表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
リバース・シンデレラ  作者: 天そば
第一章 メールの送れない月曜日
3/28

メールの送れない月曜日 1


平野(ひらの)ぉ、いまの送球だと、足の速いバッターは内野安打だぞ!」


 ノックバットを持つ野村(のむら)先生が、蝉の鳴き声を打ち消すほどの大声でショートを守る平野くんを怒鳴りつけた。


 公星高校のグラウンドでは、今日も野球部が朝練を行っている。

 選手たちは七時半から練習を開始し、顧問の野村先生も八時にはグラウンドに出て、数分前からはノックバットを握っている。七月九日月曜日、夏真っ盛りなだけあって、太陽がしっかり輝く中での朝練だ。


 そして、グラウンドに立っているのはなにも彼らだけではない。

 高校に入学してから、一年と三ヶ月。二年生になったわたし、川口かわぐち柚香ゆずかは、先輩たちが引退した先週から新たなマネージャー長に任命された。いまも、太陽に焼かれながら健気に練習のサポートをしている。


 個人練習がメインの朝練では、マネージャーは強制参加ではない。だけど、締めに行われるノックでは先生にボールを手渡すマネージャーがいたほうがいいから、できる日は毎日朝練に参加している。こんなわたしってマネージャーの鑑だと思う。


「それじゃあラスト、嶋いくぞ。捕れたら終わりだ」

「はいっ! お願いします!」


 キャッチャーの嶋良次(りょうじ)くんが返事をして、ミットを叩く。男の子にしては少し高めだけど、気合の入った声は凛々しく、わたしは思わず聞き惚れてしまった。

 嶋くんがホームベースの後ろに屈むのを見て、野村先生はフライを打ち上げた。


「キャッチ、後ろ後ろ!」


 野手たちがボールの上がった方向を教える。嶋くんはマスクを外しながら後ろを振り返り、右後方に上がった打球を追いかける。だけど、ボールを見つけるのが少し遅れたせいか、タイミングはかなりぎりぎりだ。

 ――だめだ、捕れない。わたしがそう思ったとき、嶋くんが地面を蹴り、足からボールに突っ込んでいった。足につけた防具と地面がぶつかり合い、ががが、と派手な音をたてる。スライディングキャッチを試みたんだ。


 わたしの角度からは捕れたのかどうか見えなかったけど、立ち上がった嶋くんのミットにはしっかりとボールが納まっていた。


「ナイスキャー、キャプテン!」

「さすが嶋先輩っす!」


 守備についていた部員たちが歓声をあげて、一斉に嶋くんのもとに駆け寄ってくる。わたしは立ったまま、黙ってそれを見ていた。あまりのことに、口に手を当てたまま動けなかったから。

 嶋くん、今日もなんてステキなの!


*




 ノックのあとは、軽いランニングとストレッチ、グラウンド整備と続いた。わたしはマネージャーなので、選手に混じってトンボを持つようなことはせず、グラウンド脇の水道で練習で使用したボトルとキーパーを洗っていた。だけど、スポンジを泡立てながらも、視線はつい、嶋くんを追ってしまう。


 高校球児らしい坊主頭と、大きな背丈。キャッチャーにしては少し細いけど、筋肉はしっかりついた腕と脚。それらとは不釣合いかもしれないけど、どこか優しさを感じさせるつぶらな瞳。そして、常に周りを見ながら指示を出すリーダーシップ。


 ああ、もう、見れば見るほど惚れる。わたしが朝練に参加しているのは、野球部のサポートがしたいから――というのは建前で、単に嶋くんに会いたいからだ。そのためなら、早起きも辛くないどころか楽しみすぎて勝手に目が覚めてしまう。中学のときに一目惚れした彼は、同じ高校、同じ部になって一年以上たっても、わたしの心を掴んで離さない。


 そんなことを考えながら洗っていたせいだろう。もうグラウンド整備は終わったようで、選手たちがトンボを片付けて次々とこっちへ向かって来る。洗い物を手伝うため……ではない。部室へ行くには、わたしのいる水道付近を通らないといけないのだ。


「おつかれーっす」


 横を通り過ぎる部員が挨拶をしていく。そのたびにわたしはそつのない作り笑顔で、


「お疲れ様」


 と返す。それを見た野郎どもはもれなく顔を赤くしたり、にやけたりする。まあ、無理もないことよね。

 すらりと高い身長に、それを強調するようなスレンダーな体型。胸まで伸びたつやのある黒髪と、大きな目。それを縁取る長いまつげと形のいい眉。それらの上品なパーツの中でも一際目立つ、左の泣きぼくろ。わたしのようなパーフェクト美少女に微笑みかけられて、よろこばない男などいないのだ。


 もう、けっこうな数の部員が通り過ぎた。嶋くんも、もうすぐここを通るはず。

 コップのふちをこすりながらそんなことを考えていたら、た、た、た、と足音が迫ってきた。まさか、嶋くん? 振り向くこともできず、わたしはますます必死にコップのふちをこする。


「おー、川口。今日も大変だなあ」


 ――ってお前かい!

