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リバース・シンデレラ  作者: 天そば
第六章 告白する土曜日
23/28

告白する土曜日 1


 お誘いは突然だった。

 七月十四日、土曜日。梅雨明けを全力で祝うような快晴の空の下で、野球部は午前八時から練習を始めていた。

 ランニング、準備体操、塁間ダッシュ、キャッチボールと、一通りのアップメニューが終わったあとの給水タイム。水を飲み終えた部員からコップを回収しているわたしに、嶋くんが近づいてきた。

 おかしいな、嶋くんのコップはさっき受け取ったのに。そう思っていると、嶋くんは小声で、


「練習終わったあと、暇?」


 固まってしまった。

 練習終わったあと、暇?

 こんなこと訊いてくるってことは、アレか? もし暇だったら――ってことか?

 いや、まて、落ち着け。まだそうとは限らない。わたしの自意識過剰かもしれない。いまは落ち着いて、嶋くんの質問に答えないと。

 明日は練習試合があるから、今日は午前で練習が終わる。そのあとってことは、つまり、午後だ。今日のわたしの午後の予定は……。


「なんにもないよ」


 微妙にカタコトになっているのが自分でもわかった。

 なにを期待してるんだ、わたし。嶋くんはただ単に予定を訊いただけ。別にこのあと、じゃあ俺とどっか行こうか、なんて言うと決まったわけじゃない。あっそう、寂しいやつだなって、鼻で笑われるだけかもしれない。いや、むしろ、ぜったいそうだ! 嶋くんがわたしとどこかに行きたがるなんて、そんな、デートみたいなことをしたがるなんて、ありえない!


「よかった。じゃあ、付き合って欲しいことがあるんだ」

「え! なに言ってんのっ?」


 目を見開く嶋くん。

 しまった、「付き合う」というワードに以上に反応してしまった。


「ご、ごめん、なんでもない。わたしは大丈夫だよ」

「そっか。あのさ、俺、あれを買いに行きたいんだ」


 更に声を小さくして、続ける。


「長谷川さんが予約してる、保田選手モデルのミット」


 ああ、そういうことか。


「そうだよね。早く買わないとまずいもんね」

「うん。明日の練習試合には間に合わないけど……。一樹が、まだ届かないのかって何度も訊いてくるんだよ。早くしないと不審に思われる」


 嶋くんの言うとおりだ。藤井のやつは、あれで妙に鋭いところがあるらしい。わたしと一緒にミットを注文しにいったあかりも、そろそろ届かないとおかしいと首を傾げているかもしれない。


「だから、部活終わりにミットを取りに行こうと思ってるんだけど、川口もどう?」

「あ、う、うん。大丈夫」


 わけがわからないまま、ほとんど条件反射でそう返した。嶋くんは笑い、


「よかった。じゃあ、あとでメールする」


 と言い残して、離れていった。反面、わたしはその場でしばらく立ち尽くす。

 部活終わり、嶋くんと二人で出かける。学校外で二人きり。たぶんきっと、嶋くんにそんな気はないんだろうけど、第三者からすると、あれに……デートに見えたりするんじゃないだろうか?

 あはは……。なに、この状況? こんなことが起こったらいいなあって思ったことはあった。でも、まさか、本当に実現するなんて。

 立ってるだけなのに、異常に喉が渇いてきた。手先も震えてくる。なんか、一昨日の朝練のときもこんなだったな。

 そのあと、練習の合間に針仕事をしているときも、一昨日同様ボールを落としまくったことは言うまでもない。



 目の前には鮭おにぎり。

 時刻は一時半ということもあって、当然、お腹はすいている。

 でも、食べる気がしない。


「気持ちはわかるけどさ、食べたほうがいいよ。一緒にいるときにお腹鳴ったら嫌でしょ?」


 あかりの言うことはもっともだ。四限目の授業でお腹が鳴ったとき、明らかに聞こえていたはずの人たちが必死に笑いをこらえ、真顔を装ってくれる、あのなんとも言えない気まずさを嶋くんと一緒にいるときにまで味わいたくない。味わいたくないけど……。


