冒険も今日はお休みだ(胃袋もお休みだ)
深夜。
佐倉サチは呟いた。
「おなかすいた」
遠慮なく食え。
「なんか、謎の声が聞こえた気がする。食べたら負けな気が。
早く朝にならないかなあ。朝ごはんまで待とう」
無事に冬休みを迎えるためには試験勉強を終えねばならない。
学生はどこもどの時代も大変なものである。
学生が学業に励むこのシーズンは宴会で大いに羽目を外す大人たちの奇行が見られるが、彼等だって一年間深夜まで頑張ってきたのだ。
「てすとくらいがんばろう」
けなげに気合を入れなおしてあと一時間と決めて休憩に入る。
おなかすいた。
「でも余計なことを言うと絶対異世界に飛ばされるよね」
信じられない事実だが彼女の特殊能力は『失言が実現する』という嫌な能力である。
『今日に限ってそれはない』
呑み過ぎ食いすぎで動けないという返答がかえってきた。
『ぶっ倒れて寝てた。今はお湯呑んで解毒中』
『おいしくなさそう』
『意外といいぞ』
大人ってこんな人ばっかりなのか。作者だけである。
ふつふつと鉄瓶が蒸気を吐き出し、暖房とともに冷たかった台所を温めていく。冷気と深夜までの勉強で疲れた神経に鉄瓶が湧く音が心地よい。
普通なら眠気を覚ます珈琲か緑茶か紅茶。勉強中ならなおさら。
こわばった肩を抱き直してつぶやく。
「うう。さむいさむい」
軽く首をほぐす。
「別にお湯でも良いか」
モノグサできるし。
湯気を吐き出すやかんを手に取り、冷たい湯呑を割らないようにゆっくりと先ほどまで煮えたぎっていた熱湯を注いでいく。
慎重に手のひらに神経を行き届かせて眺める視線の先。湯呑の模様も少し緩んで見える。
ゆっくり熱くなっている湯呑を手に取る。
熱い。
でも火傷するほどではない。両手で抱いてあっちっち。ちょっとだけ試験勉強のことも忘れてしまう。しかし空腹を忘れることができるほどではない。
ため息をついて空腹を紛らわせ、湯気をふうふうとやってみる。
吐息にはじかれた湯気は彼女の頬に朱を与えてくれる。
舌を火傷しないように慎重に啜る。ちょっとはしたないけど夜中だし。
深夜特有の静けさに自らの奏でる小さな音が重なり、消えていく。
口に含んだ火傷しそうなほど熱いお湯。しゅうしゅうと音もせずに口の粘膜が緩んで甘い唾液と混じっていく。
それを口にしばし含み、喉が開いていく感触とともにゆっくりと嚥下すると喉がきゅっと開いて胃袋にほっこり抜けていく。胃がちゅっとそれを吸い上げた。音もなく起きたこれらの事象は擬音という音楽となって彼女の身体を癒していく。
慎重にまた一口。
繰り返すごとに体が緩む。身体が暖かくなって、こころも緩む。
湯呑はだんだん持ちやすくなり、それを弄びながら肩の力を抜いてもう一服。気持ち胃袋以下も落ち着いた気がする。
「おかわり」
500ミリリットルはちょっと多かった。
それにおなかは空いたまま。
ゆっくりちびちびと湯呑を傾げて二杯目を味わう。
味のないお湯は喉を通り、胃袋に吸い上げられ、臓器の隅々までを温めていく。
「おなかすいたなぁ」
まだ夜は明けない。
もう飲めないよね。
三杯目を呑んでいると目元が緩んでちょっと涙っぽくなる。
鼻水もちょっと出そうになって。
「てぃっしゅてぃっしゅ」
肩の力が抜け、指先が軽くなってきた。
力は抜けたけど活力が戻ってきた。
「さ、あと一時間やって寝ようっと」
身体をほぐしたらもう一戦だ。がんばろう。




