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リバース・シンデレラ  作者: 天そば
第二章 雲に隠れる火曜日
7/28

雲に隠れる火曜日 1


 物事には、なにごとにも限度ってものがある。


 ケーキを作るのにある程度の砂糖は必要だけど、度を過ぎると甘くなりすぎて気持ち悪くなるし、言いたいことをすべて口に出すと反感を買うけど、我慢しすぎるとあとで思いもよらない形で爆発してしまう。


 どんなことでも、限度を超えると裏目に出てしまうものだ。わたしはいま、それを痛烈に実感していた。


「雨を降らしてとは、言ってないんだけどなあ……」


 火曜日の放課後、部室へ向かう途中のこと。

 空から、ぱらぱらと雨が降ってきた。


 二限目の体育で外に出たときあまりにも暑かったから、もうちょっと曇ってくれないかなあと思ったけど、まさか雨まで降るなんて思わなかった。


 わたしはため息をつきながら、鞄を頭に乗せて雨避けにする。すぐに止めばいいなと思ったけど、勢いはだんだん強くなっていく。ううん……。グラウンドに出られないほどじゃないけど、一時間も練習すれば髪から雫が滴るぐらいには濡れるかも。



     *



 ジャージに着替えてグラウンドに出ると、バックネット裏のベンチには、既に後輩マネージャーの武田(たけだ)瑞樹(みずき)が座っていた。日除けパラソルで守られたベンチにはキーパーが置いてある。瑞希が先に作っておいてくれたみたいだ。


「キーパーありがとう、瑞樹」

「いえ、ぜんぜんですよ」


 今日の瑞樹は長い髪を二つ結びにしていた。髪型だけ見れば大人しそうだけど、喋り方はハキハキしてて、声も大きい。先輩相手にも変に遠慮するタイプじゃないから、話してて気持ちの良い後輩だ。そういうところ、羨ましいではある。

 瑞樹はわたしの顔を見ると、少し眉をひそめた。


「ユズ先輩、もしかして眠いですか?」

「え? なんでわかったの?」

「いや、なんか目がとろんとしてるから」


 教室であかりにも同じことを言われた。少しは目が開いてきたと思ってたのに。


「昨日、遅くまで起きてたんですか?」

「うん。ちょっとお喋りしてて」

「誰とですか?」

「あー。あの、妹と」

「へえ、仲良しなんですね」


 瑞樹はちょっと冗談っぽい笑顔になり、


「でも、眠たいからって、練習中油断しないようにしてくださいよ。ボールが飛んできたら危ないですし」

「はいはい。大丈夫ですって」


 身体は重いし目はあんまり開いてないけど、さすがにそれは大丈夫。わたしは余裕を持って、そう返事をした。


 そのあと、部員が揃ったところで練習は始まり、キャッチボールに入るころには掃除当番で遅れていたあかりもやって来た。グラウンドに到着して最初に言ったのは、


「やりづらいね」


 だった。雨の中の練習が、ってことだろう。わたしも瑞樹も、まったく反論しなかった。


 昨日の夜も雨が降ったせいでグラウンドの土は湿ってる。小さい水溜りもいくつかできてて、そういうところを歩くたびに靴やズボンのすそが汚れてしまう。でも、マネージャーのわたしたちはまだいい。本当に大変なのは選手のみんなだ。


 湿った土の上を少し走るだけでスパイクの靴底にびっしり泥がついて、足がかなり重くなってしまう。その泥を落とすには、スパイクを脱いで靴底を叩くか、スパイクを履いたまま飛び跳ねて、空中で両方の足をぶつけあうかする必要がある。わざわざスパイクを脱ぐ時間がないから、みんな後者の方法をとってるんだけど、グラウンドのあちこちで選手がぴょんぴょん飛び跳ねてるのはちょっと面白い光景だった。


「後半は室内練習になるかもねしれませんね」


 一向に止まない雨の中で、瑞樹が言う。パラソルの下にいるわたしたちはまだいいけど、濡れたままずっと練習する選手たちは風邪を引くかもしれない。野村先生はそういうところに気を配る人だから、途中で屋外練習を切り上げる可能性は充分ある。


「トレーニングルーム、押さえてたほうがいいわね」


 あかりと瑞樹が頷く。

 トレーニングルームは、体育館の二階にある筋トレ用の道具が一通り揃った部屋のこと。外で練習できないときはそこで筋トレをすることが多かった。ただ、利用するには事前に体育教官室で予約が必要だ。