「いまなにか食べたら、吐くような気がする……」

「だ、大丈夫だよ。緊張で吐く人って滅多にいないから」

「でも、少しはいるんでしょ? わたしがそうじゃないって保障がないじゃん! もうこれ、あげる!」


 売店で買ったものの、けっきょくビニールもはがさなかった鮭おにぎりをあかりに押し付ける。

 練習終了後のマネージャー部室。わたしたちは壁際の長椅子に座っている。このあいだ掃除をしたおかげで、室内はまあまあ片付いていた。

 嶋くんとは、二時に校門で待ち合わせということになっていた。瑞樹は友だちと約束があるとかで先に帰っちゃったけど、あかりは、約束の時間までついてるよ、と言ってくれたのだ。

 そんなありがたい気遣いにもかかわらず、わたしはおにぎりすら食べられない体たらく。さすがに、あかりも少し困ったような表情を浮かべた。


「しっかりしてよー。ボールが当たった日に嶋君と帰るときはけっこう余裕あったじゃん。あの日の前向きなユズはどこいったの?」

「し、しらない。そんなわたし、いない」


 駄目だこりゃ、とでも言いたげに苦笑い。友だちにこんな顔をされるわたしって、とか思わなくもないけど、どうやったってそんな気分にはなれないんだからしょうがない。


「まあ、食べられないなら無理しないでいいからさ。もうちょっとリラックスしたほうがいいよ」

「できるなら、してるよ。なにかいい方法ない?」

「うーん……。イメトレとかは? 校門で落ちあって、一緒にスポーツ店まで行ってミットを買う。で、帰るところまで一通りシミュレートすれば落ち着けるんじゃないかな」


 な、なるほど、イメトレね。いいかも。

 ちなみに、あかりにはミットを買い直さないといけない理由を話してある。簡単に話していいことじゃないけど、あかりなら口が堅いから大丈夫だろうと思った。瑞樹には、さすがに言えなかったけど。


 マネージャー部室は二階なので風通しはいい。全開の窓から生ぬるい風が吹き込み、風鈴が音を鳴らす。けど、いまのわたしはその涼しげな音に癒しを見出すことができず、むしろ、変なプレッシャーさえ感じた。たぶん爽やかな音が嶋くんをイメージさせるからだと思う。

 風鈴が止んだあと、そういえばとあかりは首を傾げた。


「どこのスポーツ店に行くの?」

「あ、まだ訊いてなかった」

「イメトレするなら、それも大事じゃない? ほら、知ってる場所だと安心するかもしれないし」


 確かにそうかも。えーっと、じゃあ、あれか。


「嶋くんにメールで訊いてみたほうがいい……よね?」

「うん。個人的なメール送るのは二回目だから、そんなに緊張しないでしょ?」

「う、うん。まあ……」


 ポケットからケータイを取り出す。簡素に、『どこのスポーツ店に行くの?』とだけ入力して、メールを送った。

 そして、一分もしないうちに返信が来た。思わず、


「はやっ!」


 と声に出してしまう。嶋くん、もともとメールの返信は早めだけど、こんなにすぐ来るとは思わなかった。

 小さく息を吐き、指をかける。どうか、わたしがよく知ってて、リラックスできるところでありますように。

 そう念じながら、嶋くんのメールを開く。だけど――


『武広にある、金本かねもとスポーツっていうところ』


 願った場所とは、程遠い目的地だった。


     *


 武広駅にある金本スポーツ。入ったことはないけど、知ってる場所ではある。すぐ近くを通ったこともある。でも、どう頑張ってもリラックスできるところじゃない。


「金本スポーツ? ユズ、知ってる?」


 隣からケータイを覗いたあかりが尋ねてくる。わたしは油の切れたロボットみたいにぎこちなく首を縦に振った。

「よかったじゃん。イメージしやすくなったね」


 にっこり微笑むあかり。

 よくないよくない。むしろ、悪いイメージしか湧かなくなってしまった。なんでよりによって、武広のスポーツ店なんだ……。他になかったの?

