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リバース・シンデレラ  作者: 天そば
第五章 暴きだす金曜日
22/28

暴きだす金曜日 4


 特別教室棟の一階、書道室の向かいに、生徒会室はある。わたしには縁のない場所だと思っていたけど、まさかこんな形で訪れることになるとは思わなかった。

 生徒会室のクリーム色のドアに、わたしはそっと右の拳を当てる。浅く息を吐いたあと、ゆっくりとしたテンポでドアを叩く。こんこん、と子気味いい音が辺りに響いた。


 しばしの沈黙。隣に立つ嶋くんは、落ち着きなく視線をきょろきょろさせている。なんの説明もなしにこんなところにつれてこられて、混乱するやら緊張するやらといった状態なんだろう。ごめんね、嶋くん。

 ドアの向こうから足音が聞こえてくる。徐々にこちらに近づいてきて、音が止むのとほぼ同時に、ドアが開かれた。


「あれ? 君たち……」


 森野先輩だった。肩越しに、わたしは生徒会室内を覗き見る。

 普通の教室の四分の一ほどの広さで、中央にはテーブルとパイプ椅子。隅にはアルミ製のロッカー。そこまで広くない部屋に細々と物が置いてあって、お世辞にも片付いているとは言えない。室内に、森野先輩以外の人の姿はなかった。


「どうかした?」

「重ね重ねすみません。少し訊きたいことがあるんです」


 先輩はにこやかに答える。


「なにかな?」

「今日の講演会で、映写機を使ってたじゃないですか。あのとき、体育館内の照明を消したり、カーテンを閉めたりの雑用をしてたのって、生徒会の方々ですか?」

「そうだけど……」


 それがなにか? と言いたげな表情。同じような視線を、嶋くんからも感じた。


「じゃあ、森野先輩もそういった雑用をしていたんですか?」

「いや。僕は、最後に代表の挨拶があったからね。椅子に座って講演を聴いてたよ」

「座ってたって、クラスの列にですか?」

「生徒会の列だよ。わかるかな? 体育館の一番後ろのほう」


 というと、後ろの壁に沿って横一列に並んで座っていたってことね。……ま、そんなのはどうでもいい。大事なのは、森野先輩がクラスの列に座っていなかったということだ。

 これで、大方は確定した。


「森野先輩。最後にもう一つ、訊かせてください」

「いいよ。なに?」


 首をかしげながら、白い歯を見せて笑う。

 わたしは一息に言い切った。


「あなた、明日香先輩の保健室利用証明書を盗みましたよね?」


 ――目の前にいる生徒会長の笑顔が引きつったのを、わたしは見逃さなかった。


     *


 わたしたちのいる廊下にだけ、冬が訪れたような気さえした。肌に突き刺さる冷たさは、明らかに七月のそれではなかった。

 森野先輩が元の微笑を取り戻すと、季節はまた夏に戻った。


「……どういう意味かな、いったい」

「言ったままの意味です。先輩のクラスメイトに、小松明日香さんがいるでしょう? その明日香先輩も、今日の一、二限は保健室に行ってるんです。そのときに貰った保健室利用証明書を盗みましたよね?」

「待って、川口」


 さすがにまずいと思ったのか、嶋くんが割り込んでくる。


「小松先輩の証明書が盗まれたって、それはちゃんと確認したのか?」

「もちろん。わたし、さっき職員室に行ったでしょ? あれ、明日香先輩の利用証明書が提出されているか確認するためだったの。秋山先生の机に置かれていた利用証明書は二枚だけ。封筒を開けて確認したら、森野先輩と小宮山先輩のものだった。でも、明日香先輩にメールで訊くと、ちゃんと提出したって言ってる。……おかしいですよね、これ」