「あたし行きましょうか?」


 すばやく事態を察し、瑞樹が手をあげる。じゃあお願い、と言おうとしたとき、


「やあっべええ! グローブ体育館に忘れた!」


 そんな悲鳴が聞こえてきた。顔を見なくても誰だかわかる。グローブを忘れるなんてアホなことをやらかし、しかもそれを大声で叫ぶなんて、あいつしかいない。

 ちょうどいいや。わたしは体育館に向かおうとする藤井を呼び止めた。


「藤井くん。ついでに、トレーニングルームの予約入れてきてくれない?」


 キャッチボールの相手を待たせるのが気がかりらしく、藤井は早口にオッケーオッケー、と答え、一目散に走り去っていった。


「藤井君、走ってるあいだに忘れたりしないかな?」


 あかりが心配そうに呟く。わたしはそれに、大丈夫よ、と返した。


「さすがの藤井でも、そんな短時間で忘れたりしないって。『はじめてのおつかい』に出かける五歳児じゃあるまいし」


 ――と、思ったのは、見事に間違いでした。


 グラウンドに戻ってきた藤井は、バックネット裏のあかりと瑞樹を見た途端、


「あ、トレーニングルーム忘れた!」


 と叫んだ。わたしは送球ミスをしたボールを取りにいっていたところだったからバックネット裏にはいなかったけど、それでも藤井の声はしっかり聞こえた。あいつの頭は五歳児レベルなのか。

 頭が痛くなってくる。それと同時に、忘れかけていた眠気が急に蘇ってきた。


 目を揉みながらバックネット裏に戻ると、あかりがわたしの名前を呼び、


「あとで時間を見て予約入れてきてくれない?」


 と言った。わたしは頷き、眠たいとき特有のろれつの回らない声で、うん、わかったーと答えた。



 キャッチボールのあとはノックが始まった。いつもなら、野村先生にボールを手渡すのと、たまにある送球ミスのボールを取りに行くぐらいしか仕事がないんだけど、今日は大忙しだった。


 グラウンドがぬかるんでるせいでボールがすぐ汚れるから、どんどん雑巾で拭いていかないとボールが足りなくなる。だけど、雨が降ってるせいで送球ミスも倍増するから、それも取りに行かないといけない。わたしもあかりも瑞樹も、選手のみんなに負けないぐらい動き回った。

 そんなわけだから、トスバッティングが終わって十分間の休憩に入ると、三人とも口を揃えて


「疲れたー」


 と言って、バックネット裏のベンチに座り込んだ。お喋りをする気力もなく、ぱらぱらと雨がパラソルを叩く音だけが響く。ファールゾーンに生えた樹の下で雨宿りをする選手たちも同じのようで、話をする人はほとんどいない。黙って座ってる人がほとんどだった。


 そんな中でも、嶋くんだけは雨に濡れながら黙々とネットにボールを投げ込んでいた。ときどき首を傾げて、握りかたを変えたり、ボールを離す位置を変えたりしている。

 きっと、ノックのときに送球が逸れたのを気にしてるんだ。今度はスローモーションで腕を振る嶋くんを見て、わたしはそう思った。なにかしっくりこないことがあったり、反省点をみつけたりしたら、嶋くんはいつもこうやって休憩時間をつぶして確認する。練習のときはいつも一番大きく声を出してるし、本当に、どんなときでも手を抜かない人なのだ。

 わたしは嶋くんのこういうところが一番好きなんだな。一心不乱にボールを投げ続ける彼を見て、そんなことを思う。顔は無意識にニヤけてたかもしれない。


 急に、パラソルを叩く雨音が大きくなった。雨が強くなってきたんだ。土砂降りってわけではないから、練習はまだ続けるんだろうけど……、と思ったところで気づいた。


 わたし、まだトレーニングルームの予約入れてない! 早くしないと、他の部にとられる。

 わたしはベンチから立ち上がり、あかりたちに声をかけた。


「ちょっと行ってくるね」


 二人とも、いってらっしゃーい、と手を振って送りだしてくれた。

 グラウンドを出るとき、ちらっと腕時計を見る。四時三分。休憩は四時十分までだから、無理に急がなくても間に合う。



     *



 公星高校の体育館は、グラウンドに背を向けて建っている。しかも残念なことに、裏口や側面からの入り口がなく、あるのは正面玄関だけ。つまり、体育館の右側か左側を通って正面に回り、そこから中に入るしかない。