 ああ、いや、落ち着けわたし。こんなときこそ冷静にならないと。ミットは予約してあるから、スポーツ店を変更するのは無理。わたしは武広駅の周辺をうろつかないといけない。とすると……そうだ。

 自分の服装を見下ろす。ワイシャツの胸元には赤いリボン、スカートは濃紺のチェック柄。着崩さず、ごくごくオーソドックスに身にまとった、公星高校の制服だ。このまま武広に行くのはまずい。


 わたしは立ち上がり、ロッカーに向かった。ユズ? とあかりが困惑しているのをひとまず無視して、自分のロッカーを開ける。

 ウェットティッシュやエイトフォー、タオル、靴下、シャツなどをどかすと、奥からは緑色のビニール袋が顔を出した。わたしはほっと安堵の息を吐いた。

 よかった。もしものときのために、ちゃんと置いてあったんだ。

 わたしは袋の中身を取り出して、あかりに見せた。


「なんか、制服のままだと緊張しそうだから、着替えるね」


 ちょっとパンク風の黒いTシャツに、デニムのショートパンツ。それに、深緑色のキャスケット帽。あかりは笑って、


「今日はお姉さんスタイルだね」

「ん、まあね」


 わたし、ぜんぜんお姉さんじゃないけど。

 カーテンを閉め、着替える。動きやすい服に身を包んで、てっぺんで結んでいた髪を下のほうに結び直して帽子をかぶると、あかりがぱちぱちと小さな拍手を送ってくれた。


「似合ってるよ。たぶん嶋くん、新鮮に感じるんじゃないかな」

「そ、そう? ありがと」

「うん。それに、帽子かぶれば湿布もあんまり目立たないね」


 鏡を見る。確かにあかりの言うとおりかも。まあ、いい加減すれ違う人たちにじろじろ顔を見られるのは慣れたから、湿布のことはぜんぜん気にしてないんだけど。むしろ、メイクをする手間が省けてよかったと前向きに考えてすらいる。

 脱いだ制服を畳んで鞄にしまう頃には、時計の針は二時十分前を示していた。


「そろそろ行ったほうがいいね」

「う、うん……」


 ぎくしゃくと頷く。いざ時間が近づくと、だんだん怖くなってきた。


「やっぱり今日、行くのよそうかな……」

「なに言ってんの。嶋くん一人で行かせたら可哀想だよ」

「えっと、じゃあ……代わりにあかりが」

「それはだめ」


 きっぱりと首を振られた。


「三時からベイスターズの試合があるから、私は家に帰る。ほら、早く行って」

「あ。ちょっと、あかり」


 ぐいぐい背中を押され、部室の外に出される。


「それじゃあ、頑張ってね!」


 満面の笑みで、ぴしゃりとドアを閉める。ほとんど閉め出されるような感じで送り出されてしまった。

 まあ、しょうがないか……。あのままぐだぐだしてても、時間を無駄にするだけだし。あかりの優しさだったんだろうなってわかってはいるけど、でも、なんとなく割り切れない寂しさが残った。

 重い足取りで『部室ルート』を歩き、中庭にさしかかろうとした頃に、ケータイが鳴った。

 嶋くん? いや、違った。あかりからのメールだった。


『あんまり悪い風に考えないでね。ピンチはチャンスだよ! でも、どうしても不安になったら電話していいよ。今日なら、試合中でも出るからさー。ヨ・ロ・シ・ク!!』


 思わず噴き出してしまった。今日なら試合中でも電話に出るって、あんたが試合するわけじゃないんだから。普通の日でも出ろよ。

 まあ、なんだかんだで、笑ったら少し気が楽になった。……それに、わたしのことをこんなに気遣ってくれる友だちがいるんだって思うと、心強いっていうか、自分に自信が持てるような気もする。