 そう言いたいのをこらえて振り返ると、そこには予想通り、ちんちくりんの童顔男がいた。


「選手のみんなほどじゃないわ。藤井(ふじい)くんも、お疲れ様」


 我ながら、そつのない素晴らしいコメントだ。だけどそれを聞いたアホンダラこと藤井一樹(かずき)は、にんまりと気味の悪い笑みを浮かべた。


「お前さあ、いい加減それやめろって。おれはとっくに気づいてんだぜ?」

「なんのこと?」


 不思議そうな顔を作りながら、心の中で舌打ちする。こいつと話をしてイラつかなかったためしがない。これから言うこともだいたい想像がつく。


「だーかーら、そうやって猫被るのだよ。クラスのやつらにもそうやってっけど、お前ほんとは、もっと口悪くて好き嫌いはっきりしてるだろ?」


 ほらきた。案の定。適当に流そう。


「そんなことないわよ」

「えー、しらばっくれてんじゃねーよ」

「ところで藤井くん。早くしないと購買のパン売り切れるんじゃない?」


 わたしが腕時計を見せると、藤井は、あ、と大きな声をだした。


「そうだ、今日はクリームメロンパンがある日なのにっ。じゃあな川口、また教室で!」


 一目散に走り去っていく。こっちは二度と会いたくないわ。

 どうか購買のクリームメロンパンが売り切れていますように、と祈りながら蛇口をひねる。そのとき、


「川口」


 声をかけられた。心臓が口から飛び出そうになる。そうだ、藤井のせいで頭から飛んだけど、彼はまだここを通っていなかったのだ。

 必死に呼吸を落ち着けて、振り返る。


「嶋くん。お疲れ様」

「ああ、お疲れ。ありがとうな、いつもいつも」


 いいのよ、と返す声が少し震えていて、気づかれていないだろうかと不安になる。こんな不意打ちみたいな形で話しかけられると、心の準備が追いつかない。


「嶋くんたちみたいに、朝からグラウンドを走り回ってるわけじゃないから。ぜんぜん楽よ」

「そんなの関係ないよ。朝早くの練習に来るだけで大変なんだから。毎日ありがとな」


 言いながら、嶋くんは少し笑った。

 し、嶋くんが、わたしに向かって笑ってくれた! 突然の笑顔攻撃に意識が遠のきそうになる。

 嶋くんはわたしの足元にあるキーパーを指差して、


「これ、もう洗ったの?」


 わたしは硬直した顔をなんとか縦に動かした。


「そっか。じゃあ、持って行くな」


 ひょいと片手でキーパーを持ち上げ、そのまま部室のほうに歩いて行く。嶋くんが視界から消えると、やっとうれしさがこみ上げてきて、わたしは小さくガッツポーズをした。



「そしたら嶋くん、わざわざキーパーを部室まで持って行ってくれてね! すっごい感激して」


 学生たちの憩いの時間、昼休み。わたしは、騒がしい教室の中で机を向かい合わせて一緒にお弁当を食べる大原(おおはら)あかりに、今朝のことを話していた。


「しかもわたしに向かってちょっと笑ってくれて、もう、それだけでくらくらになっちゃって!」

「そっかあー」


 あかりは玉子焼きを飲み込んで、


「ユズ、今日は朝から幸せだったんだね」

「そう! 幸せだったの!」


 サンドイッチを頬張りながら、何度も頷く。あかりは、よかったね、と言うようににっこり微笑んだ。

 あかりは嶋くんと同じ中学の出身で、わたし同様、野球部のマネージャーだ。愛嬌のある顔立ちとふんわりした雰囲気を併せ持っていて、いつもにこにこ笑って人の話を聞いてくれる。


 早朝授業があるから朝練には来られないけど、真面目にマネージャー業務をこなしている。ただ、あかりは純粋に野球が好きで、わたしと違って変な下心なしに野球部のマネージャーになった。嶋くんがいなかったら野球部になんて見向きもしない、それどろこかこの高校にすら入ってなかったであろうわたしからすれば、本当に、尊敬に値する人だ。