 左側のルートは、右手に体育館、左手にはプレハブ二階建ての部室棟と、ハンドボールグラウンドがある。部室棟を通り過ぎると公衆トイレがあって、次にハンドボールグラウンドが出てくるという感じだ。通称は『部室ルート』。


 右側のルートは、通称『裏庭ルート』。その名の通り、体育館の裏庭を通る。その裏庭、樹や花が植えられていて少し見通しは悪いけど、さりげなく高級な黒土を使ってるらしくて、『他の土を持ち込まないでください』と大きく書かれた看板まで立てられている。庭は体育館の真ん中ぐらいの地点で終わって、そのあとは『部室ルート』と同じように、アスファルトの道を歩く。左手には体育館、右手にはフェンス。どのルートも、歩いて二分ぐらいで体育館に着く。


挿絵(By みてみん)


 わたしは『部室ルート』を通って体育館に向かった。雨に濡れないように、体育館の軒下を通る。部室があるだけあって、この時間でもけっこう人通りはあった。知り合いも何人かいたから、頑張って上品な笑顔を作って挨拶を交わした。


 部室と公衆トイレを通り過ぎると、左手にはハンドボールグラウンドが見えてくる。ちなみに、『ハンドボールグラウンド』って言っても、アスファルトとか人工芝ってわけじゃない。わたしたちの使ってるグラウンドを小さくしただけの、土のグラウンドだ。ハンド部は火曜日が定休日だから、誰もいなかった。


 そのハンドボールグラウンドを半分ほど進んだところで、『部室ルート』は終わり。右に折れて体育館の正面に回り、中に入ろうとしたとき、


「……ん?」


 思わず声が出た。

 正面入り口の辺りが泥で汚れてる。靴底にたくさん泥がついた人がこの辺りを通ったんだ。見ると、『裏庭ルート』へ続く道も泥で汚れていた。くっきり足跡がついてるわけではないけど、ちょんちょんと泥が続いている感じ。しかも、茶色い泥に混じって黒い土まである。


 校内で黒い土があるところといえば、裏庭しかない。たぶんその人は、『裏庭ルート』を通ってここまで来たんだろうな。そう思いながら体育館に入ると、玄関の靴を脱ぐ場所も泥で汚れていた。さっきの人はどうやら体育館にも入ったらしい。誰だか知らないけど、ずいぶんいろいろ汚して回る人だなあ。


 わたしも靴を脱ぎ、体育館に入る。いちおう靴箱は設置されてあるけど、どうせすぐ出るんだから、いちいち入れなくてもいいや。他の靴はぜんぶ靴箱に収められてるのがちょっと気になるけど、まあいいよね。


 バスケ部のドリブル音を聞きながら、階段を上がる。二階には男女更衣室とトイレ、トレーニングルーム、体育教官室がある。トレーニングルームの予約は、体育教官室にある名簿に記入すればオッケーだ。

 わたしは教官室のドアを叩き、失礼します、と言って中に入る。振り返ってきた体育教師たちに軽く会釈。頭を上げて、入ってすぐ右手の机にある『トレーニングルーム利用名簿』に近寄る。


「あれ?」


 間抜けな声が出た。それと同時に、めちゃくちゃがっくりきた。


 トレーニングルームはもう予約されていた。それも、他の部活にじゃない。野球部にだ。代表者記入欄には藤井一樹とある。予約を入れた時間は四時四分。隣にあるデジタル置き時計を見ると、ちょうど四時六分になったところだった。


 藤井が責任を感じて、休憩時間を潰して予約を入れにきてくれたみたいだ。わたしとすれ違わなかったのは、『裏庭ルート』を通って帰ったからだと思う。けっこういいとこあるじゃん。まあ、予約を入れに行く前にわたしたちに一声かけてくれれば、本当は一番よかったんだけど。


 と、そこまで思って、ひらめいた。


 あの、体育館前の泥。あれは、藤井が通った跡だったんだ。確か、藤井のスパイクは先週買い換えたばかりの新品だったはず。靴底のトゲがすり減っていないぶん、他の人よりも多く泥がつく。そんなスパイクで歩けば、当然、通ったところに泥はつく。体育館の正面入り口から部室ルートに続く道にあんな泥はついてなかったから、藤井は行きも帰りも『裏庭ルート』を通ったんだろう。