『ありがとう、あかり。頑張るよ』


 メールを返信して、わたしは少しだけ軽くなった足で校門へ向かった。


     *


 約束の五分前に校門に着いたけど、嶋くんはもう来ていた。けど、その隣には、なぜか藤井の姿まであった。


「おう、遅ぇぞ川口」

「藤井くん、なんで?」


 藤井はにやりと笑い、親指で自分の顔を指差すと、言った。


「暇だから、おれもついていくことにした」


 ショックで血管が切れそうになった。

 こいつと一緒に、電車に乗って、武広まで行く? 無理、ぜったい無理。嶋くんが一緒でも、わたしはストレスに耐えられない。駅のホームから飛び降りてしまうかもしれない。やっぱり、なにか適当な理由つけて帰ろう。そうしよう。

 わたしの決心が固まりかけたとき、藤井がげらげら笑いだした。


「なんつー顔してんだよ、お前。嘘に決まってんだろ。お前らの邪魔はしねえし、これから巨人戦あるから、おれは帰るよ。でも、まさかこんなにあっさり騙されるなんてなあ。お前意外と信じやすいよな」


 わたしの顔を指差しながら、また下品な笑い声をあげる。近くにいた人たちの視線が集まるのがわかった。恥ずかしい。なんでこんな、晒し者みたいにされてるんだ。


「ほんとお前、面白いわ!」

「黙れよチビ」


 いつまでも人を指差して笑ってる空気読めないアホに、つい本音が漏れてしまった。これを聞き逃す藤井ではない。うおっほー、と意味のわからない嬌声を上げた。


「お前やっぱりアレだなあ! ぜんぜん優等生じゃないよなあ!」


 くっそ、ムカつく。覚えとけよこのやろう。どっかで転んで怪我しない程度に痛い目にあえ。

 一通り笑ったあと、藤井は地面においていたショルダーバッグを肩にかけて、ぶんぶんと手を振って校門を出て行った。


「俺たちも行こうか」

「あ、うん」


 それを見送ったあと、嶋くんと並んで歩きだす。わたしをちらっと見て、嶋くんは訊いてきた。


「川口、制服は?」

「あ、ちょっと汚れちゃって。部室にこの服、置いてあったから」

「そっか。用意がいいんだな」

「うん、まあね。変じゃない?」

「ぜんぜん。涼しそうでいいと思うよ。俺とかはあんまり、そういう服は着ないからちょっと羨ましい」

「ああ、そうだよね。男の人はあんまり、この長さのショーパンは履かないか」


 話しながら、あれ? と思う。

 そういえばわたし、さっきまでもの凄く緊張してた。嶋くんとなにを話そう、どんな話題なら盛り上がるかとか、そんなことばっかり考えてた。なのにいま、すごい自然に話してる。

 理由はわかってる。藤井への怒りで緊張がまぎれたからだ。認めたくないけど、あいつの軽口にわたしは助けられたんだ。

 ……狙ってやったとは思えないけど、今日ばかりは、あいつのうざさに感謝するべきかもしれない。



 徒歩での移動時間も合わせて、三十分ぐらいで武広駅に着いた。

 歩いているうちは平気だったけど、電車に乗ると急に嶋くんと話せなくなった。車内が空いているうちはまだよかったけど、人が多くなるにつれて、隣の嶋くんとの距離を詰めなければならず、こんなに近づいて大丈夫かなと心配したり、正面に座るおじいちゃんと妙によく目があうことを必要以上に気にしたりで、会話する余裕なんてなかった。

 とりあえず、そんな電車内での一時が過ぎ、武広駅に降り立ったいま――。

 わたしが落ち着きを取り戻したかといえば、そんなことはなかった。むしろ、より緊張が増したほどだった。


「武高の生徒が多いな」

「う、うん。そうだね」


 改札口付近は、武高――武広高校の制服を着た生徒たちで溢れていた。決して進学校とは言えないけれど、部活に力を入れている武広高校。ほとんどの部が、土曜日も練習がある。

 改札を抜け、駅外に出る。足を進めながら、わたしは帽子を深くかぶり直した。

 全体的に建物が古くて、栄えているとは言えない駅前だけど、歩道は広めに取られている。街路樹もぼつぽつ植えられていて、そのおかげで道には影ができていた。大きさはそこまででもないけど、日差しを遮るものがほとんどないグラウンドに比べたら大分ましだ。