 最後の一言は、森野先輩に向かって発言した。先輩はあくまで冷静に、


「単に風に流されただけじゃないのかな? 秋山先生の机は窓際だから」

「いえ。職員室はクーラーがばっちり効いてます。そんな中で窓は開けません」

「じゃあ、他になにかがあったんじゃないかな? 誰かが机にぶつかって、小松さんの証明書だけが机の下に落ちてしまったとか」

「秋山先生の机の周辺を見てみましたけど、それらしいものはありませんでした」


 先輩はふっと笑い、肩をすくめた。


「見たといっても、ざっとだろ? 見落としてたんじゃないかな」

「その可能性もありますね」


 言ったあと、わたしは小さく笑い、肩をすくめてみせた。森野先輩がやったのと同じように。


「ですけど、誰かに盗まれた可能性も同じぐらいあるんじゃないですかね、森野先輩?」


 先輩の眉がぴくりと動く。だけど、あくまで微笑を崩さぬまま、わたしをしっかり見据えて訊いてきた。


「盗んだのは僕だと?」

「はい」


 視線を真正面から受け止める。ここで目を逸らしたら負けだ。

 お互いがお互いから視線を外さず、じっと睨みあったまま数秒が過ぎる。そんな状況に耐えかねたのだろう、嶋くんが言葉を発した。


「でも、川口。森野先輩が小松先輩の証明書を盗む理由があるのか?」

「大アリよ。二人とも、志望大学が同じ千久万大学なの。ですよね、森野先輩?」


 森野先輩が頷く。嶋くんは、どういう意味かわからない、と言うように首を傾げた。


「この学校にはね、千久万大学の指定校推薦枠があるの。でも、それは一人だけ。つまり森野先輩と明日香先輩は、千久万大学の指定校推薦枠を争うライバルってわけ。だから、森野先輩にとって明日香先輩の利用証明書を盗むのは大きな意味のあることなのよ」


 嶋くんが、はっとしたような顔をする。さすがに察しがいい。

 わたしは森野先輩に視線を移し、


「わかりますよね、先輩?」

「いや。残念ながら、まったくわからない」


 ……おのれ、いけしゃあしゃあと。じゃあ言ってやる。


「校内の推薦基準には、無届欠課、欠席が一度もないこと、という項目があります。そして、保健室へ行くと先生に言伝しておいても、利用証明書を提出しないと無届欠課になる。つまり、明日香先輩の利用証明書を盗めば、彼女の内申に無届欠課をつけられるんですよ。他でもない、森野先輩と千久万大学の指定校推薦枠を争うライバルにね」


 明日香先輩が推薦を出せなくなることは、イコール、森野先輩の一人勝ちを意味する。彼は、明日香先輩の保健室利用証明書を盗むことで、自分の希望大学に合格できるのだ。生徒会活動や勉学に励んで推薦枠を勝ち取るより、遥かに確実で楽な方法だろう。

 森野先輩は笑い、二度三度と頷いた。


「なるほど、そういうことか。確かに、僕には小松さんの証明書を盗む理由があるね。けど、盗んだといっても、どうやって? 職員室の机に置かれた小松さんの証明書を盗むなんて、誰かに目撃されたら大変だ。とてもできないよ」

「もっと人目につかず、確実な方法がありますよ」


 へえ、と呟き、森野先輩は薄く笑った。


「じゃあ、聞かせてもらおうかな。……でも、ずっと立ち話は窮屈だろ? どうぞ」


 森野先輩は後ろに下がり、わたしたちを生徒会室に招く。

 わかるもんなら言ってみろ。そう挑発するような態度だった。

 ふん、余裕でいられるのもいまのうちよ。わたしはちゃんと推理したし、それに――。わたしはそっと顔を横に向ける。


 わたしは一人じゃない。嶋くんが一緒にいるんだから。

 一昨日の別れ際、嶋くんは約束してくれた。今度わたしになにかあったら守ってくれると。

 その嶋くんが、隣にいてくれる。だからわたしは大丈夫だ。

 不安に押しつぶされそうな自分にそう言い聞かせながら、わたしは生徒会室に足を踏み入れた。



 勧められるまま、わたしたちは中央の椅子に腰を落とした。誰かさんは空気を読まずわたしの正面に回ろうとしたので、呼び止めて隣に座ってもらった。隣にいてくれたほうが安心できるとわからないのだろうか。