 体育館まで来たのが無駄足になって、ちょっと切ない気持ちになりながらわたしは階段を下り、靴を履いて外に出た。


 正面入り口の前は相変わらず泥で汚れていた。その少し右にある蛇口で、体育教師の渡辺先生がしかめっ面でバケツに水を溜めている。傍らにはデッキブラシ。泥を水で流して、掃除するつもりらしい。

 そういえば、この体育館の正面入り口の辺りには下水道がないから、泥とかで汚れても雨で流れないと聞いたことがある。この渡辺先生は神経質で有名で、管理している裏庭を少しでも荒らされてもかなり怒るらしい。こうして体育館の辺りを汚されるのも我慢ならないんだろう。相当イラついているらしく、顔をあげた渡辺先生とばっちり目があったわたしが、こんにちは、と挨拶しても、


「まったく、野球部は……」


 と、吐き捨てられた。

 え、なに? 野球部だけど、なんか悪いことした?

 とりあえず、あんまり関わらない方が良さそう。わたしはなにも言わず、そのまま、『部室ルート』を通ってグラウンドに帰った。行きと違い、帰りは誰も知り合いに会わなかった。



     *



 グラウンドでは、嶋くんは相変わらずスローイングのチェックをしていた。他の部員も体力が回復したみたいで、素振りをしてる人や、キャッチボールをしてる人もいる。

 その中には藤井の姿もあった。樹の下でストレッチをしている。ちょうどスパイクの裏が見えたけど、黒土はついてない。たぶん、どこかで落としてきたんだろう。


「おかえり。遅かったね。どこまで行ってたの?」


 バックネット裏に戻ると、ボールを拭いていたあかりが顔をあげた。冗談を言ってるわけではなさそうな感じだった。わたしは隣に座りながら答える。


「どこでって、普通に、体育館まで。でも、藤井が先に予約入れてた」

「え?」


 あかりが素っ頓狂な声をだした。驚いてるっていうより、わたしの言ってる意味がわからないって感じだった。


「だから、さっきあかりがわたしに、空いてる時間にトレーニングルームの予約入れてきてくれって言ったでしょ? それでいま行ってきたら、もう藤井が予約入れてたの。わたしの着く少し前に。なんかちょっとがっかりしちゃった」


 次に代打で出すぞと言われて打つ気満々でネクストバッターズサークルで待機してたのに、前のバッターがサヨナラヒットを打って、けっきょくなにもしないまま試合終了するとこんな気持ちになるんだろうなとか思った。


 わたしの説明に、あかりはなぜか目を丸くした。何度か瞬きをして、こう答える。


「いや、私、ユズに予約してなんて頼んでないよ」

「え、うそ?」


 思わず、ゆるくなったポニーテールを結び直す手を止めてしまった。あかりはさらりと言ってのける。


「私がお願いしたのは、瑞樹だよ。ユズにはなにも言ってないよ」


 頬っぺたに思いっきりビンタされた気分だった。必死に、あのときのことを思いだす。あくびを噛み殺しながらバックネット裏に戻ったそのとき、あかりは確かにわたしの名前を……。


「あ……」


 呼んでなかった。そうだ、あのときあかりは確かに、瑞樹って言ってた。それをわたしが勝手に聞き間違えただけだ。


「ごめん、わたしが勘違いしてた……」

「私に謝ることじゃないと思うけど……。でもユズ、そんな間違いするなんて、ほんとに眠たかったんだね」

「うん、まあ……」


 自分の間抜けっぷりに呆れてしまう。わたしはもっと、「知的なオンナ」を目指してるはずなのに。


「それじゃあ、いま瑞樹がいないのも、体育館に行ってるからなの?」

「うん。ユズのちょっとあとに行ったよ。私と瑞樹は、ユズはトイレに行ったと思ってたから」


 あかりの言うトイレは、部室棟の隣にある公衆トイレのことだろう。そりゃあ、遅かったね、なんて言葉が出てくるよね。向こうなら、歩いて一分ぐらいだから。


 それにしても藤井め。どうせなら最初から予約入れておけよ。そしたらこんなことにはならなかったのに。

 なんてことを思ったけど、雨に濡れながら嶋くんのスローイング練習を手伝う藤井を見ると、まあ許してやってもいいかな、という気になった。

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