 それに加えて、高校で初めてできた友だちというのもあって、わたしはあかりのことがかなり好きだし、頼りにしている。こうして嶋くんとのことを話せて、なおかつ素を見せられるのはあかり以外にいない。


「今日は部活ないから、朝練でちょっとでも話せるといいなと思ってたんだけど、まさかこんなことがあるなんて」

「やったじゃん。あとでお礼のメールとかしてみたら?」

「メール?」


 予想外の言葉に目を丸くする。あかりは鮭をしっかり飲み込んでから口を開いた。


「うん。今朝はありがとう、助かったよ、みたいなメール。あんまり長文じゃなくても、送らないのと送るのとじゃぜんぜん違うんじゃない?」

「そっか、そうよね」


 優しくされたあとのお礼メール。感謝の気持ちも伝えられるし、うまくすれば雑談にもちこめるかもしれない。恋愛において、お礼メールは基本中の基本じゃないか。わたしとしたことが、浮かれすぎて忘れていた。

 よし、そうと決まれば――。


「いま送る!」


 残ったサンドイッチを一気に飲み込み、スカートからケータイを取り出して、新規メールを作成する。宛先に嶋くんを入力し、いざ、本文入力。


『今朝はわざわざキーパーを運んでくれて、どうもありがとう(^0^) ひとりでキーパーもコップも運ぶのは大変だったから、すごく助かりました(^-^)v』


 ……うん。シンプルで、ちゃんとお礼も言えている。でも、これだけだとちょっと寂しいな。もう一言、なんか付け加えたい。

 なにがいいかなと考えて、パッと浮かんだのは、「次も手伝ってくれたらうれしいな」だった。これでもし嶋くんが毎回手伝ってくれるようになったら、会話する時間もできて一石二鳥だ。だけど、月曜日から金曜日まで、週五日ある朝練のうち、わたしが来られるのは月、水、金曜日だけ。……まあ、五回中三回、半分以上と考えれば悪くないか。


『今朝はわざわざキーパーを運んでくれて、どうもありがとう(^0^) ひとりでキーパーもコップも運ぶのは大変だったから、すごく助かりました(^-^)v これからも手伝ってくれるとうれしいな(笑)』


 打ち終わったメールを読んで、うんうん頷く。けっこういいじゃん。わたしは見た目だけでなく、メール美人でもあるな。


「どう? できた?」


 空になったお弁当箱を包みながら、あかりが興味津々に訊いてくる。わたしは得意げにケータイを渡す。


「うわ、けっこう大胆だね」

「せっかくだから、これぐらいやろうと思って。わたしが業務連絡以外で嶋くんにメール送らないの知ってるでしょ?」

「ああ、そっか。ユズって意外と奥手だもんね」

「じっくり派と言ってよね。それに、どの道いま告白するつもりはないし」


 野球部では部活内恋愛は禁止されている。わたしの言葉を聞いたあかりはにやっと笑った。


「じゃあ、部活引退したあとにはするつもりなんだ、告白」

「ううん。高校のうちはしないわ。するなら卒業してから」

「え、なんで?」

「どうせ嶋くん、引退してもずっと自主トレするに決まってるもの。そんなときに告白なんかすると困らせそうだし」


 嶋くんは高校を卒業しても野球を続けるつもりらしい。就職か進学かはわからないけど、受けるなら野球推薦でだろうから、自主トレは欠かさないはずだ。

 あかりは意外そうな顔でまじまじとわたしを見る。ユズはもっとガツガツしてると思ってた、とその瞳が語っていた。


 ――まあね、本音を言えば、そんな面倒なこと考えずにアタックしていきたいけど、高校のうちはできない。約束は守ると決めたのだ。今回のメールぐらいなら、まあ大丈夫だろうけど。

 わたしは小さく咳払いして、ケータイと向き合った。


「とりあえず、メール送るわ」


 もう一回メールを読み直してから送信ボタンに親指を置き、ゆっくりゆっくりと力を込めて、ボタンを……


「…………押せないッ!」


 初めて嶋くんに個人的なメールを送る。しかも、これからも手伝ってくれるとうれしいな、なんてちょっと大胆なことも書いてある。

 メールを打ってたときはそうでもないけど、いざ送信となると、無性に恥ずかしくなってきた。親指に力が入らなくて、ボタンが押せない。


「あかり、こういうときってどうすればいい?」

「そんなこと言われても……」


 苦笑い。くそ、それが悩んでいる友人への態度か!


