抜け落ちた状態。ある地点から過去の記憶がなくなってしまうのだ。
「いや、そっちはさっぱり…」
首を左右に振り答える。
「ふーん」
「ただ…」
「ただ?」
蓮華が橘の言葉の先を促した。
「あれから…記憶を失ってからよく同じ夢を見る。」
「夢?どんな?」
「…分からない。何かこう気持ちの悪い…嫌な寝汗を掻く夢だ。それが…今日は違った。」
「何がどう違ったの?」
「なんだろうなぁ。何か歌が聞こえた…昔、聞いたことがあるような。」
「ああ!」
蓮華が何かに気づいたのか、ポンッと手のひらを叩いた。
「歌ならさっき、音無さんが鼻唄口ずさんでたわよ。何の歌かは分からなかったけど……、寝起きでそれが聞こえていたんじゃないの?」
「音無が?」
「気になるなら、本人に聞いてみれば?まだ近くにいると思うし。」
「…それもそうだな。」
橘がベッドから「よっ」と声を出して飛び降り出口へ向かう。
「ああ、そういえば治療助かった。」
「いえ、どういたしまして。別にまた来てもいいのよ。」
「ま、叩かれないように気をつけるとするわ。」
橘が医務室から立ち去り、部屋には蓮華だけが残る。
そして、彼女は再度手にした書類に目を落とすと、一人つぶやいた。
「ふ~ん…あれが、凶烏と殺りあって生き残った唯一のパイロットか……にしても」
凶鳥との空戦時の記憶も無くなっている?
都合がよすぎる。
これでは、まるで……
それに、あの反応…動揺とまではいかないが、何かあるはず。
そして…
「音無紫苑、こっちも確認が必要ね。それにあのメロディー……もしかしたら……」
下唇を摘みながら、卓上からもう一枚の書類を手にする。
そこには、音無紫苑の顔写真とともに経歴が記載されている。
彼女の鼻唄を、橘薫は”昔聞いたことがあるような”と言った。
解離性健忘がその程度で回復するとは思えない…
まさか、プルースト効果によって記憶が呼び起こされようとしているのか?
確かに、幼い頃から数限りなく経験したモノ、例えば母親の声などは、脳内の回路が回転して海馬へ生涯の記憶として刻み込まれていると言うが…
「二人のこれまでの経歴に、接触の痕跡は無い…か。」
では、別の何かか?
それとも私の思い過ごしか。
まぁいずれにせよ…
「不安な要素は、排除しておく必要があるわね。」
そう言うと、蓮華は書類を戻し、携帯端末を白衣のポケットから取り出して、何処かへコールする。
Prrr Prrr
「あ、もしもし?私……うん、そう……ひとつ、調べてほしい事があるのだけれどーー」
つながった相手に何かを依頼する蓮華。
その手に納められた黒い毛髪を眺めながら……
こっから物語を加速させる予定!




