オチないお話
佐倉サチはピンチに陥っていた。
と言っても作者の姦計により四度目だったか五度目だったかわからぬ異世界に飛ばされたり、友人のように殺戮機械にトランスフォームするババアの追撃を受けて死ぬほど芋を食べさせられたりしたわけではない。
数学である。
繰り返す。数学である。
大事なことだから。
『数列とか数列とか数列とか!?』
作者より先に三度言っているな。
『漸化式って結局何?! 現役時代から思ってたけど漸化式ってなんなん( ゜д゜)( ゜д゜)( ゜д゜)』
大事かどうか知らないが二度言った。
(※註訳。漸化式……英: recurrence relation; 再帰関係式)
「フレデリック・ブラウンの短編では悪魔召喚に成功はしたが数学が苦手な主人公は魔方陣を描き間違えて破滅する」
やけ食いを敢行する佐倉サチ。
このケーキはいくら食べても太らないケーキだ。さわやかなフルーツの香り。すっと喉を通る優しい風味。滑らかな舌触り。柔らかく鼻腔を通る珈琲の優しい香り。そして血のような鮮やかな色合いのゼリーがかかったベリー系のレアチーズケーキをパクパク。
足元では『耳』や『口』や『腕』などがラインダンスしているが彼女は意に介さない。ここは『悪夢』の世界である。
「というわけで特別講義を」
「帰れ」
意気揚々と登場した夢魔『怖い顔の男』はしょぼーんと肩を落とした。
なぜかその後ろで優雅に椅子に座り、湯気立つ紅茶を手にドライフルーツクッキーをつまみ、彼女に向けて手を振りつつおどけて見せているのは佐倉嬢の母であったが今更驚くに値しない。
「だいたい、娘はちゃあんと自分なりの道を歩もうとしているのです。過保護は良くないのですよ。パ……怖い顔の男さん」
「そうですか」
立つ瀬がないな。父う……怖い顔の男よ。
「取敢えず落ちても死なない。精一杯やっているのはわかるからね」
「励ましなのか身も蓋もないというべきなのかわからないわよ?!」
二次関数と微積と図形じゃなかったら落ちるという瀬戸際である。
夢の中で授業というのは極めて有効な戦法だが反則めいているので彼女は使わない。偉い。
なお、彼女の友人Aは勉学のみならずレポートも夢の中で書こうとして、夢の外に持ち出せずに教授に叱られた。哀れ。
「では恒例のスペシャルアイテム『ヨクスベール』を」
「言って良い冗談じゃないでしょう?!」
成人式の前写真を撮ろうと全力の化粧をしていったら大笑いした父を思いだして思わず食って掛かる佐倉嬢。
「あらあら」
そんな二人の様子を楽しそうに見守る母。ところで母は一般の人間のはずなのになぜ彼女の夢の中にまで登場するのか疑問である。
「母の日ですから」
理解しました。二日遅れだが問題ない。
無敵すぎる。というか頼みますから地の文に返答しないでください。
私事だが作者の母は、母の日になっても山から帰ってこずにケーキを二日遅れで食べることがある。
『怖い顔の男』といろいろ話しているとあっという間に朝が来る。
来てほしくなくても朝は来る。トランスフォーム婆に追撃される友人のように。
どんな関係性だよ。
「落ちても死なない呪いをかけておいたからしっかりやれ」
「嫌です」
バカなやり取りに返答して目が覚めた。朝である。
「てすとだ」
気は乗らないが身体は半自動的に学校に向かう準備を始める。前に進む。足を踏みしめる。進んで止まってまた前に。
落ち続ければ大地を突き抜け空に達する。
進み続ければ落ちているのと同じく空に抜ける。
後退すればまた空に近づく。立ち止まれば大地が支えてくれる。
朝日の影に隠れて今は見えぬ星も銀河も落ちると同時に空に舞う。
無限は視認できぬほど小さな円の中にあるという。
円周率の終着点はないことが理論にて証明されている。
小さな輪の中に世界の全てが収まっているなら、それはとても楽しいことである。
が。
「今日は漸化式なんてない。今日は漸化式なんてない」
落ちても死なないということは落ちても死ねないことである。
漸化式への呪いの言葉を脳内で吐き続ける佐倉サチ。
なんとかなるさ。
そのうちきっと。




