シアワセニナール
『仕様変更により怖くない夢を見る薬になりました』
「お父さん。『シアワセニナ~ル』もう一個頂戴」
佐倉サチの願いに対して父は黙って首を左右に振ることで答えた。
それは以前仕事のお土産と称して彼が持ちかえった『自分だけが幸せになる夢を見る』薬である。
正直あの夢にはいい思い出が欠片もないサチだったが、こんな曰くつきの薬を求めるにはそれなりの理由と言うものがあった。
それは兄のことである。
医学部一回生の兄は病気の末期について知り、激しく落ち込んでいたのだ。
「辛いのも怖いのも分かる。けどそれを乗り越えて強くなんなくちゃ、医者になって人の命を預れないんじゃないのかな」
一介の高校生に過ぎない私が言えることじゃないよなあと思いながら父の返答を待つサチ。
「こういうのは本人が乗り越えないといけないことだから」
母はそう一言だけ告げて家事に戻る。
そうなのかな。なんとかならないかなぁと思案するサチに父はとんでもないことを告げた。
「ところで。サチ。気分はどうだ?」
は?
「今飲んだお茶だが。砕いた『シアワセニナール』を少々」
私が飲んでどうする。お父さん。忽ち『薬』は効果を発揮し、サチはまどろみの中に墜ちていった……。
「こんにちは。ここはお化け屋敷です」
おばけやしき?
サチは目の前の怪しげな施設を見る。確かにお化け屋敷だ。冬場なのに。
というか、微妙に寒い。夢の中なのにお囃子の音と屋台の香りがする。
自分だけが幸せになる夢を見る薬のはずなのに。
周囲を見回してみたが、前回の光景はかけらもない。
「事情により仕様を少々変更しました」
ありなんだろうか。それ。
お化け屋敷の管理人を名乗る男は若いのか中年なのか掴めない仮面をしており、服装は若々しいが、背筋が伸び、物腰は落ち着いたものを感じる。
「なんとっ! このお化け屋敷は『怖くない』お化け屋敷なのです」
意味ないじゃないか。そう思ったサチの内心を代弁する声が上がった。
何時の間に他に人が。振り返ったサチの瞳に映ったのは他ならぬ彼女の兄。
抗議する兄妹に仮面の男は軽く解説を始める。
「今からお二人の『恐怖』の感情を盗みますので、お化け屋敷を攻略して取り戻しちゃってください」
捨て台詞を残して『お化け屋敷』の奥に消えていく仮面の男。
なぜそんなものに挑まねばならない。
怖いことがないならそれはそれでいいのではないだろうか。
そう思ったサチに対して、兄はいきなり自分の手に安全ピンを刺してみせた。
「サチ。痛くも痒くもない。これは深刻だぞ」
辛味は痛みだし、無痛症は味を感じない症状をだすことがあると解説する兄。それは困る。すごく困る。
兄が言うには痛みを感じないということは、舌を知らずに噛み切ってしまうこともありえるそうだ。
「『困る』って『怖い』のかな」
「さぁね」
二人は致し方なくお化け屋敷に入っていく。
「俺は怖い顔の男だ」
巨大な顔をした男は赤い顔に弓のようなつり目、金色にらんらんと光る瞳に表情筋が浮きあがった非常に怖い顔なのであるが。
「怖くない」
「だね」
今の兄妹には効かない。当たり前である。今の二人は恐怖を感じない。『怖い顔の男』は睨んでみたり凄んでみたり、冷たい目をしてみたり表情をコロコロかえてみせるが。
「顔を変えないほうが」
「だね」
逆に笑いだした二人。やっぱり二人には通用しない模様。
「人が怒ると復讐される。冷たい顔をしている人間は相手のことを考えない。脅す人間は暴力を示唆する」
男の言葉に二人は頷き、答える。
「じゃ、殴るなり脅すなり、ひどいことしてみたら?」
サチの言葉を聴いて『怖い顔の男』は肩を落とした。
「それなら俺は『怖い男』になっちゃうじゃないか」
いじける『怖い顔の男』をはからずしも慰める羽目になった二人は歩を進めた。
「怖い顔をするからって悪いことを考えているわけでもないよね」
「パパみたいだった」
周囲は人魂はうろつくわ、目玉がはいずっているわ、耳に手足が生えてタップダンスしているわのひどい状況なのだが、二人には『恐怖』がないのでまったく気にならない。
うかつにもタップダンスをしている耳を踏んでしまったサチ。
「あっ! ごめんなさいっ!」
とっさに足をどけ、小さな耳に謝罪する。
「大丈夫。僕はもともとぺちゃんこだから」
明るく冗談で返す耳にほほえむ二人。
「もうしません」
「よろしい」
謝罪するサチになぜか当事者でもないのに誉める兄。
「怖くない相手でも間違ったことをしない。礼儀を尽くすのは本来人の輪から外れるのが怖いからだ。だけど、自然に悪いことをしたら素直に謝れるのは、とても良いことだよ」
耳の言葉がなぜか心に残ったサチと兄はさらに歩を進める。
その先で『使ってください』と書いた看板に目が留まった。
「バットだ」
「軽いね」
よくわからないが持つことにする。
しばし歩くとそこには半裸の。
「俺は暴力を揮うおと……」
情け容赦なく手持ちの武器で殴り倒す兄妹。
「怖くないって凄いな」
「だね」
二人はとりあえずその男を軽く縛っておいた。
「暴力を振われるより、暴力を振るうのが怖いのは暴力は戻ってくるからだ」
仮面の男の声が聞こえた。
気がつくと『暴力を揮う男』は消えていた。
「一方的に暴力を揮う行為は人間の尊厳を傷つけるが、恐怖を無くした人間は際限を無くす」
だから消し去ったと兄弟に告げる男の声。
釈然とせずに二人は歩を進める。
相変わらず蛇が足元を這ったり、背中にこんにゃくがぶつかってきたりと面倒くさいことこの上ない。繰り返すが二人は恐怖を感じることはない。
『責任を取れ』
『私は上司だ』
『立場を知れ』
『死と病』
この四人は適当にあしらった。
責任は取らずに済めば怖くはない。
上司のいうことは聞いておけばとりあえず大丈夫だ。
立場に流れて職務をなしておけば文句はなかなか言われない。
死も病も必ずなるものだ。
しかし、それは何かを失っている気がする。
「だから、理想は捨てず、悪に塗れながらも現実の世界を人は生きるのだ。よき事を成せ」
仮面の男の声が聞こえた。
「本当に怖くなかったね」
「だね」
仲良く外を出た二人の目の前には。
「怖いっ」
「ホントだっ?! 怖いっ!!」
誰も恐れない。何事も恐れない。
すなわち『恐怖』そのものを見つけておびえる二人の人物がいた。
その容姿は、サチにはとてもなじみがあった。
一人は兄に似ていた。というより、そのものであった。
もう一人は。鏡に映った『自分』に酷似していた。
怯える二人と戸惑う二人を尻目に仮面の男は仮面を脱ぎ去る。
にこやかに微笑み、二人のサチと二人の兄に優しく手を伸ばす男。
仮面をはずした男の顔もまた兄そのものであった。