「でも、ユズってこういうこと慣れてると思ってた。中学のとき、彼氏いなかったの?」

「わたしにつりあう人なんていなかったから、告白されてもぜんぶ断ってたのよ」

「そ、そうなんだ……」

「そう。とりあえずいまの問題は、このメールよ」


 深呼吸を一つ。再びケータイを睨みつける。

 だけどいつまでたっても送信ボタンは押せず、わたしとケータイのにらめっこは均衡状態が続き、指先は徐々に汗をかいてきた。昼休みはあと三十分。一通のメールを送るには充分すぎる時間のはずなのに、いまのわたしにはとても短く感じる。さあ、送信ボタンを押せ。押すんだ。…………やっぱり、あと三秒たったら押そう。いち、にの、さんで押そう。よしいくぞ、せーの。

 いち、にの……、


「うわあああああああああ!」

「ええっ?」


 突然、後ろのほうから悲鳴が上がった。びっくりして身体を震わせる。なに、誰の悲鳴?


「おれは、おれはなんてことをしてしまったんだああーーー!」


 なんだ藤井か。じゃあいいや。


「ねえ、ユズ」

「ん?」


 あかりが目を見開いて、わたしのケータイを指差している。


「いま、送信ボタン押さなかった?」

「うそ!」


 慌ててディスプレイを見る。するとそこには、「送信完了しました」と表示されていた。

 藤井の悲鳴に驚いた瞬間を思いだす。あのとき、驚いた拍子にボタンを押してたんだ!


「や、やった! あかり、わたしやったわ!」

「おめでとう!」


 あかりとハイタッチを交わし、熱く手を握り合う。よかった。なんだかんだで、かなり不安だったのだ。すごくほっとした。

 ひとしきり喜びをわかちあって一息ついたころ、あかりが言った。


「ユズ、藤井君にもお礼言ってこうよ」

「そうね」


 いちおう、あいつのおかげで送信できたんだし、お礼は言っておかなくちゃ。

 藤井は自分の席に座って頭を抱え、うつむいていた。こいつが急に変な声を出すのはわりといつものことだけど、こうしてあからさまに落ち込んでいるのはあまりない。ただ、どうせまたくだらないことだろうと決め込んでいるのか、周りの人は誰も話しかけていないけど。


「藤井君」


 あかりがまず声をかける。わたしたちを見上げてきた藤井の顔には、悲壮感が漂っていた。う、と息がつまりながらも、わたしはあかりよりも一歩前に出て、藤井に頭を下げる。


「あの、藤井くん、ありがとうね」

「なにが?」


 いまだかつて聞いたことのないほど低い声だ。


「藤井くんのおかげで、なかなか送れなかったメールを送信できたの」


 だから、ありがとう。そう続けようとしたら、


「うわあああ、メール!」


 急にそう叫び、また頭を抱えてうつむいた。

 わたしとあかりは目を合わせ、お互いちょっと首を傾げる。こいつはいったいどうしたんだ。今日は普段より輪をかけておかしい。

 あかりは藤井の肩をたたき、振り向かせた。


「藤井君、メールがどうかした?」


 すると藤井は、幽霊のようにねっとりした動きでポケットからケータイを取りだした。それを見たあかりが、あれ、と声をあげる。


「ケータイ変えた?」

「いや。これ、代用機」


 そうなんだ。わたしはこいつのケータイを注意して見たことなんてないから、変わってるのにまったく気がつかなかった。言われてみれば、このあいだまで赤いケータイを持ってたような気がするけど、いま目の前にあるケータイは黒だ。

 わたしは代用機を指差して尋ねる。


「それで、そのケータイになにかあったの?」


 こくりと小さく頷いて、


「ケータイって、機種によってけっこう操作が変わるだろ? 前のケータイだと顔文字のボタンは右上だったのに、新しいのだと左上になってた、みたいな」

「そうね。覚えはあるわ」


 妹のケータイでメールを打つとき、送信ボタンの位置がわたしのものと違ってとまどったことがある。


「おれが使ってたケータイと、この代用機もけっこう違うんだ。おれのケータイだと『メール保護』のボタンだったところが、代用機だと『メール削除』になってんだよ」


 喋りながら、だんだん藤井の声が震えていく。

 あー、なるほど。なにがあったか、なんとなくわかってきた。


「つまり藤井くんは、保護しようとしたメールを間違えて削除してしまったのね?」


 うわああああああああああ。

 再び藤井は悲鳴をあげ、頭を抱えてしまった。

 わたしは基本的にあまりメールをしない人間だけど、藤井のこの落ち込みようと、わざわざ保護しようとしたということを考えれば、どういった人からのメールなのか想像はつく。