「それじゃあ、続きを聞かせてくれないかな」


 窓を閉め、上座の席に座ってから、森野先輩は話を再開させた。


「小松さんの証明書を盗むのに、人目につかず、確実な方法とは?」

「はい。先輩がさっき言ったとおり、職員室から証明書を盗むのは難しい。だったら、明日香先輩が提出する前に盗めばいいんです」

「え。でも、そっちのほうが難しくないか?」


 と、疑問の声を上げたのは嶋くん。


「提出する前ってことは、小松先輩が持っているときってことだろ? それならまだ、机の上にある証明書を盗むほうが簡単じゃないか?」

「普通ならね。でも、今日だけは違うの。今日の三、四限は体育館で講演会だったでしょ? 盗んだのはそのときよ」


 ですよね、と森野先輩に振ってみるけど、これで素直に頷くわけもなく、


「そう言われてもね。盗んでないから」


 と、予想どおりの答え。


「ただ、講演会がどうしたのかな?」

「わたし、講演会の前に明日香先輩と会って、そのまま一緒に体育館に行ったんです。そのとき明日香先輩は利用証明書を持っていました。だから、提出したのは講演会が終わったあとということになります。で、そのときに見たんですけど、明日香先輩はカーディガンのポケットに証明書を入れていたんです」


 そう、明日香先輩はカーディガンのポケットから証明書を取り出し、そのあと、もう一度カーディガンのポケットにしまった。つまり、講演会のあいだ、明日香先輩のカーディガンのポケットにはずっと証明書が入っていたということになる。

 そして、体育館内は暑かった。カーディガンやジャージを着た生徒が、一瞬でそれらを脱ぎ出すほど。


「わたし、体育館に入ると、暑さに耐えられなくてカーディガンを脱ぎました。そして、椅子の背もたれにかけたんです。膝に乗せていても邪魔ですしね。上着を脱いだ生徒は、例外なく同じ行動をとったと思います。――もちろん、明日香先輩も」


 そのカーディガンのポケットには、利用証明書が入っている。


「この意味、わかりますか? カーディガンを背もたれにかけるってことは、後ろの席に座っている人なら、ポケットに入った証明書を盗めるんですよ」

「まさか」


 冗談でも言われたかのように、森野先輩は笑いながら首を振った。


「そしたら小松さんが気づくだろう」

「いえ。明日香先輩、講演中は寝ると明言していました。背もたれのカーディガンのポケットに手を突っ込むぐらいでは起きませんよ」


 実際、わたしがあかりに同じようなことをしても気づかれなかった。徹夜明けの明日香先輩はもっと熟睡していただろうから、尚更起きなかっただろう。


「じゃあ、運よく小松さんに気づかれなかったとしても、回りには他の生徒がいるんだ。誰かに見られるよ」

「それが、ある時間帯だけはそうじゃないんです。覚えてますよね? 休憩明け、講師の方はまず映写機を使って話をしたから、体育館内は暗くなったんです。このときなら、明日香先輩のポケットから証明書を取っても人目につきにくいんじゃないですか」


 森野先輩の瞳が、注意して見ないとわからないぐらい微かにだけど、鋭くなった。わたしは、せいぜい余裕があるように笑ってみせる。


「室内が暗くなると、なんとなくですけど、友だちとも話しづらくなりますからね。あのとき、ほとんどの生徒はスクリーンを観るか、もしくは寝ていたと思います。先輩たちの三年十組は一番左端の列。気にするべきは右隣の人だけです。隙を見れば、気づかれずに証明書を盗めますよ」

「……勘違いをしているな」


 森野先輩の声は、普段よりも低く刺々しいものになっていた。


「君は僕が小松さんのすぐ後ろの席だったという前提で話しているが、それは違う。僕はもっと後ろだ」

「わかってます。席順は出席番号順。「小松」と「森野」では、かなり開きがありますからね。だけどあのとき、明日香先輩のすぐ後ろの席が空いていたとしたら?」

「まさか。そんな都合のいい偶然」

「偶然じゃありません」


 森野先輩の言葉を途中で遮り、強い口調でそう断言する。森野先輩と嶋くんの視線を浴びながら、わたしはもう一度言った。


「明日香先輩の後ろの席が空いていたのは、偶然なんかじゃありませんよ。森野先輩、あなたがどかしたんです」


 森野先輩は口許だけで笑い、軽快にすっとぼけた。


「いったいどうやって? エスパーでも使ったのかな」

「そんなわけないでしょう。出席番号は五十音順で決まる。明日香先輩の苗字は「小松」。かなり高い確率でその後ろになる人が、あなたの友だちにいますよね、森野先輩?」


 あ、と嶋くんが声をあげる。


「小宮山先輩か」

「そう」


 小宮山先輩は、講演会の途中で保健室へ行ったと言っていた。そのあとなら、彼の席は空くのだ。


「森野先輩、さっき言いましたよね? 保健室から証明書を盗み出す計画は自分が考え、小宮山先輩を誘ったと。でも、それはただの、小宮山先輩をどかすための口実だったんじゃないですか?」