「長谷川さんの弟さ、この辺の病院に入院してるんだって」


 歩きながら、嶋くんがぽつりと言った。


「そっか。だから、金本スポーツでグローブを注文したんだ」

「うん。そこが一番病院から近いそうだ」


 なるほどね。なんでよりによって金本スポーツでと思ったけど、そんな理由があったんだ。……まあ、それでもやっぱり、他のところで注文してほしかったけど。

 わたしたちの横を、自転車が通る。乗っていたのはテニスバッグをかけた武高の女子生徒だった。

 レンガ色のチェックスカートに白いワイシャツと、捻りのないブレザータイプの制服は公星の夏服とそっくりだ。違いといえば、ワイシャツの襟から出ているのがリボンかネクタイかというぐらい。後ろから見ればどっちがどっちかわからない。自転車は角を曲がり、あっという間にわたしたちの視界から消えてしまった。


「こっちをもうちょっと真っ直ぐ行ったらさ、国道に合流するのわかる?」


 嶋くんが前方を指差す。わたしは頷いた。


「その国道沿いをしばらく歩くと、小さいグラウンドがあるんだ。中学のときは、よくそこで練習試合してたよ。大会もあった」

「へえ、そうなんだ」


 そう返すけど、本当はそんなこと、言われなくてもわかっていた。そこには行ったことがあるんだから。

 わたしはそっと、嶋くんの横顔を盗み見る。

 あのときは、こんな形で嶋くんと武広を歩くことになるなんて思いもしなかったな……。


「ん? どうかした?」


 顔を見られていることに気づいた嶋くんが訊いてくる。わたしはかぶりを振り、なんでも、とだけ答えた。

 コンビニを左に曲がって道なりに三分ほど歩くと、金本スポーツの軒先が見えてきた。

 年季の入ったコンクリート製の、小さな建物。それに似合わず看板だけが妙に新しいのは、最近付け替えたからだと思う。黒ずんだコンクリートについた真っ白な看板は不釣合いとしか言えないけど、これはこれで印象に残るのかもしれない。


 隣には、これまた小さい郵便局と、そして……青山あおやま文具店。

 来た方角のおかげで青山文具店の前を通らなくて済んだのは、わたしにとってなによりの幸運だった。

 金本スポーツは、寂れた感じの外観と違って、中は狭いながらも意外と綺麗だった。古いスポーツ店だと棚の上に置かれた用品が埃を被ってることがあるけど、ここはそんなこともない。野球道具しかないのも正解だと思う。こんな狭い店内にあれこれと物を置かれたら、整頓されていてもとっちらかった印象を受けるから。


