『スウさん』の『さんすう』
友達の『数三』ノートは『さんすう』のノートラベルを途中で二つに切って「すうさん」にしたものであった。
なにこれ。大笑いする佐倉サチであったが、友人から聞く物語は驚愕のものであった。
佐倉サチの通う学校は県内屈指の進学校であり、そのクラスは一応それなりに成績のよい生徒が集う。
筈である。
「栄子。ナニコレ」
一冊のノートを見ておなかを抱えて大笑いしている生徒を見ると少々疑問の余地が見られるが。
勿論。サチである。
「なにって。数IIIのノート」
栄子と呼ばれた少女は澄ました顔でのたうつように笑う残念な親友を見つめる。
「『さんすう』のノートラベルをまんなかで二つに切って、『すうさん』って可愛すぎるわよ」
サチは笑いすぎて涙が出てしまった。目元を指で拭おうとする彼女にハンカチを貸してくれるのはもうひとりの友人、美子。
一人盛り上がるサチに友人二人は呆れていたが。
「これ、くれたのサチなんだけど」
栄子はそう呟いた。勿論サチにはそんな記憶はない。
変な悪夢を見たり、異世界を救ってきたり、自分と想いびと以外は惚れやすくなる薬や自分だけが幸せになる薬を飲む夢なら見た記憶ならあるが。
「ほら。『数学が苦手だ』って私が言ったら、あなたが『これで勉強がんばってって』言ってくれたんだけど」
覚えがまったくない。
「あれは中学生の時のことだったかな」
栄子は不思議な話をしてくれた。
数学の成績に伸び悩む栄子はとある神社で合格祈願を行ったのだが、何故か帰り道に路に迷ってしまった。
「おかしいな。迷うはずがないんだけど」
栄子は頭にもやがかかったような気分に苦しみながら歩みを進める。
しかし歩いても歩いても同じ風景ばかり。知っている街中に見えて同じ道を歩いていると気付いた栄子は近くのベンチに座り込み、休憩をすることにした。
「どうなっているんだろう」
栄子はため息をつく。
「あ~あ。このテスト御母さんに見せるのゆううつ」
唐突に足元から声が聞こえた栄子は驚いてそちらに目を向けた。
「サッちゃん?!」
知り合いに逢えた喜びに思わず抱きつく栄子だが。
「きゃー!」
ビビビビビ。防犯ベルの不愉快な音。
栄子はこの不愉快な音を『サチ』が鳴らしたものだと気がついた。
「近寄らないでッ」
警戒心むき出しで脅える少女に栄子は戸惑う。
この子は確かにサチだと思うが。妙に小さくなっていないだろうか。
栄子は落ち着いて腰をおとし、なるべく優しい声で「サチ」に話しかけた。
「ねえ。あなた、佐倉サチさんだよね」
「なんで知ってるの。おばちゃん誰」
何故二十にもなっていないのにオバちゃんと呼ばれなければならない。
栄子は一瞬ムカッと来たが耐えた。
「私知ってる?」
「知るわけないじゃない」
おかしい。そもそもサチはこんなに小さくない。
「ふうん。おばちゃん迷子になっちゃったんだ」
「うん。数学の成績がよくなくてね」
その言葉を聞いて小さなサチの顔がほころぶ。
「あ。私もなんだ。ほら、これ! さんすうのテストッ」
この程度ならわかる。栄子は幼いサチの疑問や効率のよい回答法を教えて行く。
「こんなに出来るのに、どうしておねえちゃんテストがわからないの?」
「どうしてかなぁ……何処からわからなくなるのかなぁ」
そういえば、考えたことがなかった。何処から勉強が苦手になるのだろう。何処から勉強が面白くなくなるのだろうと。
思案していると、幼いサチがポケットから何か取り出した。
『さんすう』と書いたシール。何枚もある。
「さっき買ったけど、あげる」
少女はそれを指先につけて彼女の眼前に振ってみせる。
「いや、さんすうじゃなくて私が苦手なのは数学だから」
「一緒でしょ」
何処が違うのかを説明しようと思ったが、多分通じない。
困った。思案しようとした彼女は妙に周囲が温かいことに気がついて愕然とした。
さわやかな香り、瞳にやさしいピンク色の光。
そう。桜の花が咲いている。
つまり冬ではない。どうなっているのだ。
暖かな春の光が彼女の頬をやさしく焼く。
戸惑う栄子をよそに幼いサチはシールを手で二つに切って見せた。
「すう さん」
並べ替えて栄子のノートに貼って見せて微笑む幼いサチ。
「スウさんのノートッ!」
にししと笑う少女に栄子も微笑む。
「これで勉強が面白くなること間違いなしッ」
そうかなぁ。そうだったらいいなぁ。
栄子がそう思っていると、気がついたら自分の勉強部屋にいたらしい。
「でもそのシールだけはあったの。私は『スウさんのノート』で勉強して、気がついたら数学が得意になっていたわ」
まさか。
「それ本当?」
美子が聞く。そんな不思議な話、聞いたことが無い。
「う・そ♪」
栄子はそう呟くと、舌を出しておどけてみせた。