 森野先輩と小宮山先輩は仲がいいんだろうけど、さすがに、小松の証明書を盗みたいからどいてくれとは言えない。そこで森野先輩は、本当の目的を小宮山先輩から隠すためのフェイクとして、保健室から証明書を盗む計画をたてたのだ。


 嶋くんが言葉を挟む。


「だけど、いくら暗かったからって、クラスメイトには気づかれないか? 小宮山先輩の後ろの人とかに」

「ううん。嶋くんは会ったことがないからわからないんだろうけど、森野先輩と小宮山先輩、体型と髪型がそっくりなの。暗い中で顔は曖昧、髪型と背丈はほぼ一緒。こういう場合、意外と気づかれないものなのよ」


 このことを思いださせてくれたのは、平野くんと糸井くんだった。校門であの二人を見て、暗い中ならどっちがどっちかわからないだろうと思ったとき、不意に森野先輩と小宮山先輩を思い出し、それで、すべてが繋がっていったのだ。


「小宮山先輩が保健室に行くのを見届けたあと、なにか理由をつけて生徒会の列を抜け、クラスの列に行く。そして、何食わぬ顔で小宮山先輩の椅子に座り、明日香先輩の証明書を盗むと、元の席へ戻る。周りのクラスメイトから話しかけられても、無視すればいい。あとから小宮山先輩が保健室に行っていたと知れば、気分が悪くてそれどころじゃなかったんだと納得してくれますから」


 もしかしたら、講演の途中にわたしが見た、明日香先輩のクラスの列から立ち上がった男子生徒は森野先輩だったのかもしれない。明日香先輩の証明書を盗んだあと、生徒会の列に戻っていく瞬間を、わたしは目撃したかもしれないのだ。ま、この点に関してはなにも証拠がないから、口には出さないけど。


「ひとつ、おかしいところがある」


 ずっと黙っていた森野先輩が口を開いた。


「小松さんは、確かに自分の手で証明書を秋山先輩の机に置いたと言っていたんだろう? 講演会の途中で盗まれたのなら、そんなことはできない」

「いえ。できるんですよ」


 森野先輩の言動には、節々に焦りの色が感じられた。それに従って、わたしには余裕が出てきた。挑発するような笑みを浮かべられるほどに。


「真弓先生から聞いたんですけど、森野先輩も今日の一限目は保健室で休んでいたそうですね。そのときに貰った証明書を一、二限目の休み時間に提出せず、三限目の時点で、まだ持っていたとしたら」


 明日香先輩のカーディガンのポケットから、証明書を盗み出す。そして……


「あなたは、自分の証明書と明日香先輩の証明書を交換したんです。封筒には『秋山先生へ』としか書かれていないし、提出するときに、わざわざ封を開けて中を確認しない。明日香先輩は、自分の証明書を提出したつもりが、まんまとあなたの証明書を提出する羽目になってしまったんですよ」


 森野先輩からすれば、ライバルは蹴落とせるし、わざわざ職員室まで行かなくても証明書を提出できる、正に一石二鳥の計画だったのだ。まったく恐れ入る。

 嶋くんが訊いてくる。


「でも、小松先輩が一、二限に保健室へ行ったのは偶然だろ? そのあとでこの計画を考え、実行するなんて出来るのか?」

「ううん。偶然じゃないわ。明日香先輩は前から、今日の一、二限は保健室へ行くって決めてたんだって。たぶん、森野先輩はどこかで明日香先輩がそう話しているのを聞いて、この計画を考えたのよ」


 明日香先輩はもともと、あまり人目を気にしない上、声も大きい。教室にいても、こういうことは平気で言いそうだ。体育館に向かう途中、周りに人がいるにもかかわらずわたしたちにこのことを話したように。