「すみません、ミットを予約していた長谷川ですが」


 カウンターにいる店主さんに、嶋くんが声をかける。白髪交じりの頭の店主さんは、ああ、と軽く頷いて読んでいた新聞を畳み、


「保田駿一モデルのやつね」


 カウンターの下からグローブ袋を取り出した。袋を開け、ミットをわたしたちに見せる。


「……はい、ありがとうございます」


 嶋くんが笑顔で頷いた。間違いなく、あの、保田選手モデルのミットだった。

 清算を済ませ、金本スポーツを出る。……けど、嶋くんはすぐに立ち止まり、


「グローブのオイル切らしてたんだ。ちょっと買ってくる」


 と、また店内に戻っていってしまった。

 なんとなくついていきそびれたわたしは、お店の外でぽつんと嶋くんを待つ。

 どうしよう、正直、ここに立っていたくないんだけど……。でも、たぶんすぐ終わるから、大丈夫だよね。

 そう思ったものの、嶋くんはなかなか出てこない。ガラス越しに店内を覗くと、どのグローブオイルにしようか悩んでいる様子だった。

 もういいや。わたしも中に入ろう、と引き戸に手をかけたとき。


 右側から、物音が聞こえた。

 反射的に、わたしは音のしたほうに顔を向けてしまった。

 青山文具店のドアが開き、スリッパを履いたおじいさんが出てくるところだった。手にはちりとりとほうき。お店の前の掃き掃除をするつもりなんだろう。

 曲がりかけた腰と、しわくちゃな顔。ぜんぜん、変わってない……。

 視線を感じたのか、おじいさん――青山さんが振り向く。わたしの顔を見るなり、驚いたように目を見開いた。


「あ、あんたは……」


 わたしを指差したまま、固まる。

 ……ああ、そっか。混乱してるんだ。

 どうする? 青山さんはわたしが誰だかわかってない。いまならまだごまかせる。ごまかせるけど……。

 そんな手を使う気にはなれなかった。ここでごまかすと、一生後悔すると思った。

 わたしは金本スポーツから離れ、青山さんの前に立つ。湿布を大きくはがしてみせると、青山さんが、はっと息を呑んだ。


「あの……。あのときは、本当にすみませんでした」


 ばくばく鳴る鼓動を抑えながら、わたしは頭を下げた。

 なにを言われるかわからない。でも、わたしはどんなに罵られてもこの人に文句は言えない。

 だけど、


「いやあ、驚いたなあ……」


 青山さんは感心したように、顎に手を当てた。


「久しぶりだねえ。もう、高校生だろう?」

「はい」

「どこの高校?」


 後ろから引き戸の開く音が聞こえた。たぶん、嶋くんが金本スポーツから出てきたんだ。


「あ、えっと、公星高校です」

「へえ! いいところいったねえ。もう一人のほうは?」

「あっと、もう一人は、べつのところに……」


 ごにょごにょとそう答える。


「そうかい。ま、元気そうで安心したよ。俺たちはもう、怒ってねえからさ」

「あ……。ありがとうございます!」

「おう。ただ、もうあんなことはするんじゃないよ。次は警察、呼ばれるかもしれねえぞ」


 最後の一言は冗談っぽく付け足して、青山さんは笑顔でお店の中に戻っていった。

 笑ってくれた……。青山さん、わたしに向かって笑ってくれた。本当に怒ってないんだ。あんなことしたのに。


「川口」


 嶋くんに呼ばれる。

 いけない、待たせてるんだった。半分以上がはがれたままの湿布を貼り直して、手で馴染ませながら、わたしは後ろを振り向く。

 ――その瞬間、しまったと思った。

 金本スポーツの前に立っている嶋くん。その目には、はっきりと驚きの色があった。


「いまの人、知り合い?」

「あ、う、うん」


 そう、とだけ頷く。嶋くんの瞳から驚きは消え、変わりに、険しさが浮かび上がった。

 まさか、いまの会話を聞いただけでわかったの? わたしが過去に、なにをしてしまったのか。

 駅の方向へ歩きだす。けれど、行きの道とは違い、会話はまったくない。わたしたちのあいだに流れる雰囲気は明らかに異様だった。まるで、これから警察署に出頭しにでも行くかのような。

 ――きっと嶋くんは、さっきのやりとりで気づいたんだ。わたしが青山さんにどんな迷惑をかけてしまったのか。もしかしたら、以前からなんとなく勘付いていたのかもしれない。わたしが本当は、どんな人間なのか……。


 コンビニを曲がる。ここまで、会話は一切ない。

 このまま、嶋くんがなにか言うのを待つ? いや、でも、わたしは嶋くんにあのことを問い詰められたら、たぶん耐えられない。どうにかなってしまう。

 それならいっそ、自分の口から……。


「し、嶋くん」


 思っていた以上に、声は震えていた。嶋くんがわたしを見る。


「さっき、おじいさんとわたしが話してるの、見たでしょう?」

「ああ、うん。見た」

「あの人、青山さんっていうんだ。金本スポーツの隣の文房具屋さんの人」

「へえ」


 そっけない嶋くんの返事。でも、それも仕方ない。

 周りを歩く人たちは、わたしたちがなんの話をしているかなんてまったく気にせず通り抜けていく。ありがたかった。


「青山さんがさっき、わたしに、もうあんなことはするんじゃないって言ってたでしょ? あの、あれって……」


 なにを言われたわけでもないのに、涙が溢れてきた。わたしはうつむく。この涙は嶋くんに見せてはいけないような気がした。


「あれって、わたしが中学のとき、あのお店で万引きしたからなの」

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