 わたしとあかりは目を合わせ、お互いこくりと頷いた。


「元気だして、藤井くん。間違えて削除しちゃったなら、相手に素直に言って、送り直してもらえばいいのよ」

「そうだよ。代用機の操作に慣れなくて、って説明すれば、相手もわかってくれるし、あんがい、共感してくれるかもよ?」

「そうよね。代用機のあるあるネタで盛り上がるわよ」

「あー、いいネタだね。代用機あるある」


 着うたが一昔前のしか入ってなかったりねー。あははわかるわかるー。

 わたしとあかりが普段よりもテンション三割り増しで会話を繰り広げる中、藤井がぼそっと呟いた。


「……くれないんだ」

「え、なに?」

「送れないんだ、メール」


 どうして、とわたしが訊く前に、藤井は続けた。


「おれが削除したメール、メアド変更メールだったから」


*



 メアド変更メール。

 読んで字のごとく、メールアドレスを変更したときに送るメールのこと。○○高校の××です。メアド変更したので、登録お願いします! みたいなやつだ。

 そのメールを削除してしまった。ということは、つまり。


「おれ、もう高橋(たかはし)さんにメール送れねえよ。どうしよう……」


 藤井の声は重く、激しい落ち込みようが伝わってくる。わたしとあかりはどう言葉をかければいいかわからず、黙って突っ立っている。


 高橋さんというのが誰かは知らないけど、この落ち込みようからして、藤井の好きな人と考えていいと思う。こいつとそういう話はしたことなかったけど、ちゃっかりいたらしい。

 なんとか言葉を絞りだし、藤井に話しかける。


「でも、メアド消しちゃったからって、それで終わりじゃないわ。その高橋さんに直接会って、改めて教えてもらうこともできるし」

「無理だよ。高橋さん、香川の人だから」

「香川?」


 思わず声が出てしまった。香川なんて、飛行機で行く場所だ。


「藤井くん、その高橋さんとはどこで出会ったの? 香川なんて、遠征でも行ったことないでしょ」

「向こうが来たんだよ。去年の夏に東京ドームに野球観に行ったとき知り合ったんだ」


 東京ドームで野球か。あかりも相当な野球好きで、わたしも一度、巨人対横浜戦に付き合わされたことがあるけど、藤井もそうだったとは知らなかった。


「席が隣で、おれも高橋さんも一人だったし同い年だったから、話してくうちに仲良くなって、メアド交換したんだよ。それでいま、オールスターのチケットが取れたから一緒に行こうってメールしようとしたときに、知らないアドレスのメールが来て、誰だと思ったら、高橋さんからで。まず保護しようとしたら……」


 うっかり削除してしまった、と。

 行き場のない思いを発散するように、ケータイをがつがつ頭にぶつける藤井。わたしはその姿に同情を覚えながら、藤井がこうなるのも無理はないと思った。そんな出会いだったら共通の友人なんていないだろうから、誰かに高橋さんのメアドを訊き直すこともできない。

 どうしたものかと考えていると、あかりが藤井のケータイを指差して、


「高橋さんから、一斉送信のメール来たことある? あけおめメールとか」

「来たけど……」

「それにさ、藤井君以外にメール送った人のアドレスが載ってないかな?」


 なるほど、と膝を打ちたくなる。

 一斉送信のメールには、同じメールを送った人全員のアドレスが載っている。その中の誰かにメールを送れば、高橋さんの新しいメアドを訊くことができるはずだ。

 わたしは自分が早口になっているのを自覚しながら、藤井に話しかける。


「そうよ、藤井くん。いまから誰かにメール送ってみたら?」

「そうだな。やってみる!」


 さっきまでのどんよりした動きから一変、藤井は興奮したようにケータイを操作し始めた。表情も少し明るくなっている。

 だけど、その明るさはすぐに影を潜めた。


「駄目だ……。メールはあったけど、他のアドレスが載ってない」

「フィルターかけられてたってこと?」


 あかりの問いに、藤井が頷く。

 ああ、そうだ。いまは、一斉送信しても他の人のアドレスを見られなくする機能があるんだった。高橋さんもそれを使っているんだろう。


「わざわざフィルターなんてかけなくていいのに……」


 あかりが眉間にしわを寄せて呟く。必死に他の方法を考えているんだろうけど、思いつかないのだ。

 どうしよう、藤井にどんな言葉をかけたらいいだろう。もしわたしが同じ立場で、嶋くんのメアドを消してしまう、なんてことがあったら立ち直れないかもしれない。向こうからまた連絡をくれる根拠なんてないし。