「生徒会の人なら、講演に映写機を使うことも事前に知らされていたはず。だから、体育館が暗くなることも知っていた。計画を練る時間は充分にあるわ」


 これで、一通りの疑問には答えたはずだ。安堵の息を吐きたくなるのを堪え、森野先輩に尋ねる。


「どうですか? なにかおかしいところ、あります?」

「……ないね。よくこんなことを思いつくなと感心するよ」


 だが、と続け、


「あくまで推測でしかない。小松さんの証明書は机の下に落ちた。それを川口さんは発見できなかった。そんな可能性だってある。僕が盗んだというなら、証拠がないとね」


 証拠を見せろ、か。こんなミステリードラマの定番みたいなセリフを、実際に聞くことになるとは思わなかった。ならわたしも、最後まで探偵を演じてやろう。……あんまり、まっとうな探偵ではないけど。


「ありますよ。もちろん」


 先輩の眉が、ピクリと動く。


「明日香先輩は爪を伸ばすのが好きで、短く切るということがほとんどないんです。手先が器用だから、爪が長くても針仕事はこなせますしね。そんな明日香先輩には、ある癖があるんです。暇なとき、手近な用紙やらなにやらに、爪あとをつけて遊ぶっていう、少し変わった癖がね。確か、体育館に行く途中で見せてもらった先輩の封筒にも、そのあとがあったと思います」


 森野先輩の顔色が、初めて変わった。いままで出さないようにしていただろう焦りと驚きが、はっきりと浮かび上がった。


「さっき職員室で見た封筒のうち、一枚にははっきりとその爪あとがありましたよ。他ならぬ森野先輩、あなたの証明書が入った封筒にね」


 森野先輩の指先を見る。どの指も例外なく、爪が短い。


「森野先輩じゃ、爪あとをつけることはできませんよね。あれ、どこの誰がつけたんですか?」


 森野先輩の視線が、右へ左へと動く。どう対応すれば言い逃れられるか、必死に探っていることは明白だった。けど、その態度でもう自白しているようなものだ。嶋くんも、信じられない、といった顔で森野先輩を見つめている。

 やがて、これ以上考えても無駄だと思ったのだろう。森野先輩は、深く深く息を吐いて、言った。


「参った……。僕の負けだよ」


10


 ポケットに手を入れながら、念を押した。


「じゃあ、森野先輩。明日香先輩の証明書を盗んだこと、認めるんですか」

「……ああ。そうだよ。ぜんぶ君が考えたとおりだ」


 半ば毒づくような言い方。

 ま、しょうがないわよね。作戦がうまくいったと安心しかけていたところで、今日知り合ったばかりのよく知りもしない後輩に真相を暴かれてしまったんだから。


「本当なんですか、森野先輩?」


 そう言ったのは、嶋くん。まだ現実を受け入れられないといった表情のままだった。


「なら、さっきの玄関前でのことも、演技だったんですか?」


 森野先輩は、うつむいたまま顔を上げない。それが返事だった。

 嶋くんの言うとおり、あれはぜんぶ演技だったのだろう。

 わたしたちの前に姿を現したのだって、わたしたちがそのまま話を続けると、なにかのきっかけで明日香先輩の証明書を盗んだことを気づかれてしまうかもしれないと思ったからだ。殊勝な言葉をかけ、証明書を破れば、それ以上話が広がることもないと考えたのだろう。


「……疲れていたんだ」


 うつむいたまま、森野先輩は呟くように言葉を紡いだ。


「君たちはまだわからないだろう。大学受験のプレッシャーは、高校受験とは比べ物にならない。まだ七月なのに、すでに不安で押しつぶされそうなんだ。一刻も早く安心したい、落ち着きたい。そう思っていたら、歯止めが利かなくなったんだよ」

「それは……きっとみんな同じです。小松先輩だって。なのに、自分だけ先に合格しようなんて……」

「そうだな」


 さっきまでの疲れきった様子とは少し違う声で、森野先輩は頷いた。


「どうしようもない卑怯者だよ。他人を蹴落として、自分だけ合格しようなんて……。生徒会長という役職の人間が、すべきことではなかった。心から反省しているよ。信じてくれとは言わないけどね……」


 自嘲するように笑う。痛々しい笑顔、と言えなくもなかった。


「自分で自分が情けないよ。君に言われて、やっと思いだしたんだからね。誰でも同じ。みんなプレッシャーと闘っているということを、僕はいつの間にか忘れていた」


 泣き出しそうにも見える表情で、はは、と小さく笑い、そのまま口を閉ざす。

 嶋くんはばつが悪そうに顔をしかめた。うつむいて口を閉ざす森野先輩をじっと見つめ、やがて、わたしに意味ありげな視線を送ってくる。なにかをお願いするような目だった。

 ああ、もう。なんでこんな簡単に同情しちゃうんだ、この人は。それがいいところだって、わかってはいるけど……。

 わたしはしぶしぶ(もちろん、それは表に出さないように)頷いた。


「森野先輩」


 嶋くんが声をかける。


「俺たち、このことは誰にも言いません。ですから、そんなに落ち込まないでください」

「正気か? 僕は、汚い手で君たちの先輩を蹴落とそうとしたのに」

「……魔が差すことは、誰にだってあります」


 優しい口調でそう言ったあと、少しきつめの声で、


「ただ、もうこんなことはしないと約束してください。俺たち、特に川口は小松先輩と親しいから、なにか不審なことがあればすぐにわかります」


 嶋くんなりに釘を刺したのだろう。だけど、これはあんまり効果がない。

 その証拠に、


「ああ。わかってる。もうぜったいにしないよ。……ありがとう」


 頭を下げた森野先輩の口許が、歪むように笑ったのをわたしは確かに見た。

 ――ま、嶋くんがこういうことに関しては期待できないってわかってたから、いいんだけど。


11


「これは、わたしが職員室まで持って行きます」


 差し出された明日香先輩の証明書を胸の前でかざしながら、森野先輩に言った。

 森野先輩いわく、破り捨ててしまうのはどうしても抵抗があったから、ずっと鞄に入れていたらしい。本当は、学校で捨てて誰かに発見されるのを恐れたからだと思うけど、それは言わないでおく。ついでに、取り出した封筒を見たとき、先輩の顔が一瞬引きつったのも、見なかったことにしておく。


「それでは、失礼しました」


 退室するとき、嶋くんは最後まで律儀にそう言った。

 背後で生徒会室のドアが閉まる音を聞くと、わたしはポケットからケータイを取り出す。……うん、オッケー。

 廊下の途中で足を止める。


「ごめん、嶋くん。わたし、森野先輩とメアド交換してくる」

「メアド?」

「うん。あんまり考えたくないけど、もし、またなにかあったらと思うとね。聞いといたほうがいいかなって」


 有無を言わさぬ口調で、続ける。


「すぐ終わるから、嶋くんはここで待ってて」

「あ、ああ。わかった」


 ありがとうの笑顔を向け、踵を返して生徒会室に戻る。

 ノックをすると、森野先輩はすぐに出た。


「ちょっと、言い忘れていたことがあって。嶋くんも待たせてるので、すぐに終わらせます」


 廊下の先にいる嶋くんを一瞥してから、森野先輩に告げる。


「わかってると思いますけど、もう二度と、明日香先輩を蹴落とすようなことはしないでください」

「ああ、うん。もちろんさ。いまも、自分のしたことを反省していたんだ」


 嘘だなと思った。その証拠に、ドアを開けてわたしが立っているのを見たときの、森野先輩の顔。一瞬だったけど、その顔によぎったのは、紛れもない憎悪だった。自分の行いを反省していた人が、あんな顔するか。

 わたしは笑って、胸の前にケータイをかざした。


「よかったです。じゃあ、これを使う機会はなさそうですね」


 中央のボタンを押す。ケータイが録音データを再生する。


『じゃあ、森野先輩。明日香先輩の証明書を盗んだこと、認めるんですか』

『……ああ。そうだよ。ぜんぶ君が考えたとおりだ』

「――本当によかったです」


 ケータイを閉じながら、顔面蒼白の森野先輩にさっきと変わらない笑顔を向ける。


「話の途中で、うっかりケータイのボタンを押しちゃって。録音されてたんです。でも、せっかくだからデータは残しておくつもりです。そうすれば、先輩も卑怯な手を使おうなんて考えなくなりますよね?」


 言いながら、森野先輩との距離を一歩詰める。先輩はたじろぎ、後ろに下がった。よしよし。これで、嶋くんからは森野先輩がどんな表情をしているか見えなくなった。


「お、お前は……」


 震える声で必死に虚勢を張りながら、森野先輩はわたしを指差す。


「僕を、脅しているのか? なにかすれば、いまの音声をばらまくぞと」

「うーん、どうでしょう? ただ、今後、明日香先輩になにか不審な出来事が起きたら、これを聞いてもらうかもしれませんね」

「やっぱり脅してるんじゃないか!」

「なに言ってるんですか。先輩がなにもしなければ、わたしだってなにもしませんって」


 ケータイを閉じ、ため息をつく。


「ただわたし、口約束はあんまり信じないタイプなんです。先輩みたいに笑顔が胡散臭い人が相手のときは、特に。もっといい手を思いついたら、迷わず実行しそうですもん」

「お前……」


 親の敵でも見るような目で、わたしを睨みつける。


「じゃあ、もし僕が正々堂々勝負して、それで指定校推薦で選ばれたらどうするんだ? それでも、このことをばらすのか?」

「明日香先輩が落とされた理由に不審なところがなければ、なにもしませんよ。先生たちが苦渋の決断で森野先輩を選んだっていうんなら、わたしも納得します」


 本当は、指定校推薦からは手を引けと脅そうかとも思ったけどやめた。わたしが余計なことをしなくても、明日香先輩がこんな人に負けるはずない。


「信じるかどうかは先輩の自由ですけど……。信用できませんか?」

「当たり前だ。お前のことなんて信用できるか。さっきの、小松の癖の話だって……。小松の証明書には、爪あとなんてついてなかったじゃないか!」

「ああ」


 ポケットから明日香先輩の証明書を取り出す。封筒の裏にも表にも、爪あとどころか少しの汚れも見当たらない。


「当たり前じゃないですか。そもそも、明日香先輩にそんな癖ないですから」


 絶句する森野先輩。わたしは続ける。


「あれ、ぜんぶ嘘ですよ。証拠がないですからね。無理やり作らせてもらいました」


 ちなみに、職員室にある森野先輩の証明書には自分で爪あとをつけておいた。あの状況では、鞄を開けて明日香先輩の証明書を確認することもできないし、職員室に行くと自分の証明書には爪あとがついている。それで自白してもらうつもりだったけど、まさかあんなにあっさり認めてくれるとは思わなかった。


「じゃあお前は、証拠もないのに最初から僕が犯人だと決め付けてたのか?」

「最初からではないです。先輩の反応を見て、犯人じゃないと思ったらすぐ帰るつもりでした。でも森野先輩、わかるもんなら言ってみろって態度がもろに出てるんですもん。あれじゃ、最初から自白してるようなものです」


 どうせ優等生ぶるなら、そういうところも徹底的にやってほしいものだ。

 わたしは証明書をポケットに戻しながら、


「わたしのことを信用するもしないも、先輩の自由です。ただ、今後なにか卑怯な手を使えば、いまの音声を明日香先輩や秋山先生に公開することになるってことだけは覚えておいてください。わたしは本気ですから」


 森野先輩の右手が動きかけ、すぐに止まる。たぶん、ケータイを奪い取ろうとしたんだけど、廊下に嶋くんがいるのを思い出し、踏みとどまったんだ。


 暴力に訴えられない腹いせだろうか、先輩は小さな声で、このクソ女、と吐き捨てた。

 わたしは首をかしげ、満面の笑みで訊き返す。


「なにか言いました?」


     *


「これでオッケーね」


 職員室を辞したあと、親指と人差し指でマルを作り、嶋くんに笑いかける。

 明日香先輩の証明書は、確かに秋山先生の机に置いた。これでもう大丈夫だ。

 二人で階段を下りている途中、不意に嶋くんが口を開いた。


「それにしても川口、よくわかったな」

「ん? なにが?」

「森野先輩のしたことが。俺、思いつきもしなかった」

「ああ……。あれは、単に運がよかっただけよ」


 運? と訊き返される。


「あの、休み時間にね。あかりと、双子が入れ替わることって可能なのかなって話してたの。わたしはぜったい、なにがあっても無理だと思うんだけどね。でもそれで、入れ替わりって言葉が頭に残ってたんだと思う。だから、森野先輩が小宮山先輩のふりをして明日香先輩の後ろに座ったことに気づいたのよ」


 本当は、元から森野先輩に不信感を持っていたこととか、その他の要素も大きかったんだろうけど。さすがにそんなことは言えない。


「よくそんなことでわかったな。すごいよ川口」


 嶋くんが笑う。いつもなら、それを見ただけで心が安らぐはず。

 ――なのに、どうしてだろう?


 いまの嶋くんの笑顔を見たとき、わたしは一瞬、身体中の産毛が逆立つような、ぞくりとした感覚を覚えたのだった。

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