 ああでもないこうでもないとわたしが頭を働かせていると、


「そうだ!」


 ふさぎこんでいた藤井が、急に声をあげた。机に手を突っ込んでノートを取り出し、白紙のページを破ると、シャーペンでなにか書き込んでいく。わたしとあかりがぽかんとする中、藤井は得意げな顔でわたしたちに紙を見せた。


 そこには、『luv-g^_^.』と、意味不明の文字があった。


「藤井くん、これはなにかしら?」

「ちらっと見た高橋さんの新しいメアドを、思いだせる範囲で書いたんだ。あと真ん中の辺りに、『rst_e』っていうのもあったな」


 さっき書いた『luv-g^_^.』の下に、『rst_e』とつけくわえる。そのあと、藤井はおもむろに、わたしたちに頭を下げた。


「頼む! この続きを、一緒に考えてくれ」

「え?」


 予想外の言葉に、つい間抜けな声がでてしまった。

 高橋さんのメアドの続きを考える? それって、かなり厳しくない? 力になりたいではあるけど、わたしは高橋さんのことをよく知ってるわけでもない。あかりも同じことを思ったのだろう、ちょっと眉を寄せて、困ったような顔をしていた。

 そんなわたしたちにかまわず、藤井はケータイを見ながら、紙にまたなにか書き込んでいる。


「ヒントもあるんだ。これ、高橋さんのいままでのメアド」


 さっき書いたメアドの下に、


 メアド①『luv-g^_^.bonsaikyo1_3_@』

 メアド②『luv-g^_^.vdnk_golden16@』


 と書き加えられていた。


「メアド①はおれが最初に教えてもらったメアド。で、高橋さんは今年の一月にメアド②に変更したんだ」

「このメアド、二つとも似てるね」


 あかりがそう言うと、藤井は満足そうな表情を浮かべた。


「高橋さん、自分なりの法則を決めてメアドを作ってるって言ってた。だから、それがどんな法則なのか突き止められれば、新しいメアドがわかるかもしれない」


 そういうことか。なら納得だ。でも一つだけ、気になることがある。


「ねえ、藤井くん。なんで古いほうのアドレスも残してあるの? 新しいメアドを登録したら、普通消さない?」

「ああ、なんとなく、昔のメアドも記念に残しとこうと思って」

「そ、そうなんだ」


 いったいなんの記念なんだろう。わたしがそう思ったのが伝わったらしく、弁解するように話をする。


「高橋さんに初めて会った日さ、メアド教えてって言ったら、今夜変える予定だから待ってって言われたんだよ。おれのメアドを高橋さんのケータイに登録しといて、夜に新しいメアドに変えたらメールするって。おれ、正直、体よく断られたと思ってたから、夜ホントにメール来たときめちゃくちゃ嬉しくてさ。それでなんとなく記念にって」

「思い出のメールアドレスってことだね」


 あかりの発言に、へへへ、と照れたように笑う藤井。こいつ、意外と恋愛には素直なのかもしれない。

 藤井は真剣な表情に戻り、もう一度わたしたちに訊いてきた。


「それで、川口、大原。手伝ってくれるか?」


 最初は無理だと思ったけど、高橋さんのメアドは、どんな法則があるのかパッと見でわかるものもいくつかある。これなら、とりあえず考えてみる価値はあるかもしれない。わたしとあかりは目を合わせ、こくりと頷いた。


「そうね。やってみましょう」

「力を合わせれば、なんとかなるかもしれないもんね」

「よっしゃ! サンキュー、二人とも。じゃあさっそく、考えようぜ」


 藤井がガッツポーズで宣言し、わたしとあかりが頬を緩めかけたとき、


「あれ、みんな集まってどうかしたのか?」


 後ろから声が聞こえてきた。

 心臓が動くのをやめて、息が止まる。

 そういえば、今朝も似たようなことがあった。不意打ちは彼の趣味なんじゃないかとすら思う。


「なにかいいことでもあった?」


 早足でわたしたちに駆け寄ってきたのは、他の誰でもない、嶋